いつか、来る日。
叔父が亡くなった
2年ほど療養していたという。
母は、私に知らせずにいた、というより知らせようかずっと、悩んでいたらしく、迷っているうちに・・・。ということらしい。
幼いころから父親がいない私にとって、叔父はそれに近い存在だった。そういうこともあって、母は、遠方で暮らしている私に、その叔父が病気だと伝えることを迷ったんだと思う。
遠方にいてすぐかけつけることもできない、子育て真っ最中の私に心配をかけさせまいという母の思いだったのだと思う。
でも・・・
連絡がきたとき、子どもたちと寝ようとしていた。
何も聞かされていない私は、叔父の突然の訃報に驚き、悲しみ、動転し、泣き、なぜ療養中だということを知らせなかったのかと母を責めた。
その横で子どもたちは、泣いている私に何も言わず、私の側を離れ2人で遊び始めた。彼らなりの気遣いだったのかもしれない。
母も電話越しで声を殺して泣いているのがわかった。
そして、その時になって、母は自分の弟を亡くしたんだと気づき、母を責めた自分を恥じ、申し訳なくなった。
なんて、私は傲慢なのだろう。
ただ、自分の気持ちだけを優先して言葉にしてしまった。
母は、
「言わない方がよかったかなぁ~」
と、弱弱しい声で言った。
「言ってくれてよかったよ。ありがとう。突然で動揺してしまって・・・ごめんなさい」
と、謝った。
それ以上は何かを言葉にすると、何もできそうになかった。
叔父が亡くなってすぐに連絡してくれたので、告別式はいつになるのかだけ聞いて、電話を切った。
死を考えることは、とても怖いことだ。
そのことを考え出すと、鬱屈したものが心にたまって、その重さでどこにも行けない。何もできない。ただ、冷たい水の底に沈んでいく感覚になる。
弟を亡くして、祖母を亡くして、大切な人たちがいなくなっていく恐怖に苛まれて、水の底で誰もいない静かで暗くて冷たい場所へと沈んでいく感覚に、叔父を亡くした今、またなりそうになる。
それでも、沈まずにいられるのは、笑う子どもたちが側にいてくれているからだ。こんな時、いつも思う。私は彼らに救われているのだ。
泣いている私に何も言わず、2人でただ遊んでいるだけ。その姿を見るだけで、私の心は、光が揺れる水面に浮上して、呼吸することができる。
いつか、この子たちにも訪れるであろう避けることのできない現実。
今は、そこからずっと遠い場所で笑って、朗らかに生きてほしい。
そう思った。
その次の日の夜。通夜の日。
交通の関係上、通夜にも告別式にも参列できない私は、家で叔父の冥福をいのることしかできなかった。
仕事をしていても、帰ってきても小さい頃からの叔父との思い出を思い出して涙が出てきた。
台所で料理をしようとしたとき、ふいに右耳から耳鳴りがした。右耳ほうだけ他の音が聞こえないほどのキーンという耳鳴りだった。
でも、不快な感じはなく包み込まれているような感じがした。
叔父が挨拶に来てくれたのかな?
頑張れよ!って言ってくれてるのかな?
なんて、思ったりした。
耳鳴りが過ぎると少し気持ちが楽になってた。
だから、ただの偶然だと思うけど、そう思うのも悪くない。
人の魂がこの世にいれるのは、49日らしい。
叔父さん、今頃、叔母さんや子どもたちや孫たちと一緒にいるのかな?
世界中飛び回ってたら、面白いな。
この世でもだったけど、あの世でも人気者だろうね。
叔父さん、叔父さんがいないなんて信じられない。いなくて淋しいよ。
叔父さん、じょりじょりしたヒゲの攻撃。痛かったけど楽しかったよ。
お母さんがいなくて寂しかった夜に、夜食に作ってくれたお好み焼きみたいなやつ。美味しかったよ。海で溺れたかけたとき助けてくれたね。叔父さん、父親がいない私がそのことにあまり寂しさを感じなかったのは、叔父さんがいてくれたからだよ。
ありがとう。大好きだよ。
そう、思えたので、noteに綴っておこう。
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