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四十不惑

2018年、50歳を直前に書いたものです。
忘れないようにnoteに残しておきます。

40歳で惑わない

孔子が生涯を述懐して語った言葉の一つ。
ソーシャルメディアをググると、「自分の学んできた学問に自信を持って向かう方向が妥当だと確信して迷わなくなったということから、40歳で迷わなくなること」という解釈がありました。
孔子も君子もとても立派な存在で、自分とは違うと感じざるを得ない。

人生100年時代の現代において、当時の40歳は今の50~55歳にあたるのではないかと思います。
そう思うと、私も自分のやってきたことに自信を持ち、迷わなくなる頃なのか?「お前は不惑だから、席に堂々と座り、周囲に指示を出せ」と言われても、それは無理です。

周囲の変化が速いからか、自分のこれまでの経験はまだ足りないと感じます。
次々と変化する課題にどう立ち向かうか、いつまでも試行錯誤を続けています。

そんな中、新しい解釈に出会いました。
「論語」を身体感覚で読み直すと、安田登の著書によれば、孔子の時代に「心」という文字はまだ新しく、「惑」という字は存在しなかったと言われています。
可能性としては、「或」という古い漢字があったとのこと。
論語は口伝であり、漢字は後から付け加えられたので、「不惑」ではなく「不或」と言っていたのかもしれません。
この考え方は非常に興味深いです。

「或」は、領域や範囲を意味します(村が武器によって区切られている象形文字)。
もし孔子が「四十不或」と言っていたとすると、それは「自分ができることはこれくらいだ」と自分を制限してしまう歳だから気をつけろ、という意味になるのではないでしょうか。

この新しい解釈は、目からウロコの発見です。

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40歳代も終わったが、自分が学んできた事に確信が生まれるなど程遠い。まだまだやりたい事もあるし、知らない事だらけ。
"四十不"
自分の領域を広げていこう。

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