キッド・アイラック
窪島氏が「キッド・アイラック」という画廊を銀座八丁目広業社ビル四階に開いたのは昭和四十七年四月だそうです。その後、渋谷明治通りへ移り、さらに信濃町へと転居した、と本書にはあります。
渋谷の「キッド・アイラック」(たしかキッド・アイラック・コレクション・ギャラリーという名称でした)で関根正二展を見た記憶は鮮やかです。本書によれば「松本竣介展」を渋谷で開催したのが昭和四十九年十一月末とのこと。
筆者が武蔵野美術大学に入った年が昭和四十九年ですから、おそらく関根展は昭和五十年だったのでしょう。美術雑誌か何かの広告を見て、道に迷いながら訪ねました。画廊は渋谷の外れの雑居ビル上階にあり、そんなに広くない細長い空間だったように覚えています。来場者は誰もいませんでした。画廊の人がいたのかどうか。静かでした。壁に並ぶのはほとんどデッサンばかりでしたが(記憶ではそうです)、なかでも繊細なペンで描かれた「自画像」が素晴らしく、しばらく放心したように見入ったことは忘れられません。
心のおくの鈴がリンと鳴るというのは言い得て妙ですね。絵に捉えられる感じもよく分かります。窪島氏は捕えられるだけでなく、その絵を踏み台にしてヒトハタあげたかったとも述べています。《絵は好きだったが、私は半分商売人だった。》と。
本書でおっと思ったのは野田英夫の俳句です。「シスコ野田英夫さがしーーリベラ、逸蒼のことなど」というエッセイに開教師・波多泰巌(明治二十二年佐賀県生まれ)が赴任していたオークランドの仏教会では下山逸蒼(自由律の俳人、岩手県生まれ、一九三五年歿)が「湖畔吟社」という俳句結社をおこしていたとあります。野田はそこに所属して俳句を学んでいたというのです。
文中《寺日竹雄》は寺田竹雄の誤植でしょうか。さて、この俳句、出来栄えとしてはどうだか分かりませんが、野田の絵を思い浮かべると、空気感に似通うものがあるような気がします。