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『第77回 全日本体操個人総合選手権』

 去る4月23日、私は初めて体操競技を観戦した。

 こうしたスポーツの観戦というものはテレビでするものという感覚が、いつの頃からか私の頭の中の常識になっていて、直に試合を観戦するという選択をすることのないまま、今日まで生きて来た。
 それを覆したのが、今や日本の、いや、世界の男子体操界を引っ張っている新時代のエース・橋本大輝の存在である。

 以前にもエッセイで書いたのだが、私は橋本選手が高校生の時に世界代表入りした試合から、テレビ中継、配信も含め全ての試合を観て来た。

 体操大好き少年という溌剌としたキャラクターと、その反面、体操に関しては負けん気の強さが顔に滲み出るところ、そして何より、体操選手としては割に背が高く、そのつま先までピンと伸びた美しい演技に、一瞬にして心を奪われたのである。

 しかし、その世界選手権から四年を経て尚、私はその演技を一度も直に観たことがなかった。昨年、テレビで放送されているこの大会の試合をじっと観ながら、ふと、「来年こそは絶対試合を観に行くぞ!」と心に決めて、この一年を過ごして来たのである。

会場の東京体育館
Daisukenta撮影

 会場である東京体育館は千駄ヶ谷駅の目の前。私の悪い癖である思い込みのせいで、会場とは全く逆方向の電車に乗ってしまい、あわや遅刻となりそうだったが、会場が駅前ということで何とかギリギリ滑り込みセーフ。守衛さんが会場の入り口で手招きをして待っていて下さった。

 初めて訪れた東京体育館には、もうたくさんの観客の皆さんが席に座り、選手の名前がコールされようとしていた。

 私が座った席は南側の席で、ちょうど跳馬の前にあたる席だった。私の前の席五列ぐらいのところには、日本体育大学の学生さんや卒業生、選手の友人たちが陣取り、競技が始まると、皆、選手を応援する掛け声を始めた。

 代表の子が一人席から立ち上がると、私が座る後方の客席に向かって「陵輔さんガンバレをお願いします」というようなことを言って、一緒に陵輔さんを応援するように促した。ここで言われている陵輔さんとは、昨年、この全日本選手権で三位になった土井陵輔選手のことである。

 出来れば私も現役の大学生たちに混じって「陵輔先輩頑張れ」と言いたかったが、さすがに周りの大人たちは黙っているので一人変に目立っても決まりが悪く、応援には加わらなかったが、微笑ましく彼らの姿を眺めていた。

 それにしても、彼らの声の大きいことと言ったらない。端で聴いていて仕舞いには頭が痛くなってしまった。いちばん左端の方の座席には確か、徳洲会体操クラブの方たちが、金色のスティックバルーンとでも言うのか、それを両手に持ってパタパタとやっていた。時折、テレビ中継でも目にした光景だった。そんな賑々しい空気に包まれた状態で、私の初めての体操競技の観戦が始まったのだった。

試合会場(試合終了後)
Daisukenta撮影

 会場を見渡すと私の目の前に広がるのは、床をほぼ中央に左から時計回りに鉄棒、あん馬、つり輪、跳馬、並行棒とエリアが分かれ、私のご贔屓である橋本選手のいる第一班は床の演技からスタート。今までテレビでしか体操競技を観戦したことのなかった私は、ここで当たり前のことに気づかされた。この六種目の競技が全て班に分かれて同時に進行して行くということだった。

 私の注目した選手は橋本大輝(順天堂大学)を筆頭に、北園丈琉・岡慎之助・米倉英信(徳洲会体操クラブ)、田中佑典(田中体操クラブ)、神本雄也(コナミスポーツ)、千葉健太(セントラルスポーツ)選手等々である。

 この選手たちが時として、同時に演技をすることが幾度となくあった。橋本選手の演技観戦に集中しようとすると、別のフロアでは田中佑典選手や岡慎之助選手が素晴らしい演技を披露していたりして、何とも悩ましい事態となった。

 昨年までは、第一班の選手たちの演技をメインに中継されるのを観るだけだったから、別段、他の選手も同時に演技をしているなんてことも、余り考えたこともなかったのだが、現地で観戦すると話は全く別であった。

 私はあちこちに注意を払って、どの選手の演技も技と技の隙間を盗んで見逃すまいと、神経を張り巡らせたのだった。本来なら一人一人の選手の演技を全部、じっくりと観たいのである。しかし、それは叶わぬ願いである。

 殊に、跳馬においては助走から着地まで、ものの五秒である。ちょっとよそ見をしている間に、その演技は終わってしまうのである。
 そんな油断があって、私は跳馬のスペシャリストである米倉選手の演技をうっかり見逃してしまった。ハッと気づいて目をやると、もう米倉選手は跳躍を終えて着地して観客に向かって手を振っていた。これは酷く悔しかったことのひとつである。

 そんなうっかりもあったが、少しずつ体操観戦のコツを掴んだ私は、何とかたくさんの選手の演技を全体的に部分部分だが観ることを心掛けた。

 ここからは、そんな選手たちの中から何人かの選手たちの演技の感想や、印象に残ったことを書き記したいと思う。

 橋本選手は腰の疲労骨折と、水曜日に会場入りして跳馬を練習した際に右足首を捻ってしまって、抜群のコンディションではない中、それでも予選二位で通過し決勝に挑んだ。

 床の演技ラストの着地で左に一歩出た以外は、全体的に出来も良く、幸先の良いスタートとなった。
 あん馬は途中ヒヤッとする場面が本人にはあったようだが、素人の私は気づかず全体的にダイナミックで流れに乗った良い出来だった。本人も演技後「セーフ」と大きなジェスチャーをして競技仲間を笑わせていた。あん馬はここのところ落下が続いていたので、最後まで通せて一安心と私は自分のことのようにホッと胸を撫で下ろした。
 つり輪は、中水平のポジションが前大会より理想的な位置になって来ていた。遠目から観ても良い演技で、昨年から強化して来ていることが見て取れる出来だった。
 跳馬は膝をついてしまい、この試合の中では唯一大きなミスらしいミスとなったが、手をつかなかったところはさすが。何がなんでも着地を決めて見せると取り組んで来た意地を見せた。
 平行棒はバーを握り直したりする箇所もなく、倒立もぐらつくことなくつま先までピンと伸びて、美しい出来映え。ここでもずっと強化を続けて来た着地もピタリと決め、この大会の六種目の中でも特に素晴らしい演技のひとつとなった。
 最後の鉄棒は、橋本選手の代名詞と言ってもいい種目であり、期待の気持ちが大きかった。ただ、試合は何が起こるか分からない。とにかく最後に大きな怪我をすることなく六種目すべてを無事にやり終えてほしかった。そんな祈る気持ちの中、今回はコンディションが万全ではないために、昨年から組み込んでいる大技・リューキンは回避しての演技だったが、これも危なげなく着地もピタリと決め、トータルでいい印象を観客に残した。

 北園選手は一種目めの床はほぼ完璧。
 あん馬は着地ちょっと手前でヒヤッとバランスを崩すが、大きなミスなく終える。
 つり輪は新しい技を盛り込んでミスなく演技を続けたが、ラストの着地で大きく一歩。新しく取り入れた技を完璧に習得して最後の着地が決まれば、相当素晴らしい演技になるとこれからの進化に期待した。
 跳馬は惜しくもラインオーバーがあり減点となった。
 平行棒は途中、ササキを取り入れ着地をピタリと決め、素晴らしい出来。
 最後の鉄棒で途中、大きなミスをしてしまい順位を落としてしまったが、最後まで演技を続けた姿は清々しかった。

 第一グループ以外の選手での注目は岡慎之助選手。昨年、この大会で右膝十字靭帯断裂で治療を余儀なくされていた。怪我の回復がどうなったかずっと心配だったが、岡選手らしい素晴らしい演技を見せてくれて、これからの活躍に期待大である。

 2016年のリオデジャネイロオリンピック団体メンバーの金メダリストで、一年半前、右肩の手術を受け競技生活を続けている田中選手は現在、「田中体操クラブ」の特別コーチとして、小さい子供たちに体操を教えている。
 そんなちびっこ応援団が私の隣の席に陣取り「ゆうしゅけせんせーがんばれー」と可愛らしい声で大きな声援を送っていた。
 そんな田中選手はあん馬で落下してしまったが、また途中から演技を再開し最後までやり通した。 
 つり輪で見せた倒立姿勢は、その足先の美しさを維持するために力を込め続けた結果、足首の関節が変形したというくらい、足のつま先まできれいに伸びた倒立姿勢はさすがだった。

 この大会で長い間、その活躍を見せ続けている選手がいる。昨年の世界選手権で日本チームのキャプテンを務めた神本雄也選手からは力の漲るのを感じられたし、千葉健太選手の演技を直で観ることが出来たことも今回の収穫のひとつだった。

 それぞれの選手が精一杯、持てる限りの力を出し試合は終わった。会場には勝った者負けた者それぞれの様々な感情と、強者共の演技に圧倒され、緊張から解放された観客の安堵が漂った。

 橋本選手の優勝インタビューの時には、とにかく無事に試合が終わり優勝したこと、そして三連覇したことを心から祝福した。私の割れんばかりの大きな拍手が橋本選手の耳に届いていたら、こんなに嬉しいことはない。

 橋本選手の演技を直に観たいと思い、出かけて行った全日本体操選手権だったが、その思いとは裏腹に、体操競技の魅力というものに改めて気づかされた、そんな初観戦だった。

 会場の外に出て、全日本体操選手権の看板を写真に収めて辺りをぶらぶらしてると、オリンピックで見かけた顔の人が何人かの方々と話をしている。

 間違いない、その人はリオデジャネイロオリンピックでの演技で観客に強烈な印象を残した、白井健三さんだった。

 遠くからその姿を眺めている間、私の頭の中はリオデジャネイロオリンピックで床をぴょんぴょん飛び跳ねて、ひねりまくっていた元気溌剌な健三さんの姿が蘇っていた。

 白井健三さんは現在、日本体育大学で男子体操のコーチを務めている。とはいえ、まさか会場の外で選手の親御さんたち(と思われる方々)と話しているとは、私は夢にも思わなかった。

 私は失礼のないようにタイミングを見計らって、恐る恐る健三さんに声を掛けた。すると、テレビで拝見しているままの、人の良い笑顔を私に向けて下さり、不躾ではあるが一緒に写真を撮りたい旨を伝えると、快く写真撮影に応じて下さった。何か手土産でも持っていれば良かったのだが、私が出来ることは健三さんのコーチとしての活躍を、これからも見守っていくことだと健三さんの姿を前にして思ったのだった。

 昨年は橋本大輝くん、そして今年は白井健三さんと、体操競技と関わりのある人とのご縁があり、何とも嬉しい限りだ。

 来月はNHK杯。もし切符が取れたらまた彼らの演技、そして指導する姿を観に行きたいと思う。

         2023年4月25日・書き下ろし。


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