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考えることを許された空間と物との対話

読書をしている間にふとテーブルの上のカップを眺めていると、デッサンがしたくなったので受験ぶりだろうか、しっかり描き込んでみた。

受験中や大学在学中に作ったものは競争がモチベーションだったりするものが多く、自分自身めちゃくちゃ心苦しかったのを覚えている。誰が競争を仕掛けてきていたわけではないが周りの才能や努力や物にのめり込む姿に圧倒的な差を感じて、あんなに自由に作品を作りたいと思っていたのに楽しくなかったなあと今振り返っても苦い気持ちになる。圧倒的下手さで受験に合格しないというほど下手でもないけれど、他人を無視して自分との戦いに飲み込めるほど上手くもなかった。だから自分のデッサンはいつも現実を映し出せず、どこかの比率がおかしかったり曲がったりしていた。でも物として(存在できる程度には)筋が通っていた。中途半端な感じ。

工業製品は比率や角度などに狂いがあると、一気に筋が通っていない物体になり、画塾の先生に「コミカルになってるよ!」と何度か怒られた。銀色の反射がすごいポットを描く時は周りの映り込みを描くことで反射しているのを表現するのだけど、そこにおかっぱのちびまる子ちゃんみたいな自分を描いたら「これどうにかして?!」とも言われた。美術初心者なのによく合格したなと10年経った今でも思う。

さて今回の数年ぶりのデッサンはカップをかいた。白い陶器のカップ。いつも雑に扱っている変哲もないカップ。大まかな形と比率をとっていき線をひく。この時にしっかり比率をとっていないと大変だけど、直せないこともない。鉛筆を平らにして線を足していく。工場で大量生産されたであろうカップのディテールを普段気にすることは全くなかったが、よくみてみると微妙な曲線が全体的なぽってり感を出していることがわかる。またとってのどこが一番高い部分か、頭では耳たぶみたいな形なんだろうと思って描くと実は割と上の方に一番高いポイントがあったりする。「ああ、そうなんだね」「そこの曲線はそんなふうに生えているのか」「この部分の面はこんな風に分解できるのか」と物と対話している時間はとても楽しく過ぎる。

大まかに形が取れたら次は目を細めて影を入れていく。白いカップの黒いところ、白いところ、反射の部分、大まかに入れるだけで一気に立体感が出てくる。

そのあとは質感を出していく。今のままではざらざらだ。これから陶器のツルツル感を出していくためには硬めの鉛筆で形を描き出していかなければならない。

そのあとはツヤを出し、一番光が当たっている部分を白抜きしては練り消しで馴染ませる。白抜きが浮かないようにするためだ。

ここまで描いてくると、余計な線がたくさんあるため形がぼやぼやしてくる。そこでしっかり形を取るために周りの形をぼやけさせている線を一気に消すと、画面上にカップが浮かび上がって一気に命を吹き込まれたような感じになる。

遠くから見てみると上の飲み口の楕円がぐにゃっとなっている。カップとしては使えそう、でもデッサンとしてはコミカルというか、歪んだ絵で少しがっかりしたけれど、健在だな、と思った。

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