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珈琲


『串田孫一随想集』(筑摩書房、昭和33年)1〜8

『串田孫一随想集』をまとめて買ったので拾い読みをしていると、短いエッセイを集めた第7巻「ヘンデルと林檎」のいちばん最後の「珈琲」というタイトルが目にとまった。

全部引き写してもいいくらい短い。が、著作権も多少気にしつつ、喫茶店に関するところだけを引用しておく。

東京駅の前を歩いていた。巡査に職務質問をされたらいやだなと、おどおどしながら歩いていると、知らない男が話しかけて来た。「君は岩下三平だったね。ずいぶん久し振りだなあ。一体どうしてた」。(引用文では改行を一行アキとした)

そして話したいことがあるから、そこまで一緒に行こうと言い出した。広場から地下道に入り、丸ビルの地下で、お茶を飲もうといつてどんどん歩き始め「戦争の最中に会つてからだから何年目になるかなあ」と言つている。

 私は面倒なことになつたと思い、いつそ岩下三平になつてしまおうかと思った。彼はコーヒーを二つ注文して、何だか知らないが、急に恨みを含んだ目で私を睨み出した。それでは私は岩下三平になると、どんなことが起るか分らないと思つたので、たつた一枚だけ残つていた大切な名刺を出して、こういう男であることに間違いない、若しそれでも疑うならば東京外国語大学へ電話をおかけになつて確めて頂きたいことを熱心に力説した。

 彼は人ちがいであることにやつと気がつき出したらしく卵みたいな顔の色が変つて、天井の方を見るたりしている。私はこれは自分で払いますからと言つて、エプロンをかけた少女の持つて来たコーヒーを飲むことにした。彼はとんだ失礼をしてしまつたから、どうしてもこれは自分が払うという。

 それなら勝手にするがいい。しかし、彼は岩下三平がどんな男なのかは話さなかつたし、私も訊ねなかつた。「外語では何語を教えていらつしやるのですか」と言うから、私は事務の仕事をしております、と澄して言い、そこに置いたままになつている最後の一枚の名刺を手帳の間に戻した。

 それにしても、私はこんな変な味のコーヒーを飲んだことがない。

p245-246

戦後間もないこの時期の丸ビル(丸ノ内ビルヂング)にどんな喫茶店が入っていたのか分かる資料があればいいのだが、すぐには見つからない。



8の奥付

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