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歌詞和訳 ー "Duncan" from Paul Simon 1972 self-titled album

ポール・サイモンは間違いなく現代ポピュラー音楽界の至宝の一人に数えられるようなミュージシャンだと思うけれど、この note 界(妙な言い方だが、笑)における彼の知名度は、その意味では不当に低い。「その意味では」というのは、note のユーザーや読者の関心領域が全ての分野を隈なくカヴァーしているはずはなく、且つそうあるべきとも当然ながら思わないので、これはあくまで「その意味では」ということ。つまり、そんなことを理由にして note 界なるものの現在には何らかの問題があるなどという、そんな莫迦げたジャッジをするものではない。ただ、単純に、どうやら、note をやっている人や note の投稿を見ることが多い人たちの中においては、ポピュラー音楽の小さな巨人ポール・サイモンに関心のある人の人数はかなり少なそうだ、比率としても相当に小さいようだ、ということ。

そういえば、先日、試しにハッシュタグを頼りにチェックしてみた時も、やはりそうかと思った。つまり、ハッシュタグで見る限り、彼の名前が出てくるような投稿をしている人は極めて少ない。投稿の件数の合計としては決して特別に少ないというわけではなさそうだが、見ると、その投稿は、特定の一人二人によるものに集中している実態があることが分かった。筆者とはまた別のタイプの、と思われるマニアックな(筆者自身は自分の嗜好・志向がマニアックだとは思っていないものの)分析を試みている人がいて、その人の投稿がかなりの部分を占める。残りは筆者を含む、さして多いとは言えない人数、というか、少人数と言っていいだろう。

前置きはそのくらいにして、昨日、この曲 "Duncan" の歌、歌詞、筆者による歌詞和訳を含むテキストを投稿したけれども、昨日「いいね」(note では Facebook でいうところの Like, あれは日本語仕様のものでは「いいね」になっているけれども、あの Like の直訳のような「スキ」が呼称となっていて、これまで何度も書いているけれども「スキ」という呼び方にはいつまで経っても馴染めない、笑)が 1件あったことが note からの通知で分かったのだが、それがほどなく(その、いわゆる「スキ」があってから間もなく)、取り消された。この種の現象は稀に note のシステム・エラーと言えるような原因で起きることがあるようだが、それは稀というもので、昨日のその時間帯に関して言えば、他の投稿への過去の「いいね」がいくつか消えたということもなさそうだし(面倒くさいので調べたわけではないが)、普通に考えれば、一旦「いいね」をした人が、投稿内容をよくよく見て、「はて」と考えて、やっぱり「いいね」止めとこうと思って、取り消した、そういうことだと解釈すればいいんだろうと思う。

「いいね」(「スキ」)の取り消しをされる経験は初めてのことではないし、「いいね」をしてもそれを取り消しても、あるいは目に入ったけれども、もしくは読んだけれども反応を残さない、としても、要するにどんな反応をしても(しなくても)、それは自由だし、その理由も当人の自由。したがってそれは基本的に気にするものではないのだが、何とはなしに、そういうことがあったという事実だけ記録に留めたい気にはなる。まぁそれ以上でも以下でもないのだのが。

"Duncan" の歌詞には、聖書やセックスに絡むフレーズやラインがあって、それらはある種のメタファー的な働きをするものとして歌詞の中の物語に使われている可能性があるけれども、あまり突っ込み過ぎると要所を外すおそれもあり、その意味での大胆な分析、のようなものは昨日もしていない。ただ、「聖書」や「聖歌」、あるいは「説教」などを意味する言葉が登場する、そういう歌詞によって語られる物語が、冒頭から終盤にかけてセックスに纏わることを扱っている、そのことには作者の何らかの意図があるものと思われる。

前段で既に書いたように、昨日の投稿では、その意味での分析みたいなものは特段していない。いや、多少はしているのだが、あからさまな書き方はしていない。その代わりではないが、歌詞が扱った「セックス」という行為については、「あからさまな書き方」をしたと言えるかもしれない。聖書やキリスト教などに絡めた「巫山戯た」表現を織り混ぜつつ。また、「聖書やキリスト教」それ自体に関しても、いくつかの点では言及した。

昨日の自分の投稿は単に、歌詞に「聖書」、「聖歌」、「説教する」という言葉が使われ、そしてセックスについては直接的にその言葉が使われているのではないにしても、まぁ誰が読んでも分かるレベルで「セックス」の行為が物語の初めと終わりに置かれている、そんな歌の内容がリスナーの興味を惹くものであること、そこに絡めて、真面目な話と「巫山戯た」表現を混在させたテキストを書いた、そんなものだったと思っている。

全面的に「巫山戯た」わけではなく、要所要所に「真面目な」ことを織り込んではいるものの、見る人・読む人によっては、「ほとんど巫山戯てる」と見做す人もいるだろうと想像する。もっとも、実際に昨日の投稿テキストを読んだ人は、筆者にとっては残念ながら、現時点で殆どいないものと思うけれども(笑)。

と、結局長々と書いてしまった「前置き」もどきはようやくのことこのくらいにして、今日のこの投稿では、あらためて、昨日取り上げた曲、"Duncan" の歌の音源へのリンク、そして歌詞、筆者による歌詞和訳の掲載を行なう。

ただ、昨日の投稿の中に書いた分の前置きテキストは外し、且つ、昨日の投稿(の前半)と違ってスタジオ・ヴァージョンのクリップを使い、淡々と以下に載せておこうと思う。 もう今日の投稿の中の上記「前置き」文があるから、ある意味、今日も「淡々と」ではなくなってしまっているけれどね(笑)。

まぁこの下は、正真正銘、「淡々と」。

"Duncan" (Paul Simon, 1972) ー 歌詞和訳

Duncan ー From Paul Simon 1972 self-titled album

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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隣りの部屋のカップルは
賞金でも狙ってるんだろうか
彼ら、オールナイトで延々と続いてるんだ
僕はちょっとでも眠ろうとしてるんだけど
このモーテルの壁はどうにも安っぽくてね
ところでリンカーン・ダンカンというのが僕の名前なんです
それで、これが僕の歌、僕のことを歌った歌なんです

父は漁師で (*1)
母は漁師の女友だちでした
それで、僕は彼らの退屈しのぎの中で生まれたのです
それと、チャウダー(寄せ鍋)の中で
だから僕は盛りの頃、つまり青春とか呼ばれる時期を迎えると
マリタイム (*2) の家を出て
ターンパイク (*3) を通って、目的地に向かったのです
ニューイングランド (*4) に、憧れのニューイングランドに

僕の自信は穴ぼこだらけ
ジーンズの膝にも穴が開いていて
ポケットには1ペニー硬貨すら残っていませんでした
おお、僕はもう子どものように無一文 (*5) だったのです
指輪でもしていればよかったなと思ったほどでした
そうすれば質屋に入れて少ししのげたのに

駐車場で見た若い女性が
群衆に向かって説教をしていました
聖歌を歌い、そして聖書を読み聞かせながら

それで、僕は彼女に言ったんです
僕は自分を見失ったみたいですと
そうしたら彼女は僕に話してくれたんです
聖霊降臨 (*6) についての全てを
僕には彼女が、僕がこれから生き続けるための
道筋のように思えてきたのでした

I know, I know, I know, I know, I know, I know (*9 これは訳しません。)

その同じ日の夜
僕は懐中電灯を片手に彼女のテントをこっそり訪ねました
そうして僕は長い罪なき (*7) 時代、童貞の時代に別れを告げたのです

そうなんです、彼女は僕を森に連れて行きました
何かがやって来るの、そうしたらとても気持ちよくなるのよ
と言いながら
そうして僕は犬のように可愛がってもらったのです、犬のように (*8)

おお、おお、なんて夜だろう
おお、ここは歓喜の庭に違いない
今もあの甘美な思い出は消えないのです

I know, I know, I know, I know, I know, I know ... (*9)

僕はギターを弾いていました
満天の星々を見上げて横たわりながら
ただ神に感謝しながら
僕にこの指を授けてくれたことを
ギターを奏でるこの指を

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*1 なぜ「漁師」なのか、その意味について考えられる点は、昨日の投稿で簡単に触れた。
*2 カナダの地名(地域の名称)、The Maritimes を指しているものと思われる。
*3 turnpike は高速道路もしくはその料金所、ここでは前者を指している。
*4 New England が示唆すると思われる点については、昨日の投稿で触れた。

*5 destituted は辞書にもなく、destitute という動詞もない。destitute ならば、「極貧の」といった意味の、かなりの貧窮状態を表わす形容詞。the destitute と言えば名詞句になって意味は「貧困者」。歌詞サイトをいくつか見たが、綴りは "destituted" で、この綴りがここで使われていることはちょっと不思議。実際にはこういう単語があるのかもしれないが。

*6 聖霊降臨、ペンテコステのキリスト教における意味については、昨日の投稿で簡単に言及した(しつこくやった「巫山戯た」言及の方はさておき)。 

*7 innocence は淡々と「童貞」と訳してしまっていいのだが、ここは「聖書」やキリスト教との関わりを想い、あえて直訳の「無罪」「無邪気、無垢、純潔、純真」から、「無罪」「罪なき状態」の意を取り出して、日本語の中に入れてみた。

*8 繰り返しは "I was befriended" の方だが、日本語にした場合は、"just like a dog" の訳を繰り返した方が原詞の雰囲気に近いと思う。

*9 "I know" の繰り返しは無理に訳さない方がよさそう。自信を完全に失いかけていたダンカンが、歓喜の末に、見失っていた自分を取り戻したこと、それが "I know" の object, 目的格みたいなものに当たるのかもしれない。しかしこれはちょっと難しいし、抽象的に喜びを表現している繰り返し、ぐらいに受け取っておけばいいのだろうと思う。

Bonus track: Live version (要するに昨日の投稿)


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