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霧散する記憶

記憶は録画のように頭の中に収まっていて、そこから引っ張り出してきて再生していると思われがちですが、そのようなものではありません。

まず第一に私たちは状況を記憶しているのではなく、印象を記憶しています。あの日見た綺麗な夕日を記憶しているのではなく、夕日を見た時の心象を記憶しているのです。ですからお腹が空いていればその分記憶に影響を与えます。意識しなくても。

絵画で言えば写実ではなく抽象画で、本で言えばノンフィクションではなく、事実を織り交ぜたフィクションに近いと思います。

人間は物語的にまとめて記憶を保存されることが知られています。

物語は現在の出来事や、感情によって都合の良いように過去を書き換えられます。後付け再編集と呼ばれます。

ですから、本人が記憶を辿って証言する時、全く意図せずとも記憶は書き換えられていきます。

同じビデオを見せ、車が「衝突しましたか」「激突しましたか」「ぶつかりましたか」と質問を変えるだけで、記憶した速度が書き換わるそうです。

記憶は脳内のものですらありません。身体の動きを制限するとラジオ体操は思い出しにくくなります。本棚がありそれが目に入ることで思い出せますが、それがなくなると思い出しにくくなります。

記憶は自分の脳でもなく、身体でもなく、自分と環境の間に埋め込まれています。 外部とのトリガーによって記憶が引き起こされるのですが、それは外部に記憶を埋め込む作業でもあります。

実際に外部にメモをすると記憶が忘却されやすいそうです。今や電話番号を覚えている人はほとんどいませんが、スマホに記憶を移植したとも言えます。

考えてみれば記憶は人間が過去から未来へ向かっているという時間の概念があることで成立していますが、それを除けば情報の固定が記憶と言えるのではないでしょうか。

その固定が氷が室温で溶けていくように、周囲に拡散されていく。あたかもエントロピーが増大するように。

人間は無意識下に沈んだことを記憶とすら呼びませんが、意識や無意識は人間が勝手に名づけた概念でしかなく、どちらもある時に固定(仮)された情報です。

人生の面白さは、氷が溶け、自分や周辺溶け合い、さらにその後の出来事と合わさって記憶がどんどん変わっていくところにあると思います。

それは何かを忘れられることであり、許せることであり、気づくことでもあり、わかることでもあり、生の最後まで記憶が変化し続けることは救いだと思います。

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