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平家の落人伝説、多すぎ?

日本全国には平家の落人(おちうど)伝説が存在します。

平家の落人(へいけのおちうど)とは、治承・寿永の乱(源平合戦)において敗北し僻地に隠遁した敗残者のことです。

普段はWikipediaでソースを取ることをしませんが、とても詳しいのでこちらのURLをリンクします。

平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という呼称が意味するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の場合もある。(Wikipedia)

なるほど。平家の落人というと、なんとなく平家の末裔なのかと思うのですが、必ずしもそうではないようです。

平家の落人は大抵、山の奥深くや離れ島や孤島などに存在している。そのため、平家は人口が少ないところや山間部や谷間など人がよりがたい所に里を築く。(wikipedia)

平家由来の地域や合戦場などを散策したことがあります。現代では車があるので近づきやすいものの、当時は車なんて当然無いので、なかなか行き着きにくかったのだろうと推察されます。

ここから疑問があったので、少し載せますね。

日本各地の代表的な平家の落人伝承のある地域は以下の通りである。

東北地方 
宮城県仙台市青葉区定義地区
平貞義(平貞能)が落ち延びたと伝わる。


鳥海山麓(山形県酒田市)
平家方として落ち延びた池田彦太郎秀盛兄弟が隠れ住んだと伝わっており、秀盛の後裔と称する氏が戦国時代の土豪として存在し、最上氏等の家臣となっている。


福島県南会津郡檜枝岐村
平家方として落ち延びた平氏・藤原氏の者が土着し、星姓、平野姓を称したという。


岩手県久慈市宇部町
平重盛の隠し子の兄弟が大唐の倉に漂着し、後に氏を宇部と大沢の姓を称し、野田氏に仕えたという。


関東地方 
古分屋敷(茨城県久慈郡大子町)
平家方についた大庭景親の残党が落ち延びた伝承がある。尤も、武者ではなく平家方に随身した武将の姫であったといい、古分屋敷に子孫は10軒の家を構えたとされる。二人の姫と土着した子孫の姓は桐原氏、神長氏という。桐原氏は坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の流れを汲む大庭氏の血筋であり、神長氏は藤原氏であるという。また、この二氏は佐竹氏の家臣としても存在している。


栃木県那須塩原市上塩原
平貞能が平重盛の遺族ともども宇都宮頼綱を頼ってきた地とされる。平貞能が宇都宮頼綱に庇護され、鎌倉幕府もそれを認めたことは吾妻鏡にも残っている史実であるが、重盛一族の行方はかなり謎が残る。江戸時代の史料では平貞能はこの近辺の寺を巡礼して92歳で病没、その子孫で塩谷氏に仕えた山田泰業は一時期山田城の城主となったが、主君である塩谷氏が文禄4年(1595年)に改易されると、山田親業は山田城を廃城にし、苗字を黒子[3]と改称の上、常陸国笠間に逃れた。重盛の六男である湯西川の平忠房(平忠実とも言われている)は、塩原から更に奥地の湯西川に到達した一族を統率して湯西川を開拓したという。


栃木県日光市川俣
平藤房(藤原藤房とも)らが落ち延びたとされ、大将塚・平家杉などの史跡が散在するが、平藤房なる人物の史料は残っていない。
栃木県日光市湯西川(湯西川温泉)
平忠房(平忠実とも言われている)もしくは平清定の子、平景定が落ち延びたとされる。湯西川の平家の落人伝説は現地の平家落人民俗館や平家の里などでも紹介されているほか、平家大祭などの行事も行われている。湯西川温泉では積極的に落人伝説を観光業に活用している。
平家の者であることを悟られぬよう、苗字を「伴」とした。「伴」の人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「伻」という字になる。つまりは「平の人」ということを意味し、平家血縁者であることを示す。現在も「伴」という苗字の平家の子孫がこの土地に存在している。
独自の風習として、端午の節句にもこいのぼりを揚げない・たき火をしない(煙を立てない)・犬を飼わない・鶏を飼わないなどがある。これらは人が山中に暮らしていることを外部に嗅ぎ取られないためである。


群馬県利根郡片品村
関東では最北に位置する落人伝承の村である。あちこちで敗れた平家一門は尾瀬も近く、片品村に至るまでも険しい山々が連なる場所まで逃げた結果、片品村に平家の落人が住み着いて繁栄することになった。


中部地方 
新潟県佐渡市相川地区
長兵衛尉 長谷部信連が落ち延びたとする伝承がある。


新潟県中魚沼郡津南町・長野県下水内郡栄村にまたがる秋山郷
源頼朝に敗れた平勝秀が落ち延びたとされる。


五箇山(富山県南砺市)
倶利伽羅峠の戦いで敗れた者の子孫という説、あるいは源義仲に敗れた平維盛の子孫が住みついたという説がある。この話をもとにしたのが「むぎや」である。


富山県の虻(オロロ)(富山県呉西地方)
富山県の山間部渓流では真夏にオロロと言われる虻が大量発生することから、その正体は倶利伽羅峠の戦いで敗れた者達なのだという言い伝えがある。


石川県輪島市
平時忠が配流となり、子孫が上時国氏、下時国氏を興した。


石川県加賀市山中温泉真砂町(まなごまち)
惟喬親王を奉ずる木地師集落。山中漆器の源とされる。


福井県福井市赤谷町(あかだにちょう)
平維盛は父の所領であった越前国に落ち延び、山伏の修行場所であった赤谷に隠れ住んだという言い伝えが残っている。維盛は赤谷で約30年間生き、次第に血筋が増えて一つの村になったという。宮中の流れをくむという風習が現在も受け継がれている。


福井県越前市五分市町(ごぶいちちょう)にある城福寺
城福寺は平保盛が鎌倉時代に建立し、現代に至るまで平家の子孫が住職を務めている。後の平家追討の中で保護されたのは池禅尼の尽力によるものと伝えられている。


福井県大野市西谷地区・和泉地区
この地域ではあちこちの集落に平家の落人伝説が残されている。集落の高齢化や過疎化、ダム建設に伴い、消滅集落となったところも多い。特に大野郡西谷村(現・大野市西谷地区)では全住民が離村し、1970年6月30日限りで廃村となった。西谷村には平家の落人にまつわる「平家踊」や「扇踊」(ともに県指定無形民俗文化財)が伝わり、村が廃村となった今でも旧村人が大野市内で踊を続けている。


長野県伊那市長谷浦
壇ノ浦の戦いに敗れた平維盛の子孫が住み着いたと言われている。維盛の父である平重盛が小松殿と呼ばれていたことから、小松姓を称した。壇ノ浦の「浦」が地名となった。


静岡県富士宮市上稲子(かみいなこ)
紀州にて入水したという伝承が伝わり、同地には平維盛のものとされる墓が伝わる。現在のものは墓は天保11年(1840年)の再建。「上稲子の棚田」に墓が建っている。


近畿地方 
三重県津市
芸濃町河内に「平維盛の墓」[7]、美杉町太郎生に「平六代君の墓」とされる日神石仏群五輪塔がある。


三重県伊勢市矢持町
「平家の里」という名が残る。


三重県志摩市磯部町五知
地区の福寿寺に「平家の赤旗」と伝えられる旗が保存されている。


南島八ヶ竃(三重県度会郡南伊勢町)
南伊勢町に多く見られる「竃」が付く地名は、平家の残党がそこに住み着いて塩を作って生計を立てていた集落であるという。詳しくは南島町#伝説を参照。


大阪府豊能郡能勢町
1185年、安徳天皇が能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したという。「安徳天皇来見山御陵墓」がある。


兵庫県赤穂郡上郡町小野豆
平経盛が落ち延びたという伝説がある。


奈良県吉野郡野迫川村平(たいら)
平維盛がその生涯を終えた場所とされ、平維盛塚の付近は「平維盛歴史の里」として整備されている。


奈良県吉野郡十津川村五百瀬
山林中に平維盛の墓と伝えられる祠がある。


和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川
平維盛が屋島から逃亡し、紀伊国色川郷に隠れ住んだと伝わる。


和歌山県日高郡みなべ町堺
国道42号線沿いに平家塚があり、年に一度地元の常福寺が平家祭りを行っている。
平家の落ち武者が当地に流れ着き、幟をあげたために源氏の追討に遭い絶滅し、その後当地では鯉のぼりをあげなくなったという言い伝えがある。


中国地方 
鳥取県鳥取市国府町岡益
詳細は「岡益の石堂」を参照


鳥取県八頭郡若桜町落折
平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したと伝わる。


鳥取県八頭郡八頭町姫路
安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官


「平家伝説多すぎ問題」

多すぎて載せ切れませんでした。

それぞれの定義はあるかもしれませんが、何が言いたいかというと、「これほどまでに落人伝説が全国にあるのは何故だろうか」という疑問があります。

それぞれの地域の伝承を疑っている訳ではありませんし、研究を疑っているわけでもありません。ただ、これらの説が本当だとした時、「平家関連人物が多すぎないか?」とふと思うには十分ではないでしょうか。

今後もフィールドワークをしていきたいと思います。

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