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「少年倶楽部」の発行日には、学校から家に帰ってランドセルを投げ出すように置くと、硬貨をにぎってその本屋に走ってゆく。


吉村昭『その人の想い出』(河出書房新社、2011年1月30日、装幀=山元伸子

吉村昭『その人の想い出』には「私と書店」というエッセイが収められている(初出は『日販通信』1976.7)。吉村は東京の日暮里町に生まれた。小学校の近くの本屋で『少年倶楽部』を買うのを楽しみにしていたという。

店といっても間口二間ほどの小さな本屋で、店の前に朱色のノボリが立っていた。内部にはぎっしりと本や雑誌が並べられていて、その中に大きな体をした主人が坐っている。無愛想な老人であった。
「少年倶楽部」の発行日には、学校から家に帰ってランドセルを投げ出すように置くと、硬貨をにぎってその本屋に走ってゆく。時には「少年倶楽部」がまだついていず、他の少年たちと雑誌がとどくのを店の前で待っていた。
 やがて自転車がやってきて、荷台にのせられた箱から「少年倶楽部」が店にはこびこまれる。私たちは、それを買い求めて読みながら家に帰った。 

p43

この書店の描写は案外と貴重ではないかと思う。そして戦争が激しくなると新刊本が少なくなった。すると、吉村少年は古本屋をめぐり歩き、本を買い漁るようになる。

 やがて空襲が本格化し、焼夷弾攻撃で町々が焼きはらわれるようになった。
 私にとって最も貴重なものは、書籍であった。いつの間にか書籍の数は千冊を越え、それらを灰にするのが堪えられなかった。
 私は、庭に穴を掘り、数個の石油カンに愛着の深い書籍を三百冊ほど選んで埋めた。
 家が焼かれ、翌日、私は書籍を掘り出した。その中の二十冊ほどは、今でも私の書斎の書棚に並んでいる。

p44

本を疎開したり、空襲で焼かれてしまったり、そういう話はよく読むが、庭に埋めて助かったというのは珍しいような気もする。しかしながら、家が焼けてしまったのに、翌日取り出してどうしたのだろう? 三百冊も持って焼跡を移動はできないだろうし、ずっと埋めておいた方が安全だったのではなかろうか。少々疑問に思う。

もう一篇、「池波さんと「母」」(初出『完本池波正太郎大成28』月報、2000.10)にこんなくだりがある。

 テレビ映画の時代ものは全く観たことがないが、「鬼平犯科帳」は別で、毎週欠かさず観た。感心の余り、池波さんと久しぶりに話をしたいと思って御自宅に電話をかけると、少し間を置いて池波さんが電話口に出た。
 池波さんの死が新聞に報じられたのはそれから間もなくで、私は愕然とした。電話をかけた時、池波さんはまちがいなく病臥していて私からの電話だというので無理に電話口に出たのだろう。
 池波さんのことを思うと、電話をかけたことが深い悔いとして今でも私の胸に残っている。 

p165

池波正太郎の命日は1990年5月3日。しかし3月には緊急入院しているから(ウィキペディア「池波正太郎」)、吉村の電話はおそらく2月以前ではないだろうか。

二代目中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」はフジテレビ系列で1989年7月より放送が開始された(なお父親である八代目松本幸四郎の「鬼平犯科帳」はNETで1969〜72放映)。3月何日に入院したのかウィキには書かれていないからハッキリは言えないが、吉村が電話をしてから池波が亡くなるまで一月以上、二ヶ月近い間があったらしいことは分かる。たまたま一時帰宅していた、というような特異な状況を考えない限り、吉村が池波を電話に呼び出したことを悔いるような状況ではなかったと思われる。

この原稿を書いた吉村は73歳、電話をかけたのは63歳になろうとしていた時期と思われるからおよそ十年前の出来事である。記憶のなかの時間感覚はあいまいになりやすい(筆者も、近頃、身をもって痛感する毎日)。

それはそうと二代目中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」はBSフジで現在も再放送している。けっこう楽しみに見ています。

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