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キッド・アイラック


窪島誠一郎『絵画放浪』(小沢書店、1998年7月30日第二刷)

窪島氏が「キッド・アイラック」という画廊を銀座八丁目広業社ビル四階に開いたのは昭和四十七年四月だそうです。その後、渋谷明治通りへ移り、さらに信濃町へと転居した、と本書にはあります。

渋谷の「キッド・アイラック」(たしかキッド・アイラック・コレクション・ギャラリーという名称でした)で関根正二展を見た記憶は鮮やかです。本書によれば「松本竣介展」を渋谷で開催したのが昭和四十九年十一月末とのこと。

 それがきっかけになって、翌年から二、三年のうちに、「古茂田守介展」「村山槐多展」「関根正二展」「野田英夫展」……夢のような展覧会が次々と実現された。どれもが、私がかねてからやりたいと考えていた展覧会だった。「竣介展」の成功で私は自信をもったのだろう。もちろん自分のコレクションだけではなく、あちこちから作品を借りあつめてきた非売品が大半の展覧会だったので、経済的には苦しかったが、画廊を訪れる有名画家や評論家の先生たちから企画の努力をたゝえられるのが何よりうれしかった。 

p36

筆者が武蔵野美術大学に入った年が昭和四十九年ですから、おそらく関根展は昭和五十年だったのでしょう。美術雑誌か何かの広告を見て、道に迷いながら訪ねました。画廊は渋谷の外れの雑居ビル上階にあり、そんなに広くない細長い空間だったように覚えています。来場者は誰もいませんでした。画廊の人がいたのかどうか。静かでした。壁に並ぶのはほとんどデッサンばかりでしたが(記憶ではそうです)、なかでも繊細なペンで描かれた「自画像」が素晴らしく、しばらく放心したように見入ったことは忘れられません。


自画像(1916作)信濃デッサン館

村山槐多や関根正二、野田英夫といった絵描きたちの作品とぶつかると、心のおくの鈴がリンと鳴った。その絵の前に立つだけで、ある種の戦慄のようなものが背筋をはしった。この絵といっしょにいたい、この絵の前を離れたくないといった感情が私をおそった。ことによると、私が「絵をみている」のではなく、絵のほうから「視線をあびている」のではないかとさえ感じるほどだった。 

p36-37

心のおくの鈴がリンと鳴るというのは言い得て妙ですね。絵に捉えられる感じもよく分かります。窪島氏は捕えられるだけでなく、その絵を踏み台にしてヒトハタあげたかったとも述べています。《絵は好きだったが、私は半分商売人だった。》と。

本書でおっと思ったのは野田英夫の俳句です。「シスコ野田英夫さがしーーリベラ、逸蒼のことなど」というエッセイに開教師・波多泰巌(明治二十二年佐賀県生まれ)が赴任していたオークランドの仏教会では下山逸蒼(自由律の俳人、岩手県生まれ、一九三五年歿)が「湖畔吟社」という俳句結社をおこしていたとあります。野田はそこに所属して俳句を学んでいたというのです。

 野田は、サンフランシスコ美術院を中退してニューヨークのウッドストックに住むようになってからも、美術院時代の画友山崎近道や寺日竹雄とともに「湖畔吟社」へさかんに投句をしていたらしい。

  寒空のアップルゆすぶっている

 現在確認される野田英夫の俳句はこの一句だけだが、何だか一見無造作につくられたこの自由律俳句にも、野田の絵にあるふしぎな色彩と線の感覚がひめられているようでおもしろかった。 

p116-117

文中《寺日竹雄》は寺田竹雄の誤植でしょうか。さて、この俳句、出来栄えとしてはどうだか分かりませんが、野田の絵を思い浮かべると、空気感に似通うものがあるような気がします。

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