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2人の祖父とわたし

18歳のとき、大学入試のためにエッセイを書いた。
27歳のいま、転職とUターンをした。これから何をするにも原点とルーツが自分にとっての揺るぎない基盤になると考え、つい先日、当時のエッセイを引っ張り出してきた。

進路を決める時に何を自分のベースとして生きていくか悩んで悩んで、周りの大人たちと対話を重ねたのは大正解だった。あの時に惜しみない愛情を注いでくれて、責任を持って相談に乗ってくれた方々、本当にありがとうございます。
そして今はもう聞けないおじいちゃんたちの仕事に焦点をあてた聞き書きをして良かったと心から思う。まじ原点。

当時書いたエッセイ〜一言一句違わぬバージョン〜を以下に記します。
今は当時とは違う問題意識を持っていたり(いま自分にとっての課題は過疎問題の解決ではない)、正直商学部の入試に向けて合わせたような箇所もあったりするけれど、大目に見てね。

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〈嘉夫〉
今は82歳。農家の長男は農家せんきゃならんもんだと思ってたからね、小学校の後は野幌の機農校(現在の酪農学園大学)行って。全部寮でね。そこで死ぬほど勉強して、卒業してうちへ帰ったの。最初は牛2頭位しかいなかったんだ。近所に北海道の7人組に入るほど優秀な酪農家がいてよ、そこを追い越すぞって一生懸命やって。昭和27年は冷害凶作でな、対策ってことで町を挙げて酪農が本格的に始まったのよ。昭和30年ごろからだんだん経営も大型化してきて、37年にこんなでかいの北海道にないってぐらいの牛舎造って。おれは人の先、先とやったからな。その年に地区が北海道一になって。一生懸命やって認められたのは嬉しかったさな。苦労したことも思い出すけど、苦労したのおれ一人でないから、ありがたいことだぞ。天に感謝して、地にお礼を言って、皆さんのお陰で今日も一日働かしてもらう。天地人っちゅうことなんだけどな、また明日も、来年も再来年もってな、夢も希望もそこに湧いてくるんだよ。農業は自然に逆らわなければ、尽くせば向こうも尽くしてくれる。努力が報われるってことだ。だから一番幸せな職業だよ。

〈利平〉
興部町沙留で生まれて、今84歳だよ。うちが漁業だったからな、5年間小樽の水産学校さ行ったのよ。水産加工をやろうと思ったんだけどな、戦争でなんもやんなかったさ。帰ってからはニシン取りやったんだけど、昭和27年からぱったりと来なくなっちゃってな。その頃に若いもん集めて青年団つくることにしたの。そっからは漁協組合長や道信漁連の会長やったりしてな、港をおっきくしたり船の巻き上げ装置を作ったのよ。豊かな過疎っちゅうおらが作った言葉があるんだけどな、そこに住む人が適当に収入があって、生活できるような豊かな過疎を目指せっちゅう言い分よ。そこの資源に見合った過疎が必要ってこと。オホーツク海の資源が豊かなのは流氷のためでないかと思ってよ。流氷のいいとこを残しながら損害を減らすためにな、流氷を食い止める開閉式の防氷堤っちゅうのも世界で初めて考えてやったんだ。忙しかったさ。でも自分が努力すればな、しただけ返ってくるんだから。勲章ももらったことあるしな。でも、毎年12月になって、ああ今年もいい年だったなと思うときは一番嬉しいさな。


 以上は、酪農を営んだ父方の祖父嘉夫と漁業を営んだ母方の祖父利平の人生を「聞き書き」してまとめたものである。祖父たちはどちらも興部町で生まれ、そこに根付いた仕事をして、興部が酪農と漁業の町と呼ばれるための基礎を作った。
 志望理由書にも書いたように、私は将来地域らしい商品を世界に出していき、商品の価値を見出しつつ長く持続できる商業をしていきたい。そして目指すのは過疎問題を解決することなのだが、それは人口が増え、どんどん開発が進んで田舎が都会に近くなるということでは決して無い。その土地とそこに住む人が豊かになることが大切だ。まず始めに、経済的に豊かになること。充実した生活を送るためには、都会も田舎も関係なくある程度のお金は必要だ。そこで都会の経済的豊かさというのはモノがたくさんあったりすることなのだが、田舎では共同体の生活水準を全体として引き上げ、その地域ならではの自然や資源を活用しつつ生活していくことではないかと思う。そう考えると、田舎の経済的豊かさというのは祖父の「豊かな過疎」という言葉にヒントがあるのかもしれない。そこには経済的豊かさだけでなく心の豊かさも含まれているはずだ。田舎で生まれる心の豊かさというのは、共同体のつながりや自然の中で生きることだと思う。それは祖父の「天地人」という言葉に集約されており、人と人・人と自然・人と地域が結びついてこそ心の豊かさというものが生まれる。これまではこれらを結びつけるのは一次産業であった。しかし、現在は担い手が減少しており、今後は商業がそれに変わる新たな役割を果たしていくのだと考える。
 祖父たちの話の中に「昭和27年」という共通の言葉が出てきた。この年は例外な天候で、農業にも漁業にも大きな影響を与えたようだ。つまり、この年は興部町が変わった激動の一年だ。現在、3.11以降日本そのものが目まぐるしく変化している。私自身も津波に飲み込まれ何もかも失った地域を見て、人や建物だけでなく目に見えない人と土地とのつながりが消え去ってしまうことの恐怖を覚えた。その恐怖を知ってから、近年過疎が確実に進行している興部町は「昭和27年」と同じく激動の時代なのだという思いに至った。祖父たちはその時代を高度経済成長期とともに町を経済的に豊かにすることで乗り切った。ならば私は、祖父の時代とは違いグローバル化された現代社会で、世界の中に興部を位置づけ、発信していくべきなのだろう。それが私を形成してくれた地域にも祖父たちにもできる恩返しなのだと思う。

2012年7月

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