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ショートショートその8『ナップサック考』

ある日のことである。
外勤で外を公用車で流していると、ナップサックを背負った小柄な人物が歩いているのに出会した。
年の頃は12歳くらいにも見えるし、その6倍くらいの年齢にも見える。
田舎道を事故を起こさないように慎重に運転しつつ、私はその年齢の推察に時間を費やしたが、どうも、ああわからない。
そのうち、ナップサックは何歳まで使うものか、という疑問にぶつかった。

私の話で言うと、ナップサックは小学校の家庭科で作って、それを背負っていた思い出がある。
それ以来、ナップサックを背負うことはない。
小学校から中学校に上がる際に、ナップサックも卒業してしまった。
では、その小学生と中学生の違いは何か?
いろいろと挙げられるが、その一つとして邪念があるかなしかなのではないか?
小学生から中学生に上がる過程において、過剰な性の知識や打算の感情の開始など、人は手垢まみれの大人になるその第一手垢がついてしまう。
人はその第一手垢に驚愕し、その動揺を誤魔化すために八つ当たりに走る。
その対象の多くが、人生でたくさんの時間を共に過ごしてきた母親となる。
つまり、
「一緒に歩くんじゃねえ、クソババア!」
だとか、
「弁当にタコさんウインナー入れんじゃねえ、このクソババア!」
などと、汚くなじり倒してしまうのである。

そうなってくると、ナップサックが似合わなくなってくる。
己のお腹を痛めて産んでくれた母親に対して「老廃物老婆」と己の口を汚す輩が、ナップサックを背負っていると、その口汚さが照れの裏返しということがバレてしまう。
これはいけない。
ナップサックを背負ってしまうと、「九州のカルバリン砲」も「東北の羅刹」も「埼玉のカダフィ大佐」も、みなそれぞれ「だいすけちゃん」「よしあきくん」「じょうじちゃん」に戻してしまい、触れるものみな傷つける狂気もいつでも刑務所入る覚悟も帳消しにしてしまい、ワルキューレの騎行ではなく新世界紀行のテーマが似合いそうな純朴な少年に戻してしまう。
これはいけない。
ゆえに人は思春期にナップサックを手放してしまう。
思春期に少年から大人に変わるのに壊れかけのRadioは要らぬ、ナップサックを捨てりゃいい。
昨日までナップサックを背負っていたあの「まさかずくん」が、今日はナップサックを背負っていなかったとしたら、昨日のどこかの段階で人生の第一手垢に気づき、動揺し、その夜「クソババア」デビューを果たし、のちの「人斬り正和」への第一歩を果たしたのだと推察されて、概ね間違いはない。
童貞を捨てた翌日よりも、わかりやすい変化である。

しかしながら、お年寄りがナップサックを背負っている理由も考えねばならない。
人生の第一手垢に気づいてそれからウン十年、人生の紆余曲折も酸いも甘いも、森羅万象も神社仏閣も一通り味わうと、逆に手垢も落ち、角も丸くなり、またナップサックを背負いたくなる。
或いは贖罪の意味を込め、
「あの日の母さん、僕が悪かったよ。僕、背負うよ、ナップサックを」
という動機で背負っている人もいるかもしれない。
ナップサックを背負っている背中には、無数の傷がついている。
目視出来る傷はもちろん、目には見えない心の傷まで。
ナップサックは優しく包んでくれる。
ナップサックを背負いだすと、人は純粋に戻り、残りの人生、曇りのない眼で物事を見ることが出来る。
僕もナップサックを手放してから長い年月が経つが、そろそろナップサックに帰ってもいいかもしれない。
純粋さが戻りつつある兆しを僅かでも自覚しているのです。

結論。
ナップサックは純粋さの象徴である。
人は純粋さが曇りだすと同時にナップサックを手放し、純粋さがまた輝きだすとナップサックを背負う。
ゆえに恥と欲にまみれた十代はナップサックと決別し、大人の階段を登る。
ナップサックは大人の階段を登るのに不要である。
十代はナップサックの優しさを自ら捨てねば、イバラの大人の階段は登れない。
高校生と言う脂の乗った十代がナップサックを背負った姿を見ないのは、彼らが己の手についた大人の第一手垢について意識的にも無意識的にも自問自答している証拠であり、それは喜ばしいことなのだ。


……という説を運転しながらまとめた僕は、外勤から戻ったあと職場で披露した。
僕はその場の全員が膝を打ち、拍手喝采で僕を褒めそやすものだと思っていたが次の瞬間、某女史が、
「でも、体育会系の高校生って、スポーツブランドのナップサックを背負って……」
「うるせえ、クソババア!」
いつの間にか僕の右の拳が、その彼女の前歯に叩き折っていた。

【糸冬】

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