見出し画像

世界と写真と写真家

 写真において絶対的に重要で問題となることは、写真と世界がどのような関係を結んでいるかということや、また、写真と写真家がどのような関係を結んでいるかということ、そして写真家と世界の関係というものなのだと思います。これは、写真という定義が示しうる最も広い範囲においても重要であるような問題であると思います。これは、写真がある『構造である』とした場合に重要であることです。また、もう少し限定的にはなりますが、しかしほぼ全てのいわゆる写真についてあてはまる問題としては、平面性や平面性と形質という問題があるように思います。これは写真が構造であるという前段の前提条件に追加して、写真が平面における広がりであり、私たちの視覚的世界においては、それが視覚される対象として存在するのだと仮定した場合のことですが、この定義は私たちが写真といって思い浮かべることのできるもののすべてを内包していると言って差し支えないと思います。何れにしても、私がここで言いたいのは、私はこうした写真の持つ本性的な性質を把握して、そのなかで写真的行為を行いたいと思っていることなのです。

 私は『事物に抽象的な写真』という言葉を2020年ごろから、そして『写真的空間平面』や『感光した空間中の平面』そしてそれらにおける『形質』という言葉を2022年ごろから作品のタイトルなどに使い始めています。『事物に抽象的な写真』という言葉は、まさに先ほどの最も広い定義において重要になるような問題のうち、世界と写真との関係について言及しているものです。つまり、事物において——というのは被写体や世界と言い換えることができます——写真が抽象的な振る舞いをしているということを言っているのです。ここで重要になることの一つは、私はこの写真が『抽象写真』だと主張しているのではないことです。もっとも、写真の状態というのは常に一定であるのです。とまで言ってしまうと少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも感光平面というのは、感光する前も感光した後も一定の情報価値というのを持っていて、それは感光する前には潜在的な情報価値であり、感光した後は状態によって定義される情報価値を持っているということになるのです。そして、例えば全面を均一に白飛びさせてしまったり、現像の段階で真っ黒にしてしまったりなどして、その情報価値を棄損するという行為をすることは可能なのですが、しかし、その時には情報価値が写真的構造の外に向かって発せられることになるのであって、つまり写真が持っている情報価値は明確に棄損されない限り減らないのです。したがって、そこには『写真』か『棄損された写真』かしか存在せず、強いて言えば後者は『抽象写真』になるのかもしれませんが、それは写真という構造や存在においても抽象的な物体であって、ということは、もはやそれは抽象写真なのではなく、『写真において抽象的な物体』なのだと思うのです。ということで、私たちは単純な『抽象写真』などというものを得ることはできません。

 しかしではなぜ私は『事物に抽象的な写真』などと発言することができるのでしょうか。それを説明するためにここで『事物において写真が抽象的な振る舞いをしているということを言っているから』という先ほどの説明に立ち戻ることになります。ある写真が事物において抽象的な振る舞いをしている時、その写真はなにも、それ自体の存在において抽象的になる必要はないのです。むしろ写真は非常にアクチュアルな存在の仕方をしていても構わないわけです。いや、むしろ写真というものがある種の強さやアクチュアルさを持って現前している方が、それは自ずと事物に寄り添いにくいものとなるので、むしろ事物において抽象的になりやすいとまで言えるかもしれません。そうした意味で、私は事物というものとの関係を曖昧にしてゆく作業を2020年ごろから続けてきました。そのなかで、初めは暈けや滲みを扱ってその曖昧さを強調するような、ある種、短絡的な作業に終始していたりもしたのですが、これは写真平面における『棄損』に他なりません。なので、次第に私は、写真は写真で被写体と並行して強い調和というものを目指せば良いのだと思うようになった時期もありました。またそうした時期を踏まえて、2022年ごろからは『写真的空間平面』という言葉を使うようになります。

 『写真的空間平面』という言葉や『写真的空間平面における形質』という言葉は写真が持っている写真におけるアクチュアルさというものと密接に関係しています。以前にも引用しておりますがヴィレム・フルッサーという哲学者は『写真の哲学のために』という書籍のなかで「結局、写真家が作り出そうとしているのは、以前にはけっして存在しなかったようなさまざまな事態です。しかし、彼はそのような事態をその外にある世界のなかに求めるのではありません。なぜなら、彼にとって世界は作り出されるべき事態のための口実にすぎないからです。彼は装置のプログラムに含まれているさまざまな可能性のなかに事態を求めます。そういう意味では実存論と観念論という伝統的な区別は、写真によって乗り越えられます。つまり、現実的なものとは、外にある世界ではなく、装置のプログラムの中にある概念でもなく、まずは写真です。世界と装置のプログラムは、画像にとって前提に過ぎません。世界と装置のプログラムは、現実化されるべき可能性なのです。ここで、意味のベクトルの転倒が問題になります」などと述べています。ここで《写真的空間平面における形質》という2022年の夏に製作した5枚1組の連作を見ていただきたいと思います。この段階までに私は様々な感光平面や写真機と向き合うなかで、それらに共通する感光前と感光後の情報量・情報価値という問題を獲得していました。その上で、すべての写真の外側にあるものは全て写真にどういった形質をもたらすかという点においてのみ平等に重要であり、平等に瑣末であると考えてこの作品に取り組んでいました。つまり被写体といったようなものも、それが写真にもたらす形質においては重要であるが、その被写体が通常の視覚的世界においてどんな意味を持っているか、あるいは何であるかはといったことは重要ではないということを言っているのです。

 またこのとき使っていた『写真的空間平面』という言葉は実は一種の短縮系で、本当は『写真的な構造のなかで感光し現像されプリントされた、空間中にある視覚可能な平面』といった意味を内包しています。これでは作品のタイトルなどで使用するのに長すぎるので、私は時間をかけて7文字にまでこの概念を短縮して表現しうる文字列を探し、この表現に至っているということです。ここでこれまでに述べたことの他にもう一つ重要なのが、実は短縮されてしまっている『視覚可能な』という部分であると思うのです。この部分は、写真というのは空間中にある視覚可能な物体であるということへの意識を強く持つことの重要性を示しています。また、この自覚の延長線上には、写真というのは、本性的には『見られる前のもの』であるという発見がありました。

 よく写真というものは作家のビジョンの写しであるというようなことが言われます。こうしたことはシャーカフスキーに顕著だと思いますが、近年の写真作家や評論、またもっとポップな文脈ではインスタグラムなどのハッシュタグにおいても氾濫しているものです。少し話が逸れてしまうかもしれませんが、例えば『ファインダー越しの私の世界』『この世界はイロドリで満ちている』『写真で伝えたい私の世界』といったハッシュタグがありますが、こうしたものはすべて写真というものを透明な窓として扱っている上に、例えば撮影者が抱いたビジョンというものの写しとしての写真を規定しているものであるように思います。そのような意味で、こうした写真は基本的に『既に見られたもの』なのです。

 しかし、こうした美学を持って写真を撮影している写真家の中にも、実際には少し先を行く者もいるような気がします。つまり、鑑賞者というものが写真家が抱いた感情やビジョンを共有するためには、既に見られたビジョンの写しを見てしまってはいけないということに気がつき、実際にはそのビジョンが生じるほんの一瞬まえの段階を——あるいはその伝えたいビジョンとは少しずれたビジョンをあえて写真として固定化し、視覚される物として現前させることによって、その写真が鑑賞された時に、目的のビジョンが鑑賞者の中で生じるように写真を制作する者もいるように感じるのです。これはラオコーンの議論とも似ているかもしれません。いずれにしても、実際のところ、写真がある写真家のビジョンの写しだということにした場合も、それを突き詰めると写真というのは実のところ見られる対象なのだということに立ち返ってくるのです。これが私の言いたいことでもあります。つまり、こうした美学からも、写真というものそれ自体は『見られる前』の『視覚以前』のものであり『視覚の対象』であるということが見出されるということは、非常に重要なことだと思うのです。

 そういうわけで、私の最近の制作でよく用いる『視覚以前』という言葉は重要性を帯びてきたのです。そして、こうした視覚以前の物としての写真のあり方が、写真が写真的である場合であって、写真が自由でアクチュアルなあり方を示せるフィールドなのではないかと思っています。なので、私は写真の状態において非常にストレートで愚直で具体的なものを作りたいと思っています。しかしそれは時に事物において抽象的であったり、人類にとって抽象的であるでしょう。むしろそうしたことの方が多いかもしれません。そして、このような地平においては、ある写真を撮影する場合に、私たちは物を見ないと撮影できないということも、二つの意味に分解して考えてゆかなければならないと思うのです。これは私にとっても最先端の問題なので、正直しっかりとした文章が書けるとは思っていません。しかし、少し挑戦してみようと思います。

 私たちは物を見るという時にも色々なレベルや種類の意識をもつと思います。例えばそれこそ『写真で伝えたい私の世界』というようなレベルで物を見て、それを撮影するということもできるでしょう。しかし一方でスキャナーで文章や画像をスキャンする時などは、実際のところ目印や指標と枠を合わせたりということを指先の感覚をもちろん使ってするのですが、その時にも、確実に視覚的に物を見て、肉体にフィードバックするようなことがあると思います。しかし、この時の物を見るということは『写真で伝えたい私の世界』というようなレベルの『見る』とは全く異なるように思うのです。このように『見る』ということにはいろいろなレベルがあって、私が『視覚以前』の写真を撮影する時に周囲の状況を確認してカメラの位置やシャッターを押す瞬間を決める時の視覚はスキャナーで文章や画像をスキャンする時の『見る』行為に近いような気がするのです。もちろんこの例えは少し不完全であって、誤解を招くかもしれませんが、いずれにしても私はその時、私が見たり感じたりしている視覚的世界のコピーを作ろうと思って写真的行為を行っているわけではなく、こうしたことは理論的に可能なことなのだということを、実例を伴ってお伝えしたいということで、この例えを用いた次第であります。もちろん私の作品を見ていただければ、それはある程度は『視覚以前』のものだとは思いますが、ただそういうものを見ていただくこととは別の角度から、そうした試みが可能であるということをお伝えし、あるいは、そうした試みの楽しさのようなものを皆様と共有したいという気持ちを持っています。

 このようなことが私の考えていることであって、要約をすれば、被写体や世界というものや写真家の視覚というものから自由でのびのびと写真がそのメディウムの本性を表現できるような状態で写真を制作したいということになります。またそうした前提のうちで、画像の可能性というものを汲み尽くすことを行いたいわけです。つまり、私たちの従来的な意味における視覚的世界ではなく、画像というものの世界の広大な広がりのなかで思考して写真行為を行ってゆくことが、私の課題であるのです。(2023年7月7日)

佐久間大進 / Sakuma Daishin

お読みいただきありがとうございます。普段は京都市芸で制作をしながら、メディア論や写真論について研究しています。制作や研究活動をサポートしていただけると幸いです