上野千鶴子氏の祝辞に応える。努力か環境か。
今回は、話題になっているこちら。東大入学式をざわつかせた上野千鶴子氏の祝辞について(原文は以下リンク先、引用は全てここから)。世間では概ね好意的に受け止められているようだが、気になる点があったので書く。
上野氏はフェミニズムの論客として名を馳せる社会学者だ。社会学は社会を切り口にして人間存在に迫る学問であり、今回の祝辞も社会学者らしい視点が光る。ちょっと肝の部分を引用してみる。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
見落とされがちな一面の真理を、俯瞰する視点から突いた名文である。社会学のセンスが為せる技だ。
しかしこれが気に喰わなかった人が一定数いる。主に東大に合格した一年生や、その保護者だ。血のにじむような勉強を続けてきた受験生にしてみれば、合格を環境のおかげと片されてしまうのは面白くない。それはそうだ。
だいたいあれである。がんばっても報われるとは限らない。そんなことは今どきの若者なら誰でも知っている。
私はちょっと前まで受験生に勉強を教えていたが、彼らはいつも不安や恐怖と闘っていた。がんばっても報われない、そんな惨い可能性を直視しながらも地道な努力を続けてきたのだ。
がんばったら報われるなんて無邪気に信じている人は、少なくとも私の周りにはいない。一時代前に栄えた少年ジャンプ風の努力と勝利の物語に、もはや説得力はない。もちろんこれは受験に限った話ではない。
それでもがんばるのは、がんばったら報われると信じてるからではない。他にやりようがないからだ。不戦敗よりはマシ、それだけの理由で人は不条理に立ち向かう。故に努力は人間の強さでもあり尊さでもある。
しかし一方で上野氏が指摘するように、男性優遇や、親の収入と子供の学歴に相関があることもまた事実だ。人間の強さは環境に支えられている。これもたしかに一理ある。
上野氏とそれに対する反感を単純に図式化すると、〈環境決定論/努力決定論〉となる。どちらも半分ずつ正しいし、間違っている。両者に共通する誤謬は、不可分であるはずの環境と努力を切り離してしまったことだ。
上野氏は言う。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
環境が整っていたからこその努力。〈環境→努力〉。たしかにそうだ。
しかし環境は努力なしに環境たりえない。我々の認識によって世界は色づく。物質世界が環境として立ち現れるのは、意志というフィルターを通してである。努力しようとする意志がなければ、環境は環境ではない。つまり〈努力→環境→努力〉。
目の前の岩が障害物になるのはその先に進もうとする意志によってだ。一部の社会の風潮が不正となって立ち現れるのは公正を願う意志によってだ。周囲の援助が形を持つのは合格を目指す意志によってだ。だから努力しようとする意志なしに環境はない。
環境と努力は不可分である故、実はどちらかが不足してももう一方で補えてしまったりする(困難ではあるが)。親の収入が少なくても、女性差別的な扱いを受けながらも、合格した人がどこかにいることを、上野氏は見落としている。
逆境に膝を屈することが必然ではない。たとえば、そう、
私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。(中略)私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
上野千鶴子ご本人様である。こう言えば上野氏は、支えて下さった皆様のおかげと謙遜するのだろうが、そういう人間関係があったとしても、本人に「あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒り」がなければなんの意味もない。
もちろん環境より努力の方が大事だと言いたい訳ではない。上野氏が言うように、努力しようとする意志が整った環境を温床にして発芽することも否めない。〈環境→努力→環境→努力〉。
このように考えていくと、環境が先か努力が先かという因果論のモデルがかなり不毛であることに気づく。〈……環境→努力→環境→努力……〉。
環境は意志の道具であり、努力は意志の実践だ。だから環境と努力は因果関係というよりコインの裏表だと考えた方が実態にそぐう。環境決定論と努力決定論は敵同士ではない。それらは意志を親とする双子なのだ。
となれば問題なのは、祝辞の核でもあるこの部分だ。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
環境と能力は、半分は恵まれたものだが、半分は勝ち取ったものである。それらをぜんぶ恵まれたものだとしてしまえば、意志や生命をいかにして肯定するのか? 我々は受動的なニヒリズムに落ちるだろう。そんな唯物論的な諦念から、果たしてフェミニスト上野千鶴子は生まれえただろうか? 答えは否だ。
「恵まれない人々を助ける」立派だ。でも人が自分の力をどう使おうが、それはそいつの勝手だ。だから上野氏の訴えは論理的には正しくない。しかし倫理的には正しい。少なくとも私はそう思う。そしてその正しさを支えるのは人間の強さではないか。人間の意志ではないか。
人間の弱さに寄り添うのも確かに大事だ。しかし同時に、人間の強さも信じたい。弱さと強さも対立するものではない。コインの裏表なのだ。〈弱さ‐強さ〉〈環境‐努力〉それらは不可分なものだ。
だから上野氏の祝辞とそれに対する反感は、アンドロギュヌスの半身なのだ。
言いたいことはこんなところだが、最後に二つだけ。
上野氏の祝辞は一つの極論だった。既に指摘したような欠点はある。しかし社会を変えうる言説とは得てしてこういうものだ。論理的には正しくないが、手段としては正しい。偏ってはいるが世論の趨勢を考えればバランスが取れると言えなくもない。極論を語るのが学者の仕事、みたいなところもある。この辺の事情をぜんぶ見越してあの祝辞があるのだろうから(たぶん)、あまり上野氏を責めるべきではなかろう。
東大に合格した方へ。あるいはなんらかの成果を出した人全員へ。素直に自分の努力を誇っていいと思います。おめでとうございます。
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