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期待をしない母

2014年09月30日
子供の時から僕は足が速かった。中学校に入り全国で1位になり、高校時代には世界で4位になった。最初はわあすごいねと言っていた母がその辺りから変わり始めた。食事の時に話をしても「大変だねえ」としか言わなくなった。「別にやめてもいいのよ」と言うときもあった。

僕にとっては競技をする事は、知らない所を見てみたいという冒険に近かった。こんなところまで来た自分を誇らしいと思う気持ち。自分は本当はどのくらいで走れるのだろう。自分に対しての冒険と、限界に対しての挑戦。

ある領域以上になると自分の冒険は人と共有され始め、期待され始める。勝つと自分以外の誰かがうれしいし、負けるとどこかの誰かも悲しむ。「勝ちたい」が「勝たなければ」に変わり、「走りたい」が「走らなければ」に変わる。プロになると、冒険は仕事になった。

「足が速い人」「アスリート」と呼ばれる度に、これが無くなった自分に戻るのが怖くなる。自分に価値があるのではなく、この能力と評価に価値があり、負けるとそれは失われる。恐れが執着を生み、執着が守りを生み、守りが冒険心を阻む。

私の母は期待をしなかった。たまたま足が速くて始まった冒険だから、もし全部無くなったら、また家に戻ればいいかと思えた。そう思わされる事で、私の好奇心は冒険心は守られていたように思う。

少年の冒険は25年も続いた。最後までそれが冒険でいられたのは、どこに行くのかも、どこまで行くのかも期待せず、待っていた母がいたからのように思われる。

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