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「生みたい」と「残したい」

アンドレ・バザンが「映画とは何か」(上)の一章でこんな事を述べている。

絵画(全ての芸術家)は二つの願望の間で引き裂かれることになった。その一方は本来の美学的な願望(象徴主義によってモデルを超越する、精神的現実の表現)であり、もう一方は、外的世界を複製によって置き換えようとする純然たる心理的願望である。

確かに。ここでは絵画と括っているけど、後にそれは全ての芸術分野に蔓延る葛藤になると彼は続けている。その少し前の頁で、「エジプト文明(ミイラ)こそが造形芸術に決定的な影響を与えた分岐点である」とも書いている。そもそも芸術が何で生まれたのだろうか。何で生まれたと書くより、何で人間は芸術に精を出したがる生き物なのかって書く方が良いか。

芸術に求める根っこの感情には「何かを生みたい」という欲求と「何かを残さなければならない」という危機感が存在すると思う。生きていた人間を、死んでも尚形が残るように防腐処理を施し大切に保管するエジプト人の行動は、人類の文明の中で最もその芸術への欲求が明確に理解できるとバザンは述べているのではないのだろうか。絵画も写真も音楽も映画も(音楽はまたなんか違う気がするんだけど)、その時点にあった何か(見たもの聞いたもの在ったもの)を、たとえ時間が進んだとしても、変化し得ない形に昇華させたい欲が引き起こした行動の結果生まれた存在である。それはミイラも同じで、「生まれる、死ぬ、腐る」という自然の摂理に抗うために、その対象を、ある意味人間を超えた造形に変化させたくて出来たものだろう。

現在ある物を形として残したい!という思いが芸術の核にあるとして、その次に生まれる感情が(次でもなくほぼ同時なのかも)、一番最初に書いたバザンの言葉にある「象徴主義によってモデルを超越する、精神的現実の表現」なわけだ。現実にある物を残そうと、目で見たモデル(景色や人物)をそのままキャンパスに落とし込むが、不思議とそのモデルを超えたいと感じて、自分の心の中に存在する形而上的な存在をそれに流し込むのである(てかむしろこっちの方が本能な感じはする)。多くの画家がその表現に挑戦し、その結果多くの抽象画が生まれたのかもしれない。

バザンが述べていることでさらに面白いのは、技術が進化して芸術の形が変化したとしても、それを手がける人間の欲求運動はそこまで変化しない、ということ。文明の進化により写真が生まれ、その次に映像が生まれる。写真が生まれた時点で、芸術の核にあった、「既にあるものを複製したい」という欲求は完璧に満たされる、はずである。むしろ写真は、技術的な話は置いたとして、論理的には撮影者が見たものしか残すことができない(じゃあ写真って芸術なんすかって論もあるらしいんだけど、よくわかんねえから割愛)。でも(だからこそ?)、人間は写真や映像のような目で見た完璧な現実だった芸術の現実にでさえ、精神的現実の表現を持ち込もうとする。多分写真はその精神的現実の表現が至極難しいから芸術かどうかの論争が巻き起こってる気もするんだけど、まあとりあえず映画にそういう傾向はある、とバザンさんも仰っている。

じゃあそれってどんな映画でさなんて話はしない。まだよくわかんないし。今回一番書きたかったのは、バザンさんの言う二つの願望が引き起こす葛藤のことだ。多分芸術家とか以前に、何かを少しでも作ったことがある人なら絶対感じることだと思う。残すと生むがイコールで結ばれないことに気づいて、どちらか一つだけでは成り立たないってことにも気づく。その葛藤が大きければ大きいほど偉大な芸術作品、なんて単純なことはないと思うけど、そんな感じもちょっとするんだな。残そうと思って生んだ何かが簡単に消えることもあれば、生みたいと思って残した何かが永遠に残ることもある。

芸術は不思議。

(まとまってないまま書き始めるとかっこ多いね。すんません)

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