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2022/11/16 日本で続く宗教問題

例の宗教に関する問題が日本では根強く取り上げられているようですね。

しばらくの間議論が続いているようですが、どうも生産的な議論には聞こえず、感情論が先行しているようにも聞こえ、将来の生活に悪影響を及ぼしそうなので、ちょっと私見を書いてみることにした。

違法行為はどんな団体もダメ

そもそも個人であっても法人であっても、違法行為を行うことは問答無用でダメなことだ。詐欺まがいのことをしたり、脅迫まがいのことをしたりはもちろんダメなことだ。

特に宗教は人間の奥底にある感情を刺激するものだと思っていて、それだけ人によっては依存度が高くなる。

心の中に穴が空いたような虚無感を覚え、人生にやりがいも無くなってしまって、無防備になった時に宗教は深く影響を与えることが多い。

そこに漬け込んでものを売りつけたり、寄付金で搾り取ったりするのはダメだと思う。例え本人がそれを希望したとしても。

ただし議論は慎重じゃないといけない

日本には信教の自由というものが憲法で保障されている。伝統的な宗教か、新興宗教かどうかにかかわらず、好きなものを信じることが権利として保障されている。

でもYouTubeの討論番組などを見ていると、某宗教団体に関するコンテクストでこの信教の自由を蔑ろにする発言がよく見られる。

反社会的な事を行う宗教団体に信教の自由もクソもない的な論調だ。某団体に対して解散命令を出すかどうかという話の中で、あるパネリストが「信教の自由の保障のために慎重に判断する必要がある」的な発言をすると、「某団体を擁護するのか!」的な的外れな意見が飛び出し、ネットニュースでもそれに同調するような意見が噴出する。

反社会と思う→解散させろという考え

実際に某団体のやってきたことのために苦しんでいる人が出ているからと言って「かわいそうな思いをした人が多いんだから解散させろ!」と叫ぶのも慎重にすべきだと思う。

解散命令という選択肢は必要だと思う。社会にとって有害な団体はあり、被害者が続出している場合、社会にそんな団体が存在してはいけないと思う。

ただ、誰が決めるのか?

世論の高まりで解散させていいのか?

政治家の一存で解散させていいのか?

世の中から抹殺するプロセス

法治国家である以上、個人および法人を社会から抹殺するには、それ相応の慎重なプロセスが必要だと思う。個人の場合、刑法というものが規定されていて、何をすれば死刑となるかが細かく規定されている。日本の場合三審制があるし、死刑を含む重大犯罪の裁判には裁判員制度なども置かれている。

つまり、個人を社会から抹殺するには、事実認定、事態の重大性、過去の事件との整合性といった事柄を慎重に検討して決定が出される。命が関わる問題だから当然こういった慎重な検討がなされる。それでも人間の限界がある。

では、法人の場合はどうなのか。法人には命はない。死刑と解散命令とでは、決定の重みが全く異なる。では、法人を社会から抹殺する解散命令を慎重に出すべきか、それとも簡単な手続きで出せるようにしておくべきか、この点は議論の余地があると思う。

法人の解散命令を慎重に出すように立法しておくというのは、権力者に対しての縛りが強いということになる。逆に法人の解散命令を簡単に出せるようにすることで被害を最小限に抑えることができるように立法しておくというのは、権力者に絶大な権利を与えることになる。

過去から学ぶ

戦時中、日本を含め世界中の国々で愛国心が高まっていた。時の権力者が戦争に向かって突き進んで行った時、反政府を掲げる団体、敵方に与するような思想を持つ団体、戦争に反対する団体、戦争に関与しようとしない団体が弾圧を受け、解散に追い込まれたものもある。

国によっては、権力者の意見に反対する全ての団体が弾圧されたというところもある。その団体の犯罪性や危険性というものが事実によって決められたのではなく、その時の権力者の個人的な判断、世論の高まり、マスコミによる扇動によって決められたのだ。

こうした経緯を考えると、いくら文明が高度に発達している現代社会とはいえ、人間の限界、人間社会の限界、集団心理の愚かさについて認識した上で議論をすべきだ。

ある芸能人が不倫した時にはボロカス叩くくせに、別の芸能人が不倫しても叩かないという愚かな世論に流されて、世の中を規制することは断じてすべきでないと思う。

ひいては自分の生活が息苦しくなってしまうこと、自由がなくなってしまうこと、自分の大切なものが失われてしまうことを覚えておくべきだ。


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