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適切なサイズを超えてはならない

twitterをやり始めてから10年ちょっとですが、少しずつフォロワーが増えていくのは面白かったです。自分が有名人になり、影響力をもっていくかのような錯覚に陥りました。ところがある一定の域を超えてから人数が増えなくなりました。40万人ぐらいですね。なんでだろうと思って色々試したんですがうんともすんとも言わなくなりました。

試行錯誤しているある時に、反応が良い文章があったのでなるほどこちらにいけばいいのかと思ってしばらくやってみました。一ヶ月ぐらいしてから自分の文章を見てみると、なんだか自分が言っている言葉じゃないような気持ちになりました。うーん、ここまですることじゃないかと思い、自分の範囲を超えてまで頑張ることをやめました。

ドラッカーがこう言っています。

「組織にとって最適な規模とは機能や仕事に必要な情報を最も有効に扱える規模である」

社会においてどのような役割を果たすのかを追求すると自ずと適切なサイズが決まります。生物界において種が増え過ぎれば全体のバランスを崩し、結果としてその種も被害を被ります。最も活動的で生産的なサイズは全体に対しての規模の大きさではなく全体に対しての規模の適切さで決まるのだと思います。

では適切さとは何で決まるのでしょうか。それは結局のところ私は何者かということで決まるのだと思います。その規模を超えるにはその役割を変えなければならない。そうでなければ無理をすることになり、中核にある価値まで損なわれる可能性があります。自分は社会にとっての何者であるかが適切な規模を定義します。同じように企業も何者であるかがサイズを規定するのだと思います。

兵站の本質は、距離が遠くなり範囲が広くなるほどそこで物資を運ぶコストが倍増するというものです。10km先までものを運ぶのは時速10kmのトラックで一往復つまり2時間ですが、20km先になると一往復で4時間になります。横の範囲が広がればさらに負担は倍増します。範囲を広げるにはそれを維持するために物資を供給する中心地に莫大な供給能力が必要になります。拡大をした後はそれを維持し発展させなければなりません。ここにも自分にとって適切なサイズというものが存在します。

これは年齢もあるのかもしれないし、ただの負け惜しみかもしれませんが、適切な規模の中でそこをなるべく発展させることが大事だと考えるようになりました。言論の世界で言えば、自分の言葉で影響を与えて交流できる範囲は決まっていて、自分の言葉を変えてまで領土を広げにいくことは自分にはできないということですかね。大きくするより、豊かにすることの方が好きな性格が影響しているかもしれません。大きくないのに大きくあろうとすることは本当にしんどいなと思います。

そういえば初めて国際陸連のHPに載った時のあだ名がlittle giantでした。そういうのが向いているのだと思います。

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