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酒のまぬおのこは好かぬかな


堀井梁歩訳『ルバイヤット 異本留盃邪土』(南北書園、昭和22年5月25日)

高遠弘美訳『トゥーサン版ルバイヤート』(国書刊行会、2024年)を紐解きながら、そういえばルバイヤートを一冊持っていたなと思い当たりました。本棚を掘り返しますと現れたのが堀井梁歩訳『ルバイヤット 異本留盃邪土』(南北書園、昭和22年5月25日)です。

本書の巻末に置かれている安倍能成「堀井梁歩君」および宮崎安右衛門「後記」から堀井梁歩の略歴を抜き出しておきたいと思います。

堀井梁歩、名は金太郎。秋田県出身。同郷の椎名純一郎、其二の兄弟とは親しくていたようです(椎名其二は『昆虫記』の訳者として知られています、晩年はパリに住んで装丁を業としました)。第一高等学校を中退してアメリカに渡り、戻ってから秋田近郊の雄物川辺に農園を営んだようですが、失敗して再び渡米。その後、著書『野人ソロー』、『大道無学』(大正15)を出版、また個人雑誌『大道』(大正14〜昭和6)にホイットマン『草の葉』の翻訳を発表しています。上京して『蘆花全集』(昭和3~5)の編集に携わり、上高井戸に一軒家を構えました。生活のため雑誌販売や納豆売りもやったそうです。宮崎の紹介で『草の葉』(昭和6)を春秋社より出版しています。

秋田以来の知人を頼って朝鮮へ渡ったのが亡くなる五、六年前(昭和8頃?)。安倍能成は大正15年に京城帝国大学教授となり、哲学・哲学史第一講座を担当していました。

堀井は、昭和11年2月、オマール・カイヤームの四行詩をフィッツジェラルドの英訳から重訳し『留盃瑯土』として自費出版します(200部)。それを記念して清和園で「ルバイヤットの会」が催されたとき、堀井は非常に喜んで痛飲しましたが、それから間もなく脳溢血で倒れました。

回復後、図書館に就職するものの長続きはせず、昭和12年10月には退職したようです。そして13年1月に『異本留盃邪土』(100部)を自費出版しました。それが本書の底本です。巻頭の二首と末尾の二首を引用しておきます。

   一

 酒のまぬおのこは好かぬかな
 同じ屋根の下に寝[いね]たうもなし
 同じ方舟[はこぶね]に乗り合ふもうし
 ひたすらに怕[おそ]るる後の祟[たゝ]りかな

   二
 あまりにな信じそ聖徒の力
 徒らに流されし紫の血潮の痕
 水をもて洗ひ流されんと
 はた かぐはしき花にしもあれ

 
   百

 老年になつたら過ぎし日を憶ひ出してよ
 楽しかりし日に溜息を吐ない
 享けし饗宴と歓楽に感謝してよ
 分りもしない国のことはアテにするない

   百一

 残[のこ]ンの楽ぞ最も尊貴なれ
 怖なく旅の終りに近づけよ
 涙なく別離を告げよ
 冗語[ことば]なく行く途[て]に就けよ
                 (終り)

前の訳も詩として朗々誦するに堪へたが、今度のは訳としての適否は知らず、全く一つの創作として実に縦横自在な感興の流露に任せた、うまいものであつた。堀井君にそれを云つた所が「僕も今度のはあまり旨く出来たので、最後が愈々近づいたのかと思ふ位だ。あの世の送別会になつていいから『留盃邪土』の会をやつて下さい」と言つた。

安倍能成「堀井梁歩君」p140

そして実際、昭和13年4月14日に『留盃邪土』の会が行われました。今度は朝鮮料理の「天香園」で。それから五ヶ月後の昭和13年9月12日、堀井梁歩は胃がんのため歿しました。数え五十二。

歿後、『梁歩の横顔』(相場信太郎編)が刊行されたようですが、これがまた200部の稀覯本となっています。


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