高校生クイズ感想と長い自分語り

2021年の高校生クイズで、とても好きな問題が出たので、その感想を書こうと思います。少し複雑な問題なので、状況を説明します。

まず、3チーム1組になり、1チームから1人ずつ計3人のメンバーが、ある部屋に入ります。残りメンバーは指示を出す係。部屋には数字を示すカウンターがあり、ある法則で増えるようになっています(最初カウンターは1分間見えないので、増えていたらそこまでの行動から法則を予測する必要がある)。そのカウンターの数字を早く100まで増やせればクリア、というルール。部屋には多くのものが置かれており、パッと見でも色々な法則が考えられます。解答者たちは様々な可能性の中からカウンターに関連する法則を見抜き、カウンターを増やさねばならない、というわけです。

解答者たちはツイスターゲームの色に着目してみたり、ドアを開け閉めしてみたり、その場で動作してみたり、色々なチャレンジをします。しかし、答えは意外なものでした。

部屋にある水槽の中の金魚が、水草を通過するたびにカウンターが増える

解答者たちの行動には意味がなく、金魚の行動こそがカウンターを増やしていました。そして、実は水槽の中にあるように見えた水草は、水槽の後ろにある模型だったのです。それに気付いて「水槽を動かす」という発想に至ると、水槽を行ったり来たり動かすことでカウンターの数字を100に増やせる、という解法です。

【ここから長い自分語りが始まります】

私は心理学を学んでいるのですが、その大きな理由に「誤帰属」に向き合えるから、というのがあります。ヒトは結果を見て原因を推測するわけですが、その推測は間違っていることも少なくありません。

昔から、成功者が成功の理由を勝手にしゃべり聴衆を感化させるスピーチが嫌いでした。自分たちは様々なものや人からの影響を認めるのに、犯罪者に限ってはその人1人に行動の原因が帰されるのも嫌いでした。

大学生になり、誤帰属への違和感を心理学の言葉で理解するようになると、少し見方が変わりました。生まれながらの性質、生まれてからの経験、その場の状況、脳のランダムなゆらぎ、そんなアンコントロールラブルなものにヒトが動かされているということ、そしてヒトの誤帰属の様々な性質(例えば、他人の行動の原因はその人物の内面に帰属されやすく、自分の行動の原因は自分の外の状況などに帰属されやすい)を学びました。

そして、大学ではクイズにもハマります。クイズは、いわば「正解できた」という結果の原因を基本的に「解答者(自分)がすごかったから」のような分かりやすい誤帰属で成り立っていると思っています(もちろん、ある程度は正しい帰属だと思いますが)。クイズ以外の遊びだと、アクションゲームでプレイ時間が増えるのに連れて、プレイヤーに気付かれないよう徐々に難易度を下げていった結果、プレイヤーは自分がうまくなったと感じプレイ時間が増えた、という研究があったりします。

そんなこんなで、社会制度などにおいて誤帰属が正しく認識されないのは避けるべきと思う一方で、誤帰属は人間の文化(娯楽や遊び、学問や人生論まで)に極めて重要なファクターである、誤帰属と人間生活は切り離せない、と考えるようになりました。

本当はほぼ無力な人間は、しかし自分が無力ではないと勘違いをし、その性質によって人間の生活、社会、文化が成り立っているのではないか、そういう直感が、私にはあるのです。

さて、心理学徒である私は、高校生クイズの金魚の問題を見て、2つの研究を思い出しました。

1つは「スキナー箱」。箱の中に入ったラットが、あるとき偶然レバーを触れると、エサが出てくる。繰り返すとラットはレバーを押すという行動を繰り返すようになるというものです(詳しいことは調べてください)。

金魚の問題では部屋の中に入っているのはヒトですから、ヒトのように因果の法則を考えることができます。説明した通り、解答者たちは色々な行動を試みて、カウンターの数字を確認するという能動的な作業で法則を探します(スキナー箱とはここが決定的な差です。スキナー箱の時代には心理学研究で対象の思考過程を考えること自体避けられていましたが、クイズでは解答者の思考を作問の妙によって操作することが考えられます)。

もう1つ思い出した研究は「246問題」です。「2,4,6」という数字は「ある法則」を満たす数列であると教えられた参加者は、3つの数字の組を実験者に言ってその組が法則を満たすかを確認する、という作業を繰り返すことで、法則を明らかにすることを目指します(例えば、「1,3,5」なら「満たす」、「10,9,8」なら「満たさない」)。

答えの法則は「順に大きくなる3つの数」という簡単なものですが、これを当てようとするとき、参加者は「自分が思っている法則を満たす数列を多く言いがち」という傾向にありました。冷静に考えれば、「自分の思っている法則を満たさない数列を言う」ことも必要です(すべて偶数、だと思った場合、奇数を含めて満たさないことを確認する必要があるが、「10, 12, 14」と言ってしまう、のような感じ)。

246問題と金魚の問題は、正しい法則にぴったり辿り着くためには、一旦仮説を否定される必要がある、という点で似ています。金魚の問題では、「何もしていないのにカウンターが動いた」ことを経験し、「自分たちの行動が重要だ」という仮説を否定しなければなりません。「法則を当てるクイズ」と言われている状況では、その仮説は半ば暗黙の前提で、否定すべき仮説として意識しづらくなっており、しかもこの仮説を否定するには「何もしないという行動」をとる必要があります。金魚の問題の難しいポイントはここにあると思います。
(ちなみに、246問題について、ある先生は、実験参加者が複雑な法則を想定しやすいことを指摘し「わざわざ法則を当てろと言われているというメタ読み」があるのでは?という分析をしていました)

簡単にまとめると、金魚の問題を解く場合、解答者は最初、自分たちの行動のうちの何かがカウンターの数字を動かすという誤帰属を起こしがちだが、「行動しないという行動」(あるいは偶然)によって、自分たちの行動は意味がなかったことに気付き、そして水槽を動かすという能動的な行動によってクリアする、という流れになる可能性が高いと思われます(まあ、最初から何も行動しないでみる、という知性と勇気を兼ね備えた解答者もいるかもしれませんが)。

ここでは、自分たちは無力ではないと勘違いしていた人間たちが、無力に気付き、そして気付いたことによってはじめて、無力ではない存在となる、というストーリーがあります。もっと言うなら、これはクイズ(解答者の能力に正解の理由を帰属する遊び)ですから、「無力に気付く」こと自体が「求められている力がある」ことの証明になる、という逆説的な関係も含んでいます。

小さな金魚に運命を左右されてしまうはずだった無力な解答者たちは、他ならぬその事実に気付く力によって、水槽の裏にある水草のギミックを見抜き、水槽を動かしてカウンターの数字を増やすことになります。今や、解答者は無力ではありません。

もちろん、この見方は私の誤帰属です。何もしていないときに金魚が動くかは運要素も大きいし、それに気付けた人も偶然気付いたに過ぎないかもしれません。しかし、クイズはそれで良いのです。確かに画面には、誤帰属に気付き、それを乗り越え、誤帰属を真実とした解答者たちが映っていた(と私は勘違いしている)のです。

金魚の問題は、他のクイズとは違った意味で、私に衝撃を与えてくれた1問でした。

p.s. 何でもかんでも「脳」をつけときゃそれっぽくなるだろという不誠実な態度は許してはいけません。

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