「少年倶楽部」の発行日には、学校から家に帰ってランドセルを投げ出すように置くと、硬貨をにぎってその本屋に走ってゆく。
吉村昭『その人の想い出』には「私と書店」というエッセイが収められている(初出は『日販通信』1976.7)。吉村は東京の日暮里町に生まれた。小学校の近くの本屋で『少年倶楽部』を買うのを楽しみにしていたという。
この書店の描写は案外と貴重ではないかと思う。そして戦争が激しくなると新刊本が少なくなった。すると、吉村少年は古本屋をめぐり歩き、本を買い漁るようになる。
本を疎開したり、空襲で焼かれてしまったり、そういう話はよく読むが、庭に埋めて助かったというのは珍しいような気もする。しかしながら、家が焼けてしまったのに、翌日取り出してどうしたのだろう? 三百冊も持って焼跡を移動はできないだろうし、ずっと埋めておいた方が安全だったのではなかろうか。少々疑問に思う。
もう一篇、「池波さんと「母」」(初出『完本池波正太郎大成28』月報、2000.10)にこんなくだりがある。
池波正太郎の命日は1990年5月3日。しかし3月には緊急入院しているから(ウィキペディア「池波正太郎」)、吉村の電話はおそらく2月以前ではないだろうか。
二代目中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」はフジテレビ系列で1989年7月より放送が開始された(なお父親である八代目松本幸四郎の「鬼平犯科帳」はNETで1969〜72放映)。3月何日に入院したのかウィキには書かれていないからハッキリは言えないが、吉村が電話をしてから池波が亡くなるまで一月以上、二ヶ月近い間があったらしいことは分かる。たまたま一時帰宅していた、というような特異な状況を考えない限り、吉村が池波を電話に呼び出したことを悔いるような状況ではなかったと思われる。
この原稿を書いた吉村は73歳、電話をかけたのは63歳になろうとしていた時期と思われるからおよそ十年前の出来事である。記憶のなかの時間感覚はあいまいになりやすい(筆者も、近頃、身をもって痛感する毎日)。
それはそうと二代目中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」はBSフジで現在も再放送している。けっこう楽しみに見ています。
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