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湧き出てきた言葉たち

"川の流れのように"をテーマにして、1年くらいたっただろうか。

1時間ほど前、ブログを書こうって思って書き始めました。

前回の更新が昨年12月。
そこから7か月ほど経ちました。

この間、何度か書こうと思ったんだけど、書くこと自体に頑張ろうとしたのは、"川の流れのように"な感じがしなくて、やめました。

エアコンの効いたリビングで、子供たちが寝た後のこの時間に、横にテーブルがあるにもかかわらず、ひざの上にLenovoのPCを置いて、タイピングをしています。

タイピングってすごくないですか。
僕、結構速いほうなんですけど、「で」「す」「け」「ど」って、どれもキーを二つ押す必要があるのに、顕在意識で認識してないんですよね。

「で」と打ちたいときに、dとeだ、って表立って考えてないんですよね。
脳ってすごいなー、って思いません?

別の話し(のようでつながってる話)。

最近、まぁここ1年くらい、人の内面がよく見えます。
早い人は2,3秒くらい。見えない人もいるけどね。

スピリチャルな話のように聞こえるかもしれないけど、わりとロジックあります。

その人の表情。声色。話す言葉。態度。
それらを刹那的に全部を間(ま)でとらえると、その人の葛藤とか、プライドとか、苦しみとかが入ってきます。

たくさんの人と話してきた人生だし、たくさんの人との関係性で悩んできた人生だから、敏感なんだと思う。

人材のことをしている職業病だって言われるけど、そういう次元じゃないことは、もうわかってる。

今日も夕方、オンラインをしていて、ある女性の仕事の相談を乗っていたら、その方の表情や言葉から、葛藤とか過去の苦しみを感じただろう要素が入ってきた。

どうしようかなー、言わないで表層の話で終わろうかなーって思ったけど、止められなかったなぁ。。。

だって、目の前に、葛藤して、孤独を感じていて、でも必死で考えて、よりよくしようとしている人がいるんだよ。

放っておけないんだよね。だから、愛情をもって、言葉で突っ込むんだ。
「ごめんなさい」って思いながら。

注射の針がチクッてする感じ。人によっては、ぶっとい針になるときもあるけどね。

でもその注射がその人の体のためであり、心のためでもある。
そんなふうにとらえている。

その時はチクッてするけど、その人のこれからを考えたら大事なことなんだと思っている。

そして最初の注射を刺した後も、ほぼすべての人に対して、何本か刺すことになる。

痛い思いをさせたくないけど、「ここ」に注射しておかないと、あなたは、これからずっと自分に苦しむんだってことが感じ取れてしまうんです。

ここ1年くらいかなぁ、そうなったの。


「あぁ。ようやく自分の人生始まったわぁ・・・」って思ったのが、こうなるきっかけだったのかもしれない。それが1年ちょっと前。


別に、他人の人生を生きていた感覚はなかった。
だけど振り返ると、人の目を気にして自分を制御している自分がいた。

それなりに勉強もスポーツもできて、周りからは「すごいねー」ってよく言われた。

母は「お母さんからよく達揮みたいな子が産まれてきたなーって思うわ」って定期的に言われた。(そりゃ自己肯定感高くなるよねー)

運動会の応援団長。中学の、在校生代表の「送辞」と、体育祭での聖火ランナー。高校になっても変わらず学級委員長をして、体育祭では選手宣誓。成人式の実行委員では、立候補して委員長もした。1,000人の前で挨拶もした。

全部、いい経験になるって、頭に理解させて。
僕がやる役目なんだからなー、って心で考えて。断るという選択肢なんかなかったなぁ。


嫌じゃなかったんだけどさ。全然、前に出るのも好きなほうなんだけどさ。
だけど、そこに自分がいたのかって言われると、実はいなかったのかもしれないって思う。

いつもメタ認知して、今の自分がどうなのかを意識している僕。
おおよそ、このあたりにしておいたら「みんな」OKでしょうと、合格ラインを見つけるのが得意な俺。
「私」って仕事で使うたびに違和感しかなかったけど、「使わないとあかんのかなぁ・・・」の世間体に負けた俺。

ちなみに、今はいつでも基本形は「僕」です。
だって、かっこいいいなーって思う男性(主に60代以上の方)は、みんな自分のことを「僕」って言ってるんだよね。形から入ろうって思って、3か月くらいでなじんだかな。歳を重ねるたびにかっこよくなっていきたいからね。


自分の人生のはじまり。

今でも、人の目が気にならないわけではない。
世間体も気にしている。

そんな自分も含めて、自分であることを認識できたことが大きいかな。


「本当の自分探し、やめたほうがいいよ!ぜーーーんぶ自分だから。」

って、熱量高めに人に言うようにもなった。
同世代に相談を受けた時も、大学で講師させてもらう時も。

だってみんな、「本当の自分ってどれ?」って考えて、苦しんでるから。
僕も、ずっと苦しんできたからさ。


でも、ほんと、ぜーーーんぶ自分なんだよね。
ぜーーーーんぶ。


その感覚がストンって落ちてから、世の中に対する愛情が発露してきた。

今までは、相談を受けていても、『●●って思われたくない。』『■■って思われたい。』って潜在的にあったんだよね。

でも今は、まったくない。
どうあがいたところで、相手はなにかしらの印象を自分に抱いてしまうからね。

これもストンってなってるから、「思われたい自分」をリリースすることができたんだろうなぁ。

補足すると、会社のことや家族のことを考えた場合は、『●●って見られる存在になったほうがいいよな』という思考にはなる。でも、自分自身に対してどう思われたいかの欲は、皆無。


だから、「コンビニのドアを開けて対面の方のために持ってるのって、偽善かな・・・」って理由でしないことはなくなった。ぼーっとしてる時以外は、ドア持っている自分がいつもいる。
(昔、すき家に正面から入ろうとしたら、そこは通路ではなくガラスだったんだよね。お察しのとおり、頭からバイーンッって突っ込んだ。痛さより恥ずかしさが勝つんだねー、ああいう時は。笑 すき家の出入り口は側面なので、みんなも気を付けて!)


マックやスタバのゴミ箱の近くにゴミが落ちてたら、拾えて捨ててしまえる自分がいる。

こういう行動をした直後に、お得意のメタ認知を発動させて、自分の心に手をあてるんだ。毎回ね。

不思議なことに、毎回、そこに人からの見られ方を意識していない自分がいるんだよね。(
その後に、「あぁ、昔の自分だったらこう感じて、やったりやらなかったりしてたなぁー」って思いふけます。


自分の人生がはじまったと感じて1年ちょっと。

今の僕の"哲学テーマ"は「愛情」です。


1週間ほど前、妻に言いました。

「最近、自分の愛情を外にひらきたいってすごく思うんだよね。」って。

「手は二つしかないけど、持てるキャパが増えてるもんね。」だってさ。
おみそれしました、妻。


「愛は、まだ科学では発見されていない。」なんてロマンあふれる言葉を昔聞いたっけ。

ほんとに??って今思って、「愛 とは 科学」で調べたら、めっちゃ出てきた。笑

2番目に出てきたページが目にとまり、クリック。
これです。

その冒頭にこんな文章が書いてあった。

脳神経科学者ステファニー・カシオッポは、新著のなかで夫とのラブストーリーを綴りながら、恋愛や喪失、人と人のつながりについて掘り下げて論じている。

違うんだよなぁ・・・・。今の僕が論じたいのは、こういう質感の「愛」じゃないんだよなぁ・・・って思って、読むのはやめました・・・。

じゃあなんなんだって問いは、ご遠慮ください。哲学中です。

でも、上の文章の質感の「愛」も含めて、最近、僕の中で愛の定義が定まった。

コーチングをさせてもらっているんだけど、クライアントに対してのフィードバックとして、言語化できた。(めっちゃ感謝してます!)


以下の表現、誰か絵にしてほしい!!(クライアントに対して話したこと。)



僕の中での愛情ってさ、どれだけ与えても減らないんだよね。
100あって、1,2,3,4,5って、相手に与えるとするじゃん。
そうすると、自分の中は、99,98,97,96って減るって思うじゃん。
減らないんだよね。
瞬間的に、例えば10のエネルギーを相手に与えたら90になるんだけど、すぐに100に戻る。で、相手には10いくから、総数は110になる。
アンパンマンって、自分の顔を一部誰かにあげるでしょ。
で、欠けた部分を戻すことってできなくて、顔を交換するでしょー。
僕の愛情の定義は、瞬間的には顔は欠けるんだけど、すぐに、最初の顔の状態に戻っているんだよね。だから、与え続けられる。
相田みつをさんの言葉の中に、「"のに"がつくと愚痴になる」ってのがあって、結構大事にしているんだよね。
仕事でも、ボランティアとかでも。恋人に対しても一緒で、「してあげた"のに"」って感覚のものは、僕にとっては愛情ではないんだよね。僕の主観ね。
だから、自分の中で「減ってる」って思ったときは無理しちゃダメなんだよね。
どれだけ与えても減らない感覚があれば愛情。与えることで、自分の愛情が新陳代謝されていくから、「ありがとう」なんだよね。


ということを、言った記憶がある。
この、僕の愛情のイメージを可視化してくれる人を募りたい・・・(T_T)
(いずれ、自分でも絵か何かで表現したい、という気持ちが湧いてきております。)
大連のインスタまで、ご連絡お待ちしております。笑


んー、こうやって文章にしてみて感じたけど、僕がつくっていきたい世界って、愛情の総数が増えていく感じなんだと思う。

自分に無理して人のために動いたら、自分の愛の指数は戻らない。もしかしたらどんどん減っていくかもしれない。

まずは自分の状態が大事なんだと、やっぱり思う。
順番だね。

そこから、波紋のようにゆっくりと広げていきたいです。



今回はここまでに。
また、川の流れのように「書きたいなー」って思えたら、書きます。
明日かもしれないし、来年かもしれないけどね。


最後までお読みいただきありがとうございました。

もし、この記事を読んで僕と話したいと思っちゃった方は、ランチごちそうしてください。笑

お話しましょう(^^)

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