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マスクを外さない日本人に見るもの

【気付き】マスクを外さない日本人に視るもの

マスク着用について、3月13日からは屋内・屋外を問わずに個人の判断に委ねる方針を政府が示した。

すでに屋外ではマスク着用は原則不要とされているが、街に出ると、ほとんどの人がいまだにマスクを着用している。報道を見る限り、(合理的な理由がないのに)マスクを着用し続けようとする人がかなり多いようにも感じる。

僕が興味があるのは、なぜ日本人は外国と比べて、マスクを外そうとしないのか、その違いの背後にあるものは何なのか、という問いだ。

報道によれば諸外国ではほとんどの人がすでにマスクを着用せず生活している。そんな中でなぜ、日本人はマスクを手放さないのだろう。特に、屋外で、距離が確保でき、高齢の方がいない場面でさえマスク着用するのはなぜなのだろう。

少し前は、行動経済学の「損失回避傾向」の概念で説明できると考えていた。コロナ禍でマスク着用はデフォルト=参照点となった。マスクを外すことが参照点から見て、損失と感じるなら強く回避しようとする心理が働く。

人の脳はマスクをしている人の顔を想像するとき、平均的な顔で補う(これは自由エネルギー原理で説明できる)。平均的な顔は美しい顔であることが知られているので、結果的に「マスク美人効果」をもたらす。

人々はそれを直観的に理解しているので、自分がマスクを外すことは損失と感じる。自分の顔を晒せば基本的に相手にがっかりされることになるので、それを回避しようとする訳だ。

規範を飛び越えがちな若者が意外にもマスクを手放せないのは、生物学的には納得できる。逆に、僕のような既婚のおじさんは、損失がないので意味もなくマスク着用することはない。

この考え方は一定の説明力があると思うが、しかし諸外国との違いを説明できない。美人効果の損失は諸外国にだってあるのだから。

そこで、やはりこの違いの背景は、遺伝的なものだと考えるのが妥当だと思うようになった。僕は「お国柄」という表現は曖昧で嫌いだけど、要するに日本人の平均的なパーソナリティとして、ビッグ5理論の「協調性」のスコアが極めて高いのだと思う。

報道を見ると、マスク着用について尋ねられた街中の人は「周りの様子を見て外すかどうかを判断する」といった回答が目立つ印象だ。結局、平凡な結論だけど、日本人がマスクを手放そうとしないのは、周囲の目を極めて気にするから、ではないだろうか。

日本では歴史的に封建制度がずっと続いてきた。冷静に考えるとその崩壊からまだ150年程度しか経っていないことに気づく。日本は世界的に見て人々の流動性が低い国だから、封建制社会で適応的だった「協調性」(権威や社会規範に従う)の遺伝子を引き継ぐ人が多いのかも知れない。

僕は、協調性のスコアが低くて、人と同じことをするのが嫌いだ。だから「友達」も少ない。それがマスクへの態度にも現れているのだけど、心配しているのは、タスク着用について人々が「今の個人的利益」しか考えずに、長期的な影響を考慮していない可能性だ。

マスク着用は、短期的には問題にならない。しかし、長期的には深刻な問題を生み出すと思う。だって、生物としてマスクをつけたコミュニケーションは不自然だから。

まず考えられるのは子供たちの言語発達への影響。子どもを育てると分かるが、幼児は言葉を話そうとするとき、親の口元をよく見て真似しようとする。その口が隠れていれば、当然、言語習得は難しくなる。

次に表情を使ったコミュニケーションが劣化するかも知れない。僕らサピエンスは、チンパンジーやゴリラと比べて極めて複雑な表情筋を持つ。多様な表情を作り出すことによって、仲間と意思疎通をし、社会連帯を可能にした。表情の豊かさはサピエンスの生存戦略だ。

それがマスクで失われている。僕らは目から下の表情で相手に言外の感情を伝えることを3年間怠ってきたし、相手から汲み取ることもしてこなかった。

zoomを使う度に画面越しの相手の表情の乏しさにガッカリする。NHK「おかあさんといっしょ」に出演する歌・体操のお兄さんお姉さんが超人に思えてくる。彼らは多分、顔と身振りだけで人と会話できる。

心配なのはやはり子ども達で、彼らは、言語にならない感情や意思を、相手から汲み取れる人になるだろうか。言語偏重のコミュニケートは限界があって息苦しいのに。

という訳で、日本人がマスクを外さないのは、僕らの平均的なパーソナリティの表現形だと見ることができそうで、高すぎる協調性は、長期的な展望を見失うかも知れない(そう言えば、太平洋戦争もそうだったかも知れない)。

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