YOASOBIが(とんでもなく)好きです。

大学に入ってジャズを真剣に聴くようになってから、すっかり本質主義に取り憑かれてしまいました。何を聴くにしても、まず表層にある(本質の伝播のための)インターフェースを、そしてその奥の中心に求める本質があるかないかをたずねている。ただ、これは別に珍しいことでもなんでもなく、そういうひとはたくさんいると思います。ここでインターフェースというのは、音楽のスタイルだとか、手法だとかを指しているつもりです。何がインターフェースになってるのかとか、本質として何を見据えるのかで人によってバラエティがあるのは本当に面白いですね。

『香水』とか『Pretender』とか、ああいった曲が流行っている時期(2020年上半期?)だったと思います。『夜に駆ける』が話題で、一度はちゃんと聞かないとなと思っていました。これまでほとんど聴いてこなかったポップスの凄さを少しずつ実感しつつあった時期で、ただどうしても腑に落ちない、勉強が必要だと思うような曲もあったりしていました。ただ『夜に駆ける』の第一印象は、当時流行っていた他とは違って、曲構成や各部、その接続に不自然さがなく、「あれ?」と思いました。かなり若者向けのポップな売り方をしていた気がしていましたので意表を突かれつつ、でもそのときはそれ以上なにか確信を得たようには思いませんでした。

2020年春以降、コロナでサークルがなくなった中で考える時間ばかりはありましたので、デューク・エリントンみたいな音楽の、その本質とか呼ばれる部分には何があるのか考えていました。エリントンは明らかに構造主義的なミュージシャンではないけれど、その核を説明するのってことばじゃ難しい。一番大切な部分って、それ以外の知覚できる部分をすべて識別し区別して残った部分にあります。それを、"〜である" で記述するのは難しくて、"〜でない" で説明したほうが合理的かも。だから、音楽という現象の、スウィングやらなにやらといった「それ以外すべて」に関して、実在する音楽と矛盾しない認識の体系を持つ必要がある。そうして現象を整理して、見えない本質をまっすぐ見据えたい。それが何なのか考えたい。

エリントンは間違いなくその本質を伝播しているのですが、エリントンが伝播しているその種の本質を、無自覚に自身の内に備えて、演奏の際に発揮している人たちがいることに気づきました。先に書いたとおりその本質は認識の体系を前提にすると思い込んでいましたから、かなりの衝撃です。僕自身はその本質に全く気づいていない状態から時間をかけてかけて、2年とか3年とかかけて、泥を這うように少しずつ進めてきたことだったのに、しかも、それを音楽の演奏で伝播できるなんて到底思えないのに!とてもかなわない、いや、かなうとかかなわないとかじゃない、彼女たちをとにかく大切にしたい。大切にしてどうかなるわけじゃないけど、でも最大の誠意と敬意を。優しさの伝播、愛、それが核たる本質(の現像)だと信じています。

ただもちろん、この性質は彼女たちだけに固有のものではないし、僕たちだって備えることができます。さらにそこに認識の体系が裏付ける自覚(自意識?)があれば、発揮するだけでなく受容することで救いを得られると思っています。認識を得たその先に、これまで到底想像できなかった、信じられないくらいの恩恵がある。救いは常に周りにあった、気づかなかっただけで!気づかず垂れ流されていた救いを無駄なく受容できるようになってしまえば、と考えるだけで気持ちが晴れます。こうして救いを受けたのだから、こんどはまわりのみんなに優しさを。本質が供給する無限のモチベーションは優しさへの努力を促してくれる。もっと優しくならなきゃ!優しくなりたい!…優しくない、誠実でない人間だった時期や性質を心から恥ずかしく思います。

本当はその本質を備えているということだけで100点満点なのだけど、インターフェースが優れているというのもかなり重要らしい、と気づいたのはもう少し後でした。でもこれは考えてみると当然かもしれません。技術的に優れているひとや音楽が何より良いという構成主義の性質にも合わせないと世の中で支持は得られないし、なにより本質を本質をと言っていても、上手い音楽が良いという価値観が消失したわけではないですから。人生を生きるならその本質への感性以外何もいらないけれど、こと音楽に関しては、本質への気付きに加えて優れたインターフェースが欲しい。これらは独立しているように思えるかもしれないけど、でもインターフェースの確立は現象への俯瞰的認識が大いに寄与するから、この取り組みの文脈では自然なことのように思えます。エリントンも、コルトレーンも、山下達郎も、たぶんYOASOBIも。でも答え合わせするのは怖いな。妄想が肥大して取り返しがつかなくなってることが明らかになるのは苦しい。許してください。

幾田さんについて、先程書いたような女性の性質を当てはめてしまいましたし、Ayase さんの作編曲には本質を裏付ける俯瞰的認識の積み立てを感じてしまいます。でも誰かの性質をこうして分析してしまうのは失礼ですから断言はしたくないですし、あくまで僕の妄言ということにとどめたい。具体的に何がどう良いのかを言葉にしたいと思っていましたが、実際書こうとするとかなり難しいですね。ただ、YOASOBIを聴いていて、これは山下達郎を聴き始めたときも思ったことでしたが、ポップスはとにかく表現の密度が濃いなと感じます。楽器の音圧、隙間ない打ち込み、幾田さんの性能を130%引き出すメロディーと録音、さらに大サビ転調。これまでジャズを聴いてきて比較的密度の低い表現から本質を100%無駄なく受容できるように試行錯誤してきたところを、こうして圧倒的な密度のこういう音楽を聴くのはかなり楽しいです。エリントンを聴くときはまずアルバム1枚分とにかくゆっくり時間をとって聴かないと感覚は立たないけど、YOASOBIは、『三原色』2番の浮き上がるCの音、『群青』のサビ頂点、何度も何度も胸が苦しくなりながら聴き終えて一枚聴く頃には酔いに酔ってへべれけです。あぁ〜ありがとう。愛ですね。Love Supreme ! なんかここまで書いて力尽きてしまいました。

書きたいことはまだまだある気がしますがつかれたので今日はここまで。また今度続きを書いてみます。感想あれば教えて下さい。質問箱でも!読んでくださって本当にありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?