仕事が「沼」になってしまうワケ
無職になり二か月が経つ。仕事を辞めて、一日のたばこ量が倍になった。
在職中は一時間に一本の(それでも多いけど)のペースだった。
家にいる時間が増えた今は、とめどなく吸ってしまう。
今は別に納品と時間に追われていない。職場の人間関係のストレスもないのに、なぜたばこが増える一方なのか?ある時思いついた。
「自分は沼にハマりやすい、依存しやすいタチなんじゃ?」
このnoteでは「仕事中毒」と呼ばれるワーカホリックを、個人の嗜癖という視点から考えてみる。
〇そもそも「沼にハマる」とは
「沼」とは、Twitterやネットニュースで使われる、応援するアイドルやゲーム、アーティストなどにどっぷりハマる状態を指すネットスラングだ。
心のどこかでは「今月も出費きついなぁ」「全然寝れなくてしんどいわぁ」と思っていても、推すモノやヒトの魅力に抗えずお金と時間をつぎ込んでしまう。気づけば深くまで引き込まれているのが「沼」である。
我々の身の回りには数えきれないほどの「沼」がある。
アダム・オルター著、上原裕美子訳『「依存症ビジネス」のつくられかた』では、下記の様に述べられている。
アプリや各種プラットフォームは、充実したソーシャル体験を
追い求めたくなるようにデザインされる。いや、タバコと同じく、
依存症になるようにデザインされると言ってもいい。すべてがそうだというわけではないが、残念なことに現在では多くのテクノロジー系プロダクトが常習させるように作られている。
SNSでいいね!がもらえるとうれしい。ソーシャルゲームで強い武器を上限突破させようと10連ガチャに課金してしまう。
これらはユーザーの承認欲求や射幸心を刺激し、更なる「沼」に誘う仕掛けとしてつくられている。
ここで断っておくが、「沼」にハマる活動やSNS、ソーシャルゲームを批判する気持ちはない。課金は著者も大好きだ。推しも尊い。
重要なのは「人間は誘惑にかなり弱い」という点だ。
〇ワーカホリックも一つの「沼」である
「沼」は、日本人が働く環境にも眠っている。
中野信子『脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体』では、
3種類の依存対象のひとつ「プロセスへの依存」に、ギャンブルやセックスなどと同列になる存在として「仕事」が定義されている。
また、中原淳・パーソル総合研究所が著した『残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか?』に登場する『長時間に関する実態調査』でも、毎月の残業が60時間を超える層の幸福感や会社満足感が上昇する傾向にある、という結果が出ている。全体平均に比べれば少数派だが、ハードな仕事で自信や没入感を得て、幸福感を感じる人々はいるのだ。
『残業学』では、日本人の「仕事好き」傾向や職場風土によって「残業麻痺」する人がつくられるとしている。つらい仕事を越えて培った達成感、成長実感が麻痺を生み、職場に残業文化を広めていく。
社会人として学ぶ仕事経験だけ見ればそうかもしれない。
しかし「社会に出る前」にもハードワークに慣れてしまうタイミングはあるのだ。
〇学生時代にもある「がんばり体験」
誰にでも経験があるだろう。
テスト前に一夜漬けで勉強したらそこそこ点数が取れ、褒められたこと。
体は苦しくても、レギュラーを取るために無理でもこなす部活の練習。
時に社員の代わりとして責任ある仕事を任されるアルバイトの時間。
これらは我々が「仕事」をする様になる前からでも、達成感や成長実感を感じられてしまうできごとのはずだ。
太田肇『「承認欲求」の呪縛』では、個人が何かのために自分を犠牲にしてがんばるという行為は「承認欲求」と地続きであると書かれている。少しやりすぎと思うくらいチャレンジした方が得るものが大きい、つらくても乗り越えれば周りが認めてくれる、というワーカホリック予備軍な考え方は、我々がこの世に生まれてからあらゆるタイミングで醸成されかねない。
〇「自分を知る」ことからはじめよう
働き方改革が日本の命題となり、ニュースに取り上げられる機会が増えてから三年が経つ。その中で従来の働き方を抜本的に見直し、現代に適合した働き方をつくりだしている企業事例も増えてきた。
例えばタニタでは「社員の報われ感を最大にする」ことを目的に、希望する社員に「個人事業主」として社外の仕事も請け負うこともOKとした。
味の素も、グローバルで戦っていくため、残業前提の働き方をやめて1日の労働時間の短縮やオフィスのフリーアドレス化、余計な紙資料を減らすペーパーレス化などを進めている。2018年度の1年間で減らした紙の量は「本社ビル3棟分」にもなるという。
これらの取り組みは、仕事にばかり打ち込みがちな日本人の生活を変え、
世界と勝負できるスキルを磨く、人口減少時代で誰でも活躍できる場を
つくりあげるためには欠かせない。これからも更に進行していくだろう。
しかし、実際に働く人々が皆、働きすぎないままでいられるかどうかは、
とどのつまり個人個人がコントロールせねばなるまい。
「もっと効率的に稼げる」「空いた時間で自分磨きしなくちゃ」と、ついブレーキを踏むことを忘れてしまうくらい夢中になってしまえば、単に仕事に代わる新しい「ハマる沼」が待っている。
自分が一体どれだけのキャパシティを持っているのか。
何かにハマって失敗したことはなかったか。
万一倒れてしまったとき、悲しむのは誰なのか。
これらを自問自答してみなければ、働き方改革の誘惑に勝てない。
「沼」にとらわれ過ぎず、主体性を持って人生をはばたくには、まず自身の弱さを知ることからはじまる。
くわえたばこでガチャを回しながら、実感するばかりである。