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五十銭の油絵


『彷書月刊』創刊号(弘隆社、1985年9月25日)

彷書月刊』創刊号をいきつけの古書店で見つけましたので、もとめて帰り、久しぶりに目を通してみました。『彷書月刊』は完揃いを持っています。ですが、初期の号や珍しい特集の号は重複して買っておくようにしています。

創刊号の目次には由良君美、矢川澄子らの名前もあって改めて「ほほう」と思います。面白さでは「ききめ」という全集のキキメ(全集中で発行部数が少なく入手しにくい巻のこと)と結婚とを掛けたお話を語っている出久根達郎のエッセイでしょう。達人ですね。

ここでは松石純郎(久留米・松石書店)「五十銭の油絵」を紹介しておきたいと思います。友人Y君から聞いた話だとか。

 明治四十二年の秋風が吹きはじめた頃、苧扱川町(オコンガワマチ)三丁目の三百年続いた豪商木屋山本氏宅の裏木戸をあけて、米屋町の旅館青々館の浴衣を着た青木繁が入って来たのである。(註、旅館の名前は馬鉄通ー現在の明治通ーの花屋旅館の間違いかも知れない)もちろん金の無心である。いくらでもよいから絵を買ってくれと云うのであるが、中学明善校時代の友人山本茂樹氏は父作之進氏の云いつけを守って青木を室へ通そうとはしなかった。遊蕩三昧不摂生の限りをするし、親戚知人には迷惑のかけっぱなし、あまりにも傲慢で唐突な行動は久留米の一般人の顰蹙をかっておったのであろうか。 

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山本茂樹氏はしょんぼりとした青木の様子がかわいそうになり、五十銭玉を紙にひねって投げ与えたそうです。

青木はそのまゝ何処ともなく立ち去り二度と現れることはありませんでした。しかし縁側には庭を描いた油絵が一枚置いてありました。それは青々館の庭だと云われております。 

p18

それから四十年が経った敗戦後のある日、この話の語り手Y氏は骨董の鑑定のために山本家へ呼ばれました。素封家は新円切替と財産税のため現金が必要だったのです。主人とY氏は土蔵へ入りたまたま青木の板絵を見つけました。

茂樹氏は「これは懐かしか、青木が久留米ば去る時において行ったったい」と云って、明治四十二年のその時の思い出を詳しく語るのでした。それではその絵は幾らならば売ってくれるかと云うことになり、〇万円に決まりました。しかし〇万円は給料取にとっては大金でしたので金策に苦心しておりました。或る日、近所の某会社重役と囲碁をしておる時に口をすべらしたために、先をこされてしまいました。某氏は翌日出入りの骨董屋を使って横取りしたのです。 

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ありがちな展開です。しかしまだ続きがあります。さらに三十年たったある日。知り合いの骨董屋が「青木繁の油絵のあるが買わんの」と電話をかけてきて、贋物だろうと思いつつ見に行ってみると、それは某氏に横取りされた作品だったというのです。二つに割れたのを雑に補修してあったそうです。

真実を知っておるのは自分だけです、値を聞けば高くはありませんが、三十年前の恨念がありますので大いに値切り数回の交渉のあと、念願の絵を超安値で入手することがでさ[ママ]ました。新しい絵具は洗いとり、補修は奈良で重要文化財を手がけておる人に依頼したので見事な出来上りだそうです。 

p19

値切った分以上に修復に費用がかかったでしょうね。三十年〜四十年でジェネレーションが交替する、そのときに個人像の絵や美術品は動き出すということなのだと思いました。最後に店主はこうしめくくっています。

マンガか週刊誌しか売れない、よい買物もない、閑散とした夏枯れの暑い午後、我が店の一隅で彼は嬉しそうに話してくれたのでした。 

p19

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