やってみよう精神では安全が保たれないのではないかという意見についての反論
「なにかあったらどうするんだ症候群」にたくさんのご意見をいただきました。その中に「とは言えなんでもかんでもやってみようでは、安全管理の点で問題がある」というものがありました。確かに医療や安全保障の分野などでは常に「何か起きないように」想定しています。
ではこの症候群から抜け出ることは、安全を犠牲にすることを意味するのでしょうか。私はそうではないと思っていますが、これを説明するには「リスク」とは何かについて考えてみなければなりません。
まず物事全てにはリスクがあります。リスクは危険ではなく不確実性という意味です。例えば家を買うという行為にはリスクが伴います。近隣の住民がどんな人かわからない。金利が今後どうなるかわからない。今後の不動産価値がどうなるかわからない。自分のこれからの仕事がどうなるかわからない。いくら調べてもこれらの不確実さは残ります。ですから、リスクは「ある、ない」で表現するゼロサムのようなものではなく、どの程度あるかで表現する量的なものです。そしてそのリスクに対し期待される利得を考えて人は選択をします。家を買うことにはリスクがあるが、幸福感や売却時の利得などもそのリスクを取らないと得ることができない、わけです。リスクを日本語にすると「わからなさ加減」であり、リスクは「取る、取らない」で考えるべきものです。
このリスクの考えに基づくと、リスクはなくすことができないことに容易に辿り着きます。なぜならば道を歩いていてスズメバチに刺され死ぬリスクはゼロにはならないからです。どうすればミスが起きないかではなく、ミスは必ず起きるから(リスクはゼロにできない)、起きた際に失うものを小さくしたり限定するにはどうしたらいいかという考え方になります。物事はどこまで考えてもコントロールできないという前提に立つと安全管理の考え方も変わります。
予測できないのは想像力が足りないからだと言われる方もいますが、その方は果たして新型コロナウイルスの誕生を4年前に予想し、ロシアのウクライナ侵攻を1年前に予想していたのでしょうか。「なにかあったらどうするんだ症候群」が抱えている大きな欠陥は、人間の知性を過大評価し、世界の複雑さを過小評価しているところです。
「なにかあったらどうするんだ」は「どこまで考えてもなにかあるんだからその時どうするか」ではないということです。この症候群によって、安全に対しての期待値は高まり、その期待値に応えようとすることで行動も発想も狭くなり、個人も会社も社会も行き詰まって苦しんでいるのに、エスカレートする安全要求を誰も止めることができません。自転車に乗ると事故に遭うかもしれないから自転車に乗らないのではなく、ヘルメットをかぶることでダメージを最小限にした方が良くないでしょうかというのが私の考えです。だって、自転車に乗って遠くに行くのは楽しいですよ。
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