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わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがら崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした


『茨木のり子の家』(写真=小畑雄嗣、平凡社、2010年11月25日)
装丁・レイアウト=木村裕治、川崎洋子(木村デザイン事務所)

ある古書目録から『茨木のり子の家』を買った。書斎やアトリエの写真が好きなので、集めるともなく、集めている。

この本は、ほぼ写真ばかりで構成されており、その合間に10篇の茨木のり子の詩が挿入されているだけ。巻末に宮崎治「伯母と過ごした週末」という短文が収められている。それによれば1958年に保谷市東伏見に従姉妹の建築家といっしょに設計したこの家を建てた。第二詩集『見えない配達夫』が刊行された年で、それ以降の詩はすべてこの家で書かれたことになる。


茨木のり子のポートレート(谷川俊太郎撮影)


『見えない配達夫』飯塚書店、1958 より

 門灯が灯る頃、伯母の家の呼び鈴を押すと、木製の扉の格子窓に伯母の姿が現れ、いつも"いらっしゃい"と小さな声で囁いて、暖かな空間へ招き入れてくれた。
 本や雑誌が山積みされた狭い階段を注意深く上ると、台所からはその都度違ったレシピの濃密な香りが漂っていた。
 食事の支度ができるまで、伯父が遺したクラシックのレコードや、買ってきたロックのレコードを聴いたりしたが、とりわけ伯父のコレクションの中のモーツァルトをかけると、伯父の供養になると喜んだ。この頃のエピソードが詩集『歳月』の中の「モーツァルト」という詩にでてくる。

P121

写真集で見る限り、階段の本は片付けられてしまって、さっぱりしたものだ。書棚の写真が数点ある。辻征夫の詩集がずらっと揃っているのが目に付く。石垣りんも多い。韓国語を熱心に学んでいたようなので韓国語の本や雑誌も多いが、全体的には、自然な感じの詩人の本棚だなと思われる。


茨木のり子が発行者となった同人誌『櫂』創刊号(1953年5月15日)の書影と「櫂・連詩第9回大原あざみの巻」のときに撮影された写真。京都上田屋にて、1975年11月。左から、吉野弘、茨木のり子、岸田衿子、大岡信、水尾比呂志、川崎洋、谷川俊太郎、友竹辰、中江俊夫。

京都上田屋にて 1975年11月


『食卓に珈琲の匂い流れ』花神社、1992 より

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