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東屋(あずまや)


中の君、物語絵を見せて浮舟を慰める
『日本の絵巻1 源氏物語絵巻 寝覚物語絵巻』(中央公論社、昭和62年)より

岩波文庫の『源氏物語』(山岸徳平校注)を読んでいるのですが、まったくはかどりません。こういう長大な作品は若い時に勢いで読んでしまうに限ります。とりあえず、紫式部の略歴だけでも頭に入れておこうと第六巻の解説に目を通してみました。

ほとんど断片的なことしか分かっていません。名前もなく系図には「女」とだけ記されているそうです。『紫式部日記』に有名な少女時代の逸話が記されています。

この式部の丞といふ人(=惟規)の、わらはにて、史記といふふみ読み侍りし時、聞きならひつつ、かの人は、遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ、(私ハ)さとく侍りしかば、ふみに心入れたる親は、「口惜しう。(紫式部ヲ)をのこ子にて持たらぬこそ、さいはひなかりけれ」とぞ、常に嘆かれ侍りし。

(六、p347)

家集によると父(藤原為時)の任地である越前にも旅行しているようです。その間に夫となる藤原宣孝と文通し、帰京して、長徳四年(998)に宣孝と結婚しています。宣孝はすでに子供が五人おり、年齢も四十代半ば(式部は二十代半ば)でした。長保元年(999)に女児賢子が生まれ、宣孝は長保三年(1001)に病歿。一年の喪に服し宣孝の邸で漢籍などを愛読していたそうです。漢文などをあまりに読むから女としての幸運がうすいのだと非難されたと日記に書かれています。この時代に『源氏物語』は着手されたかと考えられているとのこと。喪が明けて後、上東門彰子に宮仕えをはじめました。彰子は藤原道長の長女で長保二年(1000)に入内、万寿三年(1026)に出家しています。女房名は藤式部。紫式部の式部は父または兄の官職名からだそうですが、紫については諸説あって不明です。ウィキペディアによれば本名「藤原香子(かおるこ/たかこ/こうし)」説が一九六三年に出されており、賛否あるところのようです。名前と同じく歿年もまた諸説あって不明です。まあ、これでも一千年以上前の女性としてはよく記録が残っていると思った方がいいのでしょう。

源氏物語絵巻」には絵本を読む場面があります。第五十巻「東屋(あずまや)」で中の君が少女浮舟に絵本を見せている場面です。

浮舟「年ごろ、いと、はるかにのみ、思ひ聞えさせしに。かう、見たてまつり侍るは、何事も、慰む心地し侍りてなむ」
とばかり、いと、若びたる声にていふ。絵など、とり出させて、右近に、詞よませて、見給ふに、むかひて、物恥ぢも、えしあへ給はず、心に入れて見給へる火影、更に、こゝと、みゆる所なく、こまかに、をかしげなり。額つき・まみの、薫りたる心地して、いと、おほどかなる貴さは、たゞ、「それ」とのみ、思ひ出でらるれば、絵は、殊に目もとゞめ給はで、「いと、あはれなる、人のかたちかな。いかで、かうしもありけるにかあらむ。こ宮に、いとよく、似たてまつりたるなめりかし。

(六、p56-57)

文中「絵」とあるのが絵物語のことだそうです。文庫版では、実際には主語が註として補われていますが、ここではあえて地の文だけ抜き出しました。ご覧の通り、よほど注意しないと現代人には誰が何をして何を言ったのか判断できないように思えます。ある種、グループ内だけに通じる会話のようでもあります。

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