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[感想] アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」 第12話

久しぶりにアニメを観て泣きました!

バンドアニメと学園祭ライブ

「ぼっち・ざ・ろっく!」はバンドアニメです。この一つ前に見たのは「覆面系ノイズ」だったと思います。早見沙織さんがNARASAKIさんの曲を歌うという重要無形文化財です。ちなBECKは見たことがない。

第12話「君に朝が降る」は第11話に続いて学園祭の話。そしてそこでのライブです。学園祭ライブがあるアニメということで思い出されるのは、まず「涼宮ハルヒの憂鬱」です。また、ライブはありませんが、学園祭が一生分詰まったような「氷菓」も印象に残っています。

同じく京都アニメーションの「けいおん!」でも学園祭の描写が三回もあったようです…があまり覚えていません。「けいおん!」と「ぼっち」はモチーフは似ていてもかなり違った作品に感じます。

「ぼっち」は若い子が頑張って、青春して、そしてオジサンが泣くアニメとは違っていました。オジサンはねえ、「宇宙よりも遠い場所」みたいな青春アニメで気持ちよく泣きたいんだよ…。「ぼっち」も泣けますが、この最終話には、遥かに悲観的な印象を受けてしまったのです。

支える手

主人公の後藤ひとりは、いわゆる陰キャ少女(引用元wikipedia)であり、青春に対してコンプレックスを抱いて(引用元wikipedia)います。しかし、視聴者の多くは、ぼっちちゃんに対して可愛さを感じつつも、共感したり同一化することは無いのではないでしょうか。

一番の理由は、ぼっちちゃんはギターを弾けるという点にある気がします。彼女は才能を持っており、我々とは違っているのです。またその性格についても、両親は彼女を見守り受け入れていますから、別に親ガチャのハズレを引いたなどというわけではなく、環境とか何か苦労したというよりも、元々こういう子という気がします。

そうして、ご家庭で作られたギターヒーローを、結束バンドが引き継いでいくことになります。「ぼっち」の人間関係は構造的によくできていて、年少のギター二人を(音楽的な意味で)支えるリズム隊は一年先輩であり、その外からバンドを大人が支えるという構図になっています。このような構図を「ゆりかご」と表現した記事を見かけ、宜なるかなと思いました。

それでは、視聴者は誰に同一化するのでしょうか?それは、ギターを弾くことのできない喜多郁代です。彼女は「陽」であり屈託がない無敵の存在ですから、意外に思われるかもしれません。しかしそれは、インスタ映えを追い求め友人と渋谷に買い物に行くという、「陰キャの考える一般的な陽の者」という姿であり、実に外面的な個性しか描かれていません。第12話の学園祭ライブでは、その喜多さんの頑張り・励まし・期待によって、ぼっちちゃんに変化が訪れます。足をガッと開いて強奏する部分は、音楽がエモいのを差し引いても感動的なシーンです。

「みんなに見せてよ。本当は後藤さんは、すごく格好いいんだってところを!」

「私、ひとりちゃんを支えていけるようになるね」

結束バンドと同年代くらいの人には分からないかもしれませんが、このように考え言葉をかけてくれるのは中学生の母親くらいのものです。あるいはそれは生涯の伴侶ですので、逃さず結婚しておきましょう。リアリティのある人間はたとえ親しくとも、こうではありません。であれば、喜多さんを通してぼっちちゃんを押し上げたのは、視聴者たちの手です。

また、いささか文学的な解釈ではありますが、喜多さんは後藤ひとりの影でもあります。これも結束バンドと同年代くらいの人には分からないかもしれませんが、人生をやっていると、自分自身を「頑張れ」と鼓舞しなくてはならないことが必ずあるものです。

結束バンドの音楽は、後藤ひとりが作詞をして喜多さんが歌うという転倒した形式を持っています。この二人が、一人の人間の別の側面だと捉えることはまったく自然です。このアニメを平成初期の監督が好き勝手作っていたら、喜多郁代なる人物は最初から存在していなかった、という最終話になっていたかもしれませんよ(ファイト・クラブの影響か)。

水平線上に浮かぶゼロ

学園祭のAパートが終わりBパートが始まるまで、「青春だな〜!」とは思いつつも落涙を免れていた筆者ですが、その後は↓のようになっていました。

Bパートで一体何を見たのか…まずは壊れたギターの代わりを御茶ノ水へ買いに行くシーンです。これも非常に象徴的で、ギターヒーローのギターが壊れ、結束バンドの後藤がギターを買う、再生のシナリオです。

「けいおん!」の人たちと違い、ギターヒーローであるぼっちちゃんは、バンドをやるしかありませんでした。「けいおん!」がゼロからの成長物語であったのに対して、「ぼっち・ざ・ろっく!」はマイナスからのスタートでした。これは近年の異世界転生ものにも通じるところかもしれません(が、読んだことがないのでよく知らない)。

Bパートの平穏を経て、最終的に後藤さんは等身大の日常へと帰っていきます。アニメの最後を締めくくるのは「今日もバイトか…」というぼやきでした。それは、マイナスを抱えている人々が求めてやまない「ゼロ」なのです。

なぜならば、音楽の才能を持つ後藤ひとりにとって、音楽を通して人並みに成功するというのは、プラスではないからです。前述の通り、後藤ひとりをその手で押し上げた視聴者の我々でしたが……。疾病や障害を抱えた方や、その親の気持ちを少し理解したような気がします。同時に、同じようにマイナスを抱えた視聴者の生きづらさと、時代性を感じてしまいました。

第1話に続いて二度目のスタッフロールでは、アジアン・カンフー・ジェネレーションの「転がる岩、君に朝が降る」のカバーが流れます。歌うのは後藤ひとりです。Bパート最後のシーンの音声にマスクされ、Aメロはほとんど聞こえません。これは意図的な切り取りだと思います。はっきり聞こえるのは下記の部分のみです。

何を間違った? それさえも
わからないんだローリング ローリング
初めから持ってないのに胸が痛んだ
僕らはきっとこの先も
心絡まってローリング ローリング
凍てつく地面を転がるように
走り出した

赤い 赤い小さな車は君を乗せて
遠く向こうの角を曲がって
此処からは見えなくなった

(繰り返し)

原曲を通して聞くと感じるのは、この曲は失恋ソングか何かだ、ということです。「僕」はロック野郎で「君」はそいつを振った相手。しかし、アニメの終わりに、切り取られた部分のみを提示されると、原曲とは違って見えてきます。

初めから何も持ってない「僕ら」はまだマイナスの側にいますが、「君」=後藤ひとりは、ゼロになって水平線の上へ去っていく。アニメの終焉とともに、我々は後藤ひとりと別れなくてはなりません。僕らはその後も、自らの喜多郁代に励まされながら、転がって…、転がって…(了)


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