正義に染まった集団はなぜ自分たちの姿が見えないのか
なぜ正義の集団は自分たちの姿が見えにくのでしょうか。
「自分を知る」のが大事と言いますが、実際には二つの方向があります。
「私が何をしたいか知っている」
「私がどう見られているか知っている」
です。
両者は相関するどころか、関係なく動きます。むしろ逆相関すらありえる。自分が何をしたいか知っていて、どう見られているか知らない人は、うまくいけば無邪気ですが、うまくいかなければ独善になる傾向にもあります。やりたいことをやるが、それがどう見えているかには気を配らないからです。
このような独善的な視点をもつ人たちが集まると、徐々に独善的な集団ができていきます。なにをしたいか知っているが、自分たちがどう見えているかは気づかない集団です。こうなると情報やコミュニケーションも集団内で主にやり取りされるようになり、より独善具合がエスカレートします。
自分たちは果たして他の人からどう見えているのだろうか。それは他の人と交流してみなければわかりません。交流する際には、相互に一定の信頼とリスペクトがなければ本音も出てきません。ですから、外部に対してきちんと敬意を払っていないと自分たちがどう見えるかは教えてもらえない。
独善的な集団で、最も正義に染まりやすいのは、自分たちとは違う意見をバカにしたり、尊敬を失っている場合です。こうなると外からの情報は入ってこなくなり、ひたすらに集団内で独善的な視点が回るようになります。
正義は自分が立っている場所を忘れることで成立します。立っている場所を疑えば正義は相対的だということがわかります。
立っている場所を疑うきっかけは、外からの視点を内部化した時です。内部に外からの視点が入るかどうかは、逆説的かもしれませんが、集団がある程度の自信を持っている必要があります。