逝きし著名人を偲んで
今年も多くの著名人が亡くなった。
自分が生まれた時から、既に第一線で活躍していた人たちばかりである。
私の思い入れのある方々を挙げただけでも、七人の方が彼岸へ旅立たれた。
駆け足だが故人を偲び振り返りたいと思う。
【俳優】渡辺裕之さん
渡辺裕之さんは何と言っても「ファイト一発!」でお馴染みの『リポビタンD』のコマーシャルが鮮烈に印象に残っている。
どうしたらあのような屈強な肉体を手に入れることが出来るのか。幼い頃の私は興味津々だった。
奥様の原日出子さんを、その生涯をかけて一途に愛した人でもあった。
【芸人】上島竜兵さん
お笑い芸人の上島竜兵さんは、ダチョウ倶楽部の一員としてお馴染みの人だった。
お笑い芸人や喜劇俳優は、昔から孤独で繊細でなければ人を笑わすことは出来ないと言われているが、上島さんのその人と成りはまさにその通りだったのではないだろうかと、今ならそう思える自分がいる。
予期せぬ死だったと、今でもその衝撃が私の心の中に残っている。
【写真家】田沼武能さん
田沼武能さんは、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんの現地訪問に同行し、数々の写真を撮影したことでも知られている写真家である。
写真で世界にその惨状を伝えた功績は大きい。
【俳優】野村昭子さん
野村昭子さんは何と言っても、市原悦子さん主演の人気テレビドラマ『家政婦は見た!』の大沢家政婦紹介所の大沢キヌ代役が有名だ。
薬剤師の資格を持つ異色の俳優として、長いこと名脇役として活躍し、その年代によって馴染みの当たり役を最晩年まで持っていた、稀有な俳優の一人だった。
【デザイナー】森英恵さん
森英恵さんは言わずと知れた、世界で活躍したファッションデザイナーだ。
戦後間もなく結婚し家庭に入るが、僅か3ヶ月後に洋裁の勉強を始め、1950年代には日活の衣装デザイナーとして活躍。やがて世界に羽ばたいた後は、黒柳徹子さんをはじめとする著名人から厚い信頼と尊敬を集めた。
あの時代の女性としては珍しく、きちんとした学校を出た学問のある人で、誰にも媚びることなくとても早口に、小気味よく話をされるのが聴いていてとても私は心地が良かった。
あれ程、最晩年まで凛として元気に過ごしていた姿は、この超高齢化社会を迎えた日本において、性別を超えてとても心強い存在だった。
森英恵さんの追悼エッセイはこちら。
【俳優】渡辺徹さん
渡辺徹さんは、テレビで一躍人気者になっても文学座をずっと辞めずに、舞台での芝居を生涯続けた芝居に一途な人だった。
『徹子の部屋』で語った渡辺徹さんのエピソードで、一番私がお気に入りなのは次男が生まれた際、お兄さんである裕太くんが愛情不足にならないようにと、黒柳さんからアドバイスを受けた際に、何も出ない自分のおっぱいを裕太くんに吸わせたという話である。
ご本人も黒柳さんも、笑って話し、聞いていたが 、こういうところもとても愛情深く、そしてユーモアのある人だったのだなと、死去したことが未だに信じられないが、この話を思い出すだけで私はこの先も、渡辺徹さんのことを懐かしく、そして楽しく思い出すことが出来る。
【俳優】あき竹城さん
あき竹城さんは、その山形訛りを生涯矯正することなく、芝居をすることを許された稀有な役者だった。
ふくよかな体型と、気取らないあたたかみのある豪快な笑い声が印象的なあきさんだったが、その一方で、シリアスな役を演じたドラマが私の記憶の中には深く残っている。
そのドラマは、TBSで放送されたお昼のドラマ『ある日、突然…』である。
子供の頃に観たものだから、うっすらとした記憶でしかないのだが、この時は珍しく相手役の方はあきさんよりも年下で、かっこいい役者さんだったように記憶している。因みにこのドラマで私は初めて、浅川マキの歌声を聴いた。
こうして一般人の私がテレビで見かけた印象に残っていることを、短くも一つずつ挙げたらこれだけの文字数になるのだから、ご家族や交流のあった方々はもっとたくさんの思い出があり、その悲しみは如何許であろうと胸が痛む。
渡辺徹さんの奥様である榊原郁恵さんがおっしゃっていたが、折に触れ故人を偲び話をすることが、亡くなられた方々への何よりの供養なのかもしれない。
2022年12月22日・書き下ろし。
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