小説「地獄行き」

 「次の停車駅はー、地獄ー。地獄でございます。到着までしばらくお時間がかかりますのでー、車内にてー、ゆっくりおくつろぎください」
 夏樹が目をこすりながら立ち上がったときには、すでに電車は前の駅のプラットフォームから離れて走り出していた。
 「あ、あ‥‥」
 夏樹の声も虚しく、列車はどんどんスピードを上げていく。
 車両の中を見渡してみる。夏樹以外、誰も乗っていない。
 思わず立ち上がり、荷物をつかんで、車両連結部の扉を開けて隣の車両へ。
 誰もいない。蛍光灯だけがぼうっと灯いている。気付くと、いつのにか窓の外は暗くなっていた。さっきまでは夕暮れ、くらいの暗さだったのに、今は夜の海のような深い暗さになってしまっている。
 夏樹はさらに駆けた。次の車両、次の車両、次の車両。きっと一番先に運転手がいるはずだ。
 いくつ扉を開けて進んだだろう。とうとう一番前と思わしき車両までやってきた。
 その車両の一番前まで行く。運転手に言って電車を止めてもらうのだ。自分は地獄などには行きたくない、と。
 運転手がいるはずの運転席を覗き込む。ガラス戸で阻まれてはいるが。
 しかし、そこに運転席はなかった。
 何かにぶつかってひしゃげたような機械の残骸がぐちゃぐちゃにあるだけだった。
 列車はそのひしゃげた鉄をむき出しにしたまま、地獄に向かって走っているのだ。
 ブレーキだ、ブレーキをかけよう!
 もうだれにも頼れないことを悟った夏樹は、自分で列車を止めようと思った。
 でもどうやって? 運転席の機械類はすべて壊れてしまっているのに? 運転席に通じるドアさえ存在しないのに?

 このままだと自分は地獄に行ってしまう。
 地獄がどんなところかは知らないが、行きたくはない。
 家族に会いたい。もっと好きなことをしたい。

 電車を止めたい。
 でも、止め方がわからない。
 なんで私だけがこんな目に遭わなきゃいけないの?
 訳がわかんない。地獄って何? ちょっと電車で寝ちゃっただけなのに‥‥。

 夏樹はその場にへたりこんで、首をがっくり下げて動かなくなった。
 もう、自分は既に地獄にいると感じていた。

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