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愛縁歌


風に吹かれながら揺れる白い花が見える。

あんなに強く吹かれて抜けないのだろうか。
荷物を下ろしコートを椅子に掛けてから、僕は思った。

家から一番近いこの喫茶店にはよく足を運ぶ。静かで落ち着いていて、椅子の座り心地が良いこの店は、牛乳瓶の底の様なレンズの眼鏡をかけたお爺さんが大抵一人で切り盛りしており、時々彼の娘であろう気さくな女性が店を手伝っている。
店内は暖色に包まれたとても素敵な空間だが、間取りは少々独特である。入り口を入って右手の窓側に面してカウンター席が6つ。店の一番奥と入り口の傍に二人用の小さな机がある。一般的な喫茶店やバーであれば、マスターと向き合うようにしてカウンター席があるが、ここは何故かマスターに背を向けるようにカウンター席が設置されているのだ。
マスターのお爺さんはカウンターの反対側で、いつもコーヒを淹れたり新聞を読んだり、金魚に餌をやったり。彼がいつもいる側にもカウンターらしき机はあるが、豆の入った瓶や金魚が泳ぐ水槽、積み上げられたCDにレトロなオーディコンポなどが並んでいて、客に使わせる気配は一切ない。もしかしたら、お爺さんは人と話すのが苦手なのかもしれない。
もう一つこの店には素敵な特徴がある。それは窓の外に見える花壇だ。喫茶店の隣に立つクリーニング屋との間のちょっとしたスペースに、しっかりと手入れされた色鮮やかな花が広がっている。僕は植物に疎いので花の名前などわからないが、季節ごとに違う花が顔をのぞかせる花壇は、僕の心を陰ながら癒してくれている。

コートのポケットから小説とタバコを出し、座り心地の良い角度を探し尻をじりじりと動かす。
「はい、どうぞ」
お爺さんが水と紙ナプキンをテーブルに置く。
「あ、アイスコーヒー一つ。あと、灰皿もらっていいですか?」
「はい」
お爺さんはこちらを見ずに、軽く返事をして視界から消えた。
僕は奥から二番目のカウンター席に座った。いつもなら一番手前を選ぶのだが、今日は先客がいたので仕方ない。それにしても今日は普段以上に混んでいる。五人以上この店にいるなんて中々珍しいではないか。僕は常連のごとく一丁前に周りを見渡してから、小説に手を伸ばした。今日でこれを読み終わらなければ。父から譲り受けた分厚い小説をぺらぺらとめくり、あと何頁で終わるかを確認する。

「だからさ、百合には家で一人で遊べるおもちゃみたいなのを買いたいの」
「そんなん言ったって、もう十分にあるじゃないか。それで百合も満足に遊んでるんだろ?」
左から若い夫婦の会話が聞こえる。
「何よ、満足に遊んでるって。あなたいっつも日中いないくせして、よく知ったようなこと言えるね」
「仕方ないだろ、仕事なんだから。大体百合が一番欲しいものを買ってあげるべきだよ」
なんだ喧嘩か。こんな小さな店でよくできるな。僕は文字を追うのをやめた。
女性の甲高い声はどんどんスピードを増す。
「百合が欲しいものって…。それ私が百合に物を押し付けてるってこと?」
「そういうことじゃないさ。ただ本当に百合がおもちゃ欲しがってるのかなと思っただけだよ」
男性は女性と対照的に聞き取りにくい喋り方をする。きっと彼女は彼の喋り方にも苛ついているのだろう。
「な、百合。お前なんか欲しいものあるか?」
男性が女性の膝の上に座っている女の子の顔を覗きこむ。
「百合は遊び道具が欲しいんだよね」
女性が男性の声を遮るように膝に乗せた女の子に話しかけた。
「積み木とかどう? ぬいぐるみもいいね。あ、ウサギのぬいぐるみ買ってあげよっか? この前一緒にデパート行った時にずっと見てたじゃない」
女の子は特に返事することもなく、テーブルの上に並んでいるティーカップを見つめている。
「なあ、そんな問いたださなくてもいいだろ」
男性が女性の顔を見ながらため息をつく。
「別に問いただしてるわけじゃ…」
「こうちゃがほしい」
女の子が二人を宥めるように優しく呟いた。
「ん?」
驚いたように女性が聞き直す。
「こうちゃ」
女の子が女性の方に振り返りもう一度言う。
「これが飲みたいの?」
男性が自分の前にあるからのティーカップを指差す。
「うん」
女の子は手でテーブルを軽く叩きながら笑顔でうなずいた。
「そうかそうか」
男性が笑顔で女の子の頭を撫で、お爺さんを呼び紅茶を頼んだ。
女性は自分が百合を前にしょうもない事で怒っていたのに気づいたのか、優しく女の子の頭を撫でてから「ごめんね」と囁いた。

ふと小説に意識を戻す。タバコを吸いたかったが、あの家族が出て行ってからにしよう。僕はそう決めた。ただタバコはあと二本しかない。どうせなら、彼らが店にいる間に向かいのコンビニに買いに行こうか。いやさっき来たばかりだし動くのは面倒だ。
行くか否かを迷っていると目に光が差した。眩しい。もうそんな時間か。僕は光が顔に当たらないようにお尻をずらし、体勢を下げた。
「ちょっとマスター。カーテン閉めてもらっていい?」
二つ右隣のマダムが、眩しそうな顔をしながらお爺さんを呼んだ。
「はい?」突然の呼び出しに驚きながらお爺さんが駆け寄る。
「カーテン。閉めてもらえるかしら?」
マダムが手に持っていた口紅と手鏡を置き、丁寧にカーテンを指差した。
「あー、はあ」お爺さんの口から曖昧な返事が出る。
「ちょっとこの席眩しいのよ。ほらみて、私の顔、輝いて見えるでしょ?」
マダムは反応の悪いお爺さんに嫌味な笑顔を見せた。光に反射する口紅の色が妙に不気味だ。
「ええよ、閉めんで」
すると、いつも僕が座っている席にいる野球帽をかぶったおじさんが会話に入ってきた。
なんだか今日は騒がしいな。僕は本を閉じアイスコーヒを飲んだ。
「はい?」
マダムが眉を上げながらおじさんの方を見る。
「だから、閉めんでええよ」
おじさんがゆっくりと言う。聞き慣れない関西弁のせいか、少々きつい言い方に聞こえる。
「あなたの席は日が差してないですものね? 私が輝いてるの、あなたも見てお気づきでしょう?」
マダムは突然会話に入られたことに動揺しつつ、お爺さんに見せた嫌味な笑顔を彼にも見せた。
「日の光はすぐに傾くもんですよ。それにせっかく窓際なんやから外の眺めを見たいですよ」
野球帽のおじさんが、全く動じる事なく優しく答える。僕も野球帽のおじさんに賛成だ。この喫茶店の良いところはこの大きな窓だ。それをカーテンで隠すなんて言語道断である。
僕が野球帽のおじさんの話に深く納得していると、マダムが「わかったわよ」と渋い声で諦め、手鏡を持ち化粧を再開した。おじさんが少し気まずそうな顔をしながら座り直す。
「奥さん、日の光当たってなくても十分輝いてますよ」
おじさんが小声でマダムに言った。大袈裟に口元に手を添えながら言うその姿が、彼の人の良さを表している。
「ちょっとやめてよぉ、あんた口がうまいね」
マダムがニヤッと笑う。
「冗談ですよ」おじさんが笑いながら胸ポケットからタバコを出す。
「冗談きついわよぉ」
マダムが大きな声で笑いながら手鏡を置いた。その顔は確かに輝いていた。日の光は少しずつ傾き始めていたが。
気づけばお爺さんは元の場所に戻ってコーヒーを淹れていた。いつの間に戻ったのだろうか。もしかすると、カーテンを閉めない理由があるのかもしれないな。僕はそんなことを考えながら水を飲んだ。

小説に意識を戻す。早く読まねば。それにしてもこの小説は長い。こんなにボロボロってことは、父は繰り返し読んでいたのだろうか。僕は深呼吸をして壁時計を見た。時刻はすでに17時を回ろうとしている。

「そろそろ行こうか」
左から声が聞こえる。さっきの男性か。
女の子が女性の膝から降り、ヨチヨチと僕の後ろを通り過ぎる。こんなしっかり歩けるのか。僕は感心した。
「百合」
女性がマフラーを巻きながら女の子を呼ぶ。
「百合もあんなに歩けるようになったのか」
男性が椅子をテーブルに入れながら、嬉しそうに呟く。僕と同じことで感心している。
「ちょっともう…」
女性が女の子に駆け寄り手を握る。お爺さんに会釈をして「あなた財布持ってるよね」と男性に向かって言う。うん、と頷きながら男性も百合の手を握った。二人の間で小さく足踏みをする百合がとても小さく可愛らしい。まるで百合の蕾みたいだ。少女の後ろ姿を見てほのかに感動していると、百合が後ろを振り向いた。不思議と目があった気がした。
百合、ありがとね。僕は心の中で彼女にお礼を言った。
タバコを口に咥え火を付ける。あと一本か。キリが良い所まで読んだら買いに行こう。
僕はタバコを吹かしながら、店を後にする百合を目でおった。
日はだいぶ傾き、窓の外が藍色に包まれ始めていた。
店内の淡いオレンジ色に照らされる花壇を、マダムが満足げに写真に収めている。

今日はなんだか色んな人がいるな。

店内に流れるフランク・シナトラのMy Wayを聴きながら煙をはいた。

「お父さんまた怒られちゃうよ?」
楓が口を尖らせながら言う。少し前を歩く父の背中が、どんどん小さくなっていくような気がして楓は早足になった。父が「大丈夫だよ」と笑いながら振り返る。
交差点で信号が変わるのを待つ。道路の向こう側に、若い夫婦と小さな子どもがいる。その子は、お母さんに抱っこされて嬉しそうに笑っている。何才くらいだろうか。多分私の5つくらい下かな。楓はそう思いながら持っていたエコバッグを地面においた。中に入っていた長ネギが顔を出す。
「ねえお父さん」
楓が向かいの家族を見ながら呟いた。
「ん?」お父さんが携帯をいじりながら楓を見る。
「お母さんとは出かけないの?」
楓はまだ向かいの家族を見つめている。
「どうした急に」
お父さんは少しびっくりした表情をしながら、手に持っていた携帯をポケットにしまった。
「この前みんなで焼肉食べに行ったじゃないか」
「違うよ。お父さんとお母さん二人で」
楓がお父さんの方を見る。その目は何かを訴えているようだ。
「ああ、そうだなぁ。時間が合わないからな…」
信号が青に変わった。向こう側にいた家族が楓の横を通り過ぎる。
「紅茶美味しかったか?」「うん」楽しそうな会話が一瞬聞こえる。
「はあ…」楓はため息をついた。エコバッグがさっきよりも重く感じる。

楓の家のリビングには三角の机がある。最近それが普通じゃないことに気がついた。
「私の家は四角の机だよ」いつかの給食の時間に、友達に机の話をしたらそう言われたのだ。四角なのかと楓はびっくりした。でも楓は自分の家の机を気に入っていた。お父さんの顔も、お母さんの顔も、両方しっかり見ることができる。もし四角い机だったら、全員が向き合って食べるなんてできないから。
半年前くらいからだろうか、家族揃ってご飯を食べることが一気に少なくなった。なんでだろう。楓は不思議に思ったけれど、お母さんにもお父さんにも聞くことはできなかった。きっと時間が合わないんだろうな。楓はお父さんの口癖を頭の中で真似した。きっとそうだ。でも、せっかく三角の机なのに、みんなで向き合って食べられないのは嫌だ。楓は少し前を歩くお父さんの背中をみながら、お母さんの笑顔を想像した。
楓の両親は別居生活を考えていた。インテリアデザイナーとして働いていた彼らは、職場で出会い意気投合。すぐに交際が始まり、その数ヶ月後には婚姻届を出した。母はデザイナーとして頭角を現していたが、楓が生まれたことをきっかけに退職。家族のために力を注ぐ道を選んだ。父は結婚後もデザイナーの仕事を続け、今は独立して自分の会社を持つことを検討している。
別居の話が出たのは、一年ほど前だった。最初はそんな話になる予定ではなかった。母がもう一度働きたいと言っただけなのだ。母は27才という、仕事盛りの時期に退職をしたこともあり、インテリアデザイナーの仕事に思い残りがあった。まだ働きたい。家事をしながら夫の帰りを待つ毎日の中で、その思いは膨らむばかりだった。
一方で父は、母の考えに良い顔はしなかった。自分が独立して成功すれば、今よりも稼ぎは増えるだろう。無理して妻に働いてもらわなくても、家族を養っていくことはできる。だから、楓を家に一人残して妻を働かせることに賛成はしなかった。家で家事に専念してほしい。もしそこまでして働きたいのであれば、家でできる仕事を探せばいいだろう。父はそう言ったが母は納得しなかった。
「私はデザイナーの仕事をもっと追求したい。お金の問題じゃなくてね」母はそう言いながら、自分が一番最初にデザインした三角の机を撫でた。楓が寝静まった後だった。
信頼関係とはなんとも不思議なもので、少しの亀裂が入ると氷山の如く見る見る削り落ちていく。彼らの関係もそうだった。ユニークな三角の机も、歪な家族関係を象徴しているようだ。楓を小学校に送り出した後、母はそう思いながら机の上にインテリア雑誌を広げた。
小さな理由だ。私が仕事を我慢すれば解決する話なのだから。でも、そこまでして働きたいなら家でできる仕事を探せばいい、と言った夫の言葉には私への理解と敬意を感じなかった。
私は妻ではなく、私である。夫にそう言い返したかったが、彼女はできなかった。

交差点を過ぎ、少し歩くと左手にコンビニが見える。楓はそこの喫煙所でタバコを吸うお父さんが嫌いだった。臭いし、暇だからだ。父が吸っている最中、楓は広い駐車場を散歩する。なんであんな臭い煙をみんなで集まって吸うのだろう。楓に理由はわからなかったが、それが良くないことなのは理解できた。きっとあの灰色の煙が、お父さんとお母さんの仲を悪くしているのかも。楓はタバコを吸うお父さんを見ると、いつも胸がチクチクした。
「ねえお父さん、また怒られるよ?」
コンビニの駐車場に着いて楓はお父さんに言った。
「大丈夫大丈夫。こんなんで怒らないよ」
父は笑いながら楓に言い、ポケットから小銭を出した。
「ほら、これでなんか買ってきな」
楓に数枚の百円玉を渡す。
「もうすぐ夜ご飯だからなんもいらないよ」
楓が長ネギの入ったエコバッグをクイっと前に出す。
「そうか。じゃあ、お母さんの好きなチョコレートを買ってきてくれるか。これだけあれば三つ買えるから」
父はポケットからもう数枚の百円玉をだし、楓の手に握らせた。楓は少し眉間に皺を寄せながら、プイっとコンビニの方に歩いて行った。お母さんのためなら仕方ないか。楓はそう思いながらコンビニに入った。ガラス越しにタバコを吸っているお父さんが見える。ため息みたいにして吐くその煙は妙に白かった。お父さんの奥に立っているおばさんもその隣にいるお姉さんも、同じ表情をしていた。みんな不満を吐き出しているみたいだ。楓はお菓子の棚からお母さんの好きなチョコレートを探した。

今日の夜ご飯で、楓にお父さんとお母さんが別々に暮らすことを伝える予定だ。別居なんて言葉は使わない。ただ、楓の家が二つになると言うのだ。きっと楓も喜ぶだろう。また気持ちが落ち着けば一緒に暮らせば良い。
父は本当にその判断が正しいのか、宙を舞う煙を見ながら考えていた。妻に働きたいと言われたときは驚いた。そしてその直後、怒りが込み上げてきた。なぜだろう。なぜ怒りがこみ上げたのだろう。確かに彼女の言い方には、あなたと違ってお金以外のことも考えている、と言った揶揄が含まれていた。まるで自分の仕事に対する姿勢を侮辱された気分だ。ただ、そんなことで怒るのは余りにも幼い。不思議だ。
そんなことを考えていると、隣から女性の声が聞こえた。自分より4、5歳ほど上だろうか。派手なコートは若作りしているとも取れるが、顔は整っており髪も丁寧に手入れされている。きっと学生時代は学校のマドンナだったのだろう。彼女は楽しそうに誰かと電話していた。
「ねぇ、信じられる? 私もびっくり。まだ4ヶ月くらいしか経ってないのに」
ケラケラと笑いながら膝を叩く。
「そうなの、理由も言ってくれないの。私あっちの親に挨拶までしたのよ〜。円満にいくと思ってたのに」
結婚の話だろうか。女性の年齢からして、友達か兄弟か。でもなんで彼女が相手の親に挨拶に行くのだろう。
「ほんとね、まだ子どもいないからただの喧嘩で済んでるけど。それにしても家から追い出すのはちょっとね。追い出されたからって実家に帰ってくる慎二も慎二だけど。ほんと笑っちゃうわ」
女性は大きな声で話しながらタバコを口元にやった。もしかして自分の息子の話をしているのだろうか。にしてはこの女性若すぎではないだろうか。一体何歳で産んだのだろう。結婚して4ヶ月で家を追い出される彼も彼だ。
父は目の前で繰り広げられる不思議な会話を聴きながら、携帯を出し時間を確認した。17時過ぎか。あたりはかなり暗くなっていた。

楓はチョコレートを手にレジに並んだ。お母さんは苺味が好きで、お父さんはブラックが好きだ。楓はお母さんと同じ苺味を選んだ。右のレジが空く。袋もレシートも入りません。楓は慣れた口調で店員に言い小銭をトレーに出した。
「103番で」隣から若いお兄さんの声が聞こえる。
隣のレジのお姉さんが、後ろを振り向き、たくさん並んでいる色々な絵柄の箱から、103番を一つ取ってお兄さんに渡した。
「あれ、お父さんと同じやつだ…」楓はその箱を目で追いながら小さく呟いた。このお兄さんも、お父さんみたいに灰色の煙を吐くんだ。疲れ切った顔をして。
楓はチョコレートとお釣りを受け取って、怒ったようにレジを立ち去った。このお兄ちゃんもお母さんに怒られればいいんだ。楓はそう思いながら、タバコを受け取ったお兄さんの顔を見た。目があってしまい、お兄さんが気まずそうに笑う。
楓は急いで目を逸らしてコンビニをでた。

女性の話を聞いていると、自分と妻のことを言われている気がしてモヤモヤした。
ただの喧嘩か。父はそう思いながら吸い終わった吸殻を灰皿に押し付けた。なんであんな些細なことが別居なんていう大きな話になったのだろう。発端はなんだったか。父は自分の悩み、というか怒りが、とても小さなものに思えた。彼女は自分の好きなことをしたいと言っただけだ。そんなこと怒ることではない。むしろ感謝するべきだろう。
「まあ結婚生活ってね、そういう喧嘩を繰り返して前に進んでいくものよね。私も最近気づいたわ。慎二も今朝家出たし良かった」
女性が笑いながら言う。
彼は実家を出られたのか。見ず知らずの家の事情に何故か安心した。
夕飯で楓に別居の話をするのはやめようかな。ふとそう思った。こんなのはただの喧嘩だ。しっかり彼女に謝ろう。そしてお礼を言おう。いつもありがとうって。

コンビニから楓が出てきた。手にはチョコレートが三つ握られている。少し怒っているのか、チョコレートを握る手は力んで見えた。
「はい」楓が父にお釣りを渡し、チョコレートをお父さんに見せる。
「ありがと。お、わかってるな、俺が好きなブラックじゃないか」
父は嬉しそうにお釣りとチョコレートを受け取った。
「ふぅ」父は小さくため息をつき、ポケットからタバコの箱を出した。まだ数本入っているその箱を握りつぶし、コンビニの入り口にあるゴミ箱に捨てた。
「行こう」父はそう言い、スタスタと歩き始めた。
「うん」
楓はなんでお父さんがタバコの箱を捨てたのか不思議に思いながら、歩き出したお父さんの後ろをついて行った。背中はさっきより近くに感じた。
「ほんとねえ。幸せが一番よ」
女性の声が遠ざかっていく。

「チョコ一個食べていいかな」お父さんが楓に言う。
「だめ、ご飯食べた後にみんなで食べるの」楓がエコバッグを揺らしながら言った。「今食べたらお母さんに怒られちゃうよ」地面の小石を蹴りながら口を尖らせる。
「そうだな。怒られるかもな」
お父さんは笑いながら楓の肩に手を回した。

今日は三角の机でお母さんとお父さんの顔を見ながらご飯が食べられる。ずっとそうだといいな。楓はこの後に待っている夜ご飯の時間を想像しながら、お父さんのお腹に体を寄せた。

あたりはすっかり暗くなっていた。

そろそろ終わりにしよう。
おかっぱ頭の女の子とその父親であろう男性の微笑ましいやりとりを見ながら、フィルターギリギリまで吸った赤マルを灰皿に押し付ける。私にもいつかあんな可愛い娘を持つ日が来るのだろうか。きっと遠い先の話なのだろう。
私は呪文のように頭から離れない数字を押し、スマホのロックを解除した。

哲とはバイト先で出会った。
「蘭ちゃんって映画に出てきそうなキャラしてるよね」
今考えればバカみたいな絡みだが、当時大学一年だった私は、三つ上の彼の言葉になぜかドキっとした。
「えー、それってどういう意味ですか?」と笑顔で聞き返した数年前の自分を思い出しながら、ポケットから赤マルのソフトケースを出し一本口に咥える。
デパートのフードコートに構えるオムライス屋のバイトをしていた私は、哲とシフトがよく被った。面積の小さな店だったので、夜のシフトはバイト二人で回す。それが幸運だったのか不運だったのか、考えたくもないが、そのおかげで私と哲の距離は急速に縮んだ。
店は21時がラストオーダーで、どれだけ忙しい日でも22時にはデパートを出られる。デパートのフードコートは夜に余り人がこない。休日などで賑わっていたとしても、フードコートを訪れた人が必ず自店に来るとは限らないので、辛いと感じるほど忙しくもない。私は楽な仕事に満足していた。
私と哲は、バイトの締め作業をしながらたくさんの話をした。映画の話、音楽の話、それぞれの大学の話、元カノの話、などなど。期限切れの材料があるときは、それをキッチン台に並べて二人で食べた。最初の方は彼が私に質問をしていた。余り自分から話を振れない性格なので、話題が絶えないように気を遣ってくれた彼には好感がもてた。ある程度時間が経ってから、私からも話しかけるようになった。私は口下手なので「最近調子はどうですか?」なんてぶっきらぼうな会話の始め方しかできなかったが、彼はその質問を気に入ってくれた。今思えば、あの狭いキッチンの中で話していた時が、いちばん哲のことを見ていたし、見ようとしていたかもしれない。
私は映画が好きだった。中学生の頃にお母さんに誘われて北欧の映画を見た日から、私の中で映画は特別なものになった。だから私は、バイトの最中映画のことばかり考えていた。家に帰ったら何を見ようか、この前見たあのシーンはどういう意味だったのだろうか。私は哲という素敵な喋り相手に出会えたおかげで、今まで一人で考えていたことを彼に共有することができた。哲はいつも優しく頷いて、相槌をうって私の話を聞いてくれた。私はその時間がとても愛おしく、そして徐々に哲のことも愛おしく感じるようになった。
哲は所謂一般的な大学生だった。バイトでほどよく稼ぎ、週末にサークル活動をし、三年間で数人の女性と付き合い、全てにおいて可もなく不可もないような、一般的な大学生だった。私と出会った頃にはすでに内定も決まっており、特にストレスの無い安定した大学最後の年を送っていた。彼は私の想像する大学生活を満喫していた。私にはそんな彼が魅力的に見えたし、一緒にいて安心すると感じた。
あれは確か6月ごろだっただろうか。私たちはバイト後に近くのコンビニに通うようになった。ジメジメとした空気を感じながら、キッチンで話し足りなかったことを話したり、冗談を言い合ったり、時々お互い無言になったり。すごく濃密な時間で、梅雨が嫌いだった私も雨をちょっと好きになった。雨が降っているおかげで、私たち二人だけが外の世界と切り離されているように感じたのだ。二つだった傘も気がつけば一つになっていた。
哲はいつもコンビニで三ツ矢サイダーを飲んだ。私はいつも紅茶を飲んだ。大抵は彼が買ってくれた。その頃から私はタバコを吸っていたが、彼の前では絶対に吸わなかった。
「なあ、蘭」ある日、彼が私を一人暮らしのアパートに誘った。私は、雨が強いしお母さんも心配するだろうからと渋った。大丈夫だよ、遠くないから、と彼は私に笑いかけ、私もそれを聞いて笑った。結局、彼のアパートで一夜を明かすことになった。不思議な夜だった。汗ばんだ肌と肌が触れ合うあの感覚を今でも朧げに覚えている。そしてその日を境に、何となく、何処となく、私と哲の交際は始まった。大学生の恋愛ってこんな感じなのかと私は感心した。そしてどこか呆気ないとも思った。

「ほんとありがとね、こんな話聞いてくれて」
斜め前にいる女性がスマホをコートのポケットにしまう。きれいな女性だな。私はタバコを吸いながら彼女の腕にかかっている黄色の手提げ鞄と白い紙袋を眺めた。
「ねえ、突然で申し訳ないんだけど、夫を家から追い出すような喧嘩ってどんなんだと思う?」
彼女が手提げ鞄からメビウスのパープルを取り出しながら言った。
え、私に言ってる?
「はい?」私は余りにも突然に話しかけられたせいか、返事をしながら咳き込んでしまった。
「あら、ごめんなさいね。こんな見ず知らずのおばさんに突然話しかけられたらびっくりするわよね」
うん。びっくりする。私はそう思いながらもう一度なんと言ったのか尋ねた。
「いやあのね」女性は近所のママ友に話すように、事情をざっくりと説明し始めた。
嫁に追い出されて実家に帰るか。なんとも情けない男だな。私は彼女の話を聞いて思った。それにしてもこの人は何歳だろう。息子さんの心情も気になったが、それ以上に彼女が結婚するほどの年齢の息子を持つ母親ということに驚きだった。私は煙を口から細く吹き出し「それで、息子さんはまだ家にいるんですか?」と尋ねた。

私は、哲と付き合い始めてすぐに彼の家に溜まるようになった。私の両親は共働きだったし、二人の心配は中学3年の妹の高校受験に向けられていたので、帰りが遅かったり泊まったりしても特に何も言われなかった。むしろ家にいない方が家族のためになっていたかもしれない。
哲も嫌な顔一つせず、いくらでも居ていいよと言ってくれた。私はそんな彼に甘えて多くの時間を彼と同じ屋根の下で過ごした。哲の家は広くはないものの、必要最低限のものしかなく、清潔感があり、都会の大学生の一人暮らしの理想系のようだった。
私は人が多い場所が嫌いなので、一緒に過ごすのは大抵彼の家だった。一緒に料理を作ったり、映画を見たり、テレビゲームをしたり、掃除をしたり、お風呂に入ったり、歯磨きをしたり、ゴロゴロしたり。私はただの日常がここまで美しくなるものなのかと感動し、その感動を与えてくれる哲のことを愛おしく大切に思った。
「哲はさ、何が好きなの?」
ある日、私は哲に尋ねた。いつも哲は私の話を聞いてくれるけど、彼は自分の好きな物などの話をしない。
「そうだな〜、蘭かな」彼は無機質なテレビのリモコンをいじりながら笑った。
「ねえそういうのいいから」私も笑いながら哲の髪を触った。
「うーん」少しの沈黙の後に哲が話し始める。
「あんまこれが好きっていうのはないんだよね。友達と遊んだり、飲んだり、どっか行ったりするのが楽しいかな。もちろん蘭といる時間がいちばん好きだよ?」
彼はテレビの電源を切り、「アイス買いに行こ」と、ベッドに横になっている私を起こそうとした。まるで会話を終わらせたがっているようだった。私たちはベッドで少しじゃれあった後にアイスを買いに行った。アイスはいつもより冷たかった。
「友達がこの前アウトレット行ったって言ってたんだけどさ、車借りて行こうよ。絶対楽しいよ」「ディズニーとかも行きたくない?」「花火大会はどう?」哲は色々な場所に私を連れて行こうとした。ただ私は彼の勧める場所にそこまでの魅力を感じなかった。
「車借りるならどっか遠くの山奥に行こうよ。芝生の上で飽きるまで寝てたいな」「それか美術館とかどう? クーラー効いて涼しいし人も少ないんじゃない?」「シーシャ屋さんで本読みたい」
話がまとまらず、結局家の中でゴロゴロしたり映画を見たりするのがお決まりだった。彼には少し申し訳ない気もしたが、体を重ねれば彼の機嫌は治り、私も気分が良くなった。
数ヶ月前、私の好きなバンドが解散した。音楽性の違いだとか。音楽性の違いなんて鼻から分かりきってるでしょ。私はそのニュースを聞いた時に思った。きっと哲と付き合っている時だったら、怒り狂って泣いていたかもしれない。彼らが解散した本当の理由に気づけなかっただろうから。
価値観の違い、性格の違い、夢の違い。そういった類の理由で、多くの関係が終わりを迎える。みんなその「違い」のせいにするけれど、私はそれが正しいとは思わない。多分その「違い」を誤魔化せるほどの愛や情熱がなくなったからみんな別れるのだろう。人と人が結ばれる時点で、お互いが違う部分を持っているなんて分かっている。最初はそれも引っくるめて相手を愛すのだ。

付き合い始めて6ヶ月後。私は振られた。
街がクリスマス一色に色付き始める12月のある日。それは唐突で、呆気なかった。きっと彼は私とクリスマスを迎えるのが嫌だったのだろう。もしかするとすでに違う誰かと予定が入っていたのかもしれない。
「ごめんだけど、もうちょっと普通の恋愛がしたくてさ」最後に彼はそう言った。
私には全く持ってその言葉が理解できなかった。というわけでもなかった。「普通か」私は思った。クリスマスという恋愛のステレオタイプを体現したようなイベントを目前に、きっと私と一緒ではそのステレオタイプに同化することができないと判断したのだろう。
熱湯に大量の氷を流し込んだように、小さな音を立てながら私の熱は冷めた。その後に私が何を言い返したのか、余り憶えていない。
私は哲と別れて数週間後に彼の家に荷物を取りに行った。私のDVDや本、服などはきれいに段ボールに収められ部屋の片隅に置かれていた。彼の部屋の清潔感が彼の面白みのない人間性を表しているようで、不思議と笑いがこみ上げてきた。なんで彼は私と付き合い、私は彼と付き合ったのだろうか。重い段ボールを持ち上げながら思った。洗面台には見覚えのない化粧落としと歯ブラシが置いてあった。
「もしなんかあれば連絡して。友達としては蘭って最高だと思うから。あ、あと、また面白い映画あったら教えてね」玄関を出ようとした時に哲が言った。
「友達としては」って面白い言葉だな。私は特に言い返す言葉も思い浮かばず「じゃ、お疲れ様」と言い、彼の家を発った。

「そりゃもう出たよ」
コートの袖から金色のブレスレットが見える。
私もこんなの欲しいな。でも私がつけたら下品に見えるかな
「私にもプライベートがあるんだから、いつまでも家いられたら困るわ〜」
「でも家を追い出すほどの喧嘩をして、そんな簡単に仲直りできるんですか? 例え息子さんが家に帰れたとしても、奥さんがそれを許すかは別の話かなと思います」
私は彼女の話に深く付き合う気は無かったが、彼女の人当たりが良いせいか自然と言葉に熱が入ってしまった。
「あんた若いね〜。肌がピチピチしてるわけだ」
彼女が笑いながら自分のほっぺを触って見せる。あなたも十分ピチピチですけど。
「確かに慎二たちが仲直りできるかは保証できないけどね、でも、私ちょっと安心したの」
「え、なんで?」
もしかしてこの人、息子が家に帰ってきてくれて嬉しいのかな。私はびっくりして聞き返した。
「だって、喧嘩できないほど酷なことはないよ? 喧嘩しなきゃ相手との違いもわかんないでしょ?」
ほんの数秒私の目を見つめたかと思うと、クスクスと笑い始めた。
「ま、私は離婚したんだけどね」
最近気づいたのよ。彼女はそう言いながらメビウスを咥えた。
確かに。この人の言う通りだな。私たち一回も喧嘩しなかったもん。
私は煙を藍色の空に吐いた。

私は哲と別れて直ぐにオムライス屋のバイトをやめた。ちょうど大学生活にも慣れ始めた頃だし、もう少し忙しくてやりがいのある仕事をしてもいいかなと思った。とバイトの友達には説明した。
私は新たなバイト先として、家から電車で一駅の場所にある映画館を選んだ。大好きな映画の近くで働ける。それだけで私の悩みは8割ほど消えた。残りの2割は映画館にいるのに映画を見られないもどかしさだ。バイトはとても楽しかった。売店の仕事はほどほどに忙しかったし、何より他のスッタフの人たちがみんな映画好きなので話していて楽しかった。
別れて2年ほど経っていただろうか。ある日、哲が映画館に姿を現した。そのシーズンは、人気俳優主演の恋愛映画と人気アイドル主演のラブコメ映画が同時公開していたので、映画館は若者で賑わっていた。当然哲の横にも可愛らしい女性が立っていた。きっと会社の同僚だろう。
私は彼の存在に気がついて数秒後、自分の動きが止まっていたことに気がついた。お客さんがカウンターの向こう側でキャラメルポップコーンが出るのを待っている。私は我に戻り「お待たせいたしました」とお客さんにポップコーンを渡した。動揺していたのか、数個ポップコーンを落としてしまったが、とやかく言われることはなかった。
幸い彼は売店に来なかった。

「ふーん」
私は控えめに相槌を打ち、1本口に咥えた。今日ちょっと吸いすぎかもな。私は残り何本あるかソフトケースを指で挟んで確認し、これが最後の1本であることに気がついた。
「合わないものは合わないよね。それは仕方ないの。付き合い始めて気づくことだってあるんだし」
彼女は吸い終わったタバコを灰皿に落とし、軽くため息をついた。
「無理に合わせようとして自分を殺すくらいなら、そんな関係切り捨てちゃいな。あなたはあなた、私は私ってね。それに、大切な人って案外身近にいるものよ。近過ぎてそれに気がつかないこともあるんだから」
この女性は私の心の中が見えているのだろうか。
「じゃあ私は待ってる人がいるので失礼しまーす」彼女がライターを手提げに入れる。
「え…」私は言いそうになった言葉を飲み込んだ。
「何よあんた失礼ねぇ。私だって大切な人くらいいるわ」
彼女が紙袋を誇らし気に持ち上げて微笑む。
数歩歩いたところでこちらを振り向き「じゃね」とウインクをした。
きっと素敵な人が待ってるんだろうな。あの紙袋にはプレゼントでも入ってるのだろうか。
私は赤信号を待つ彼女に心の中でお辞儀した。

そろそろ終わりにしよう。
私はスマホを開き、パスワードを新しくした。

ふと前を見ると、目の前に同い歳くらいの男性が立っている。
彼女との会話に夢中になり過ぎたのか気配すら感じなかった。
ケントなんか吸ってるんだ。
私はそう思いながらある映画の登場人物を思い浮かべた。

ある程度きりの良いところまで読んだからタバコを買いに行こう。僕は椅子にかかっているコートを取り「ちょっとコンビニ行ってきます」とお爺さんに断って店を出た。カウンター席に座っていたマダムと野球帽のおじさんも店を出ようと身支度を始めていた。
重い木製のドアを引くと冷たい風が首元に流れ込んでくる。マフラーしてくるべきだったな。僕はコートのファスナーを一番上まで上げ、店の前にある信号を早足で渡った。
「103番で」お馴染みの番号を伝えるといつもの箱が目の前に出てくる。「こちらでお間違い無いですか?」レジのお姉さんが念のため聞いてくる。「はい、大丈夫です」軽く流して箱を受け取る。
「お父さん…」
その時、右のレジから女の子の声が聞こえた。声のする方向を見ると、おかっぱ頭の目がくりくりした女の子がこちらを見ている。「見ている」というより「睨んでいる」の方が正しいだろうか。僕は少々驚きながら、チョコレート片手にこちらに歩いてくる女の子に笑い掛けた。彼女はその笑顔に驚いたのか、すぐに目をそらして逃げるようにコンビニの外に走って行った。「なんだよ…」僕は突然の威嚇に驚きつつ、コンビニ駐車場の喫煙所に向かった。
喫煙所には、中年の女性と若い女性、それとさっき僕を睨みつけた女の子とおそらくその父親であろう男性がいた。人が減るまで待つか。僕はタバコのビニールを剥ぎ取り、少し離れたところでタバコに火をつけた。
「はい?」
若い女性の声が聞こえた。驚いた様子で中年の女性と会話している。中年の女性は見覚えがある気がした。あの明るそうな雰囲気、どこかで会ったことがあるのかもしれない。
若い女性はおそらく大学生だろう。耳たぶに掛かるか掛からないかほどの黒髪の間から銀色のリングが見える。厚手の茶色いセーターに色の薄いワイドなジーパン、足元の白いスニーカは年季が入っており薄汚れていた。その表情はどこか懐疑的で、世間を俯瞰しているようにも見える。男にでも振られたか。もしかしたら不幸な家庭で育った子なのかもしれない。あれこれ頭の中で勝手な妄想しながら煙を吐いた。
僕は昔から観察癖がある。家から遠い私立の学校に通っていた僕は、往復2時間半の電車の中で多くの人を観察した。イヤホンで音楽を聴きながら、正面のベンチに座る人間の会話や心情を思い浮かべるのだ。反抗期の息子とその母親、付き合いたてのカップル、仏のような老夫婦。僕が想像する会話が彼らの表情と一致すると、面白くなって一人で微笑むことさえあった。側から見たら変な癖だろう。僕もそう思う。
幼稚園の頃に父に連れられ銭湯に行った時には、刺青の入ったお兄さんたちに釘付けになってしまい、父に怒られたこともある。あまり見過ぎるな、失礼だろ、と。当時の僕には何が失礼なのか全く理解できなかったが、この密かな楽しみが禁断的であるということは幼いながらに自覚した。
父は大の映画好きだった。僕はそれに反してあまり映画が好きではなかった。毎週金曜日になると、父はビデオレンタル屋から何本ものDVDを借りてきては、缶酎ハイ片手にリビングで死んだように映画を見ていた。「一緒に見るか」と誘われることもあったが、父が見る映画は白黒で会話が少なく、小学生だった自分には難し過ぎたので、大概は「大丈夫」と言って断った。時々少しの同情心から父の映画鑑賞に付き合ってあげたが、僕は眠気との戦いに精一杯で、ほとんど映画に集中できなかった。エンドクレジットに入ると、父はうーんと頷きながら、手に持った缶酎ハイの上を指でコツコツと叩いた。納得の頷きなのか後悔の頷きなのか僕にはわからなかったが、缶酎ハイを叩く仕草は嫌いではなかった。
大学二年の冬、父は他界した。心筋梗塞だったらしい。突然の死に僕は泣くことすらできなかった。葬儀の時に棺桶に入った父の顔を見た。僕はじっとその顔を見ながら、彼が何を考えているのか想像した。これも失礼なのかな。僕はそう思いながら、缶酎ハイをコツコツと叩く父を思い描いた。

「じゃあ私は待ってる人がいるので失礼しまーす」
中年の女性の声が聞こえる。大学生らしき彼女の表情が、心なしか先ほどより柔らかになった気がする。二人は知り合いだろうか。中年の女性がライターを鞄に入れ立ち去る。僕はそれに合わせて灰皿の近くに移動した。
彼女は遠目で見るより小柄だった。僕の存在に気づいたらしく、体の向きを少しずらしてから宙に薄い煙をゆっくり吐いた。僕が手に持っていたタバコの箱を、視界の片隅で捉えているような気がする。僕は短くなったタバコを最後に一吸いして喫茶店に戻ろうとした。

「あなた、自殺でも考えてるんですか?」
灰皿に吸い殻を落とした僕に突然彼女が話しかけてきた。
なんだこの人は。予想外すぎる第一声に戸惑いが隠せない。予想外すぎる第一声、という以前になぜ話しかけてきたのか。僕は一瞬のうちにどう返答するのが最善か考えたが、結局「え、いや…」とユーモアのかけらもない返事をした。
「いや、あなたケント吸ってるから」自分でも突然声をかけてしまったことを申し訳なく思ったのか、彼女は少々動揺しながら僕の手にあるケントの箱を指さした。
ケントを吸っている人間は自殺するのだろうか。過去に同じようなことを言われたか思い返すが、そんな覚えは毛頭ない。さっきまで彼女のことを勝手に観察していたし、お互い様か。僕は箱から一本タバコを取り出し火をつけた。
「ケント吸ってたら自殺するの?」
そんなことはあり得ないとわかっていたが義務的に聞いてみた。
「昔の映画にそういう人がいただけ」
彼女は笑いながら髪を耳にかけた。こんなに寒いのにセーター1枚で大丈夫なのかな。春先のような彼女の格好を見て心配になった。
「その人、君たちに拭えぬ汚点を残して自殺するって遺書に書いてから死ぬのよ。どんだけ世間恨んでんだろう」
彼女が場面を想像しながら話す。僕は自然と父の顔を思い浮かべた。
父が死んでから四年。母は僕の大学卒業と同時に住んでいた家を売り払い、鳥取の実家で祖父と叔母と暮らすことを選んだ。僕は就職が決まっていたコンサルティング会社近辺のアパートに移り一人暮らしを始めた。それがこの街なのだ。僕は実家を出る時に、父の書斎にあった大量のDVDと本をもらった。「売るより息子がもらってくれた方があの人も喜ぶわ」と母も嬉しがっていた。
仕事の後、毎晩のように父の残した映画を見た。映画に興味があったのではなく、映画の虜だった父を知りたかったのだ。DVDはやはり往年のものばかりで、僕が知っている作品は一つもなかったが、不思議と眠たくならなかった。僕も少しは成長したのだろうか。小学生の頃の自分に、そして父に自慢したくなった。
「それ、フランスの映画?」
僕は彼女に尋ねた。
「そう」彼女は驚いたようにうなずいた。
「フランス映画ってそういう変な映画多いから」
僕は当てずっぽうで言ったことが間違っていなくて安心した。
「そんなことないよ。フランス映画は野心的なの」
彼女が自慢気に言う。
「そうかな…」彼女の言う野心的の意味を考えながらケントの箱を見つめた。
「映画好きなの?」
僕は少し魔を置いてから彼女に聞いた。
「うん」
彼女は少し気まずそうな顔をしながら答えた。
「いっつも死んだように見てる」
彼女は吸い終わった吸い殻を灰皿に捨て、ジーパンで手をはたいた。
僕はいつもリビングで死んだようにテレビを眺めていた父を思い浮かべた。映画が好きな人はみんな一緒なのか。
「なんでさ、そんな映画見るの?」
「なんでって…」彼女が突然の質問に驚いたのか笑った。
「あ、ごめん。なんか立ち入ったこと聞いちゃって」
僕はさっき会ったばかりのことを思い出し慌てて謝った。
「そうね」彼女が特に気にしない様子で話し始める。「時々心が震えるような作品に出会えるの。どうしようもないくらい。エンドロールで唸るのよ、うーんって。それが最高に気持ちいの」
なんだ、父と一緒じゃないか。僕は面白くなって笑ってしまった。
「何よ。聞いといてバカにしないでよね」
彼女が恥ずかしそうに言う。
「いや、ごめん。知り合いに同じようなことする人がいたから」
「え、その人もうーんって唸るの?」
「うん。で、いっつも缶酎ハイ飲みながら見てるんだけど、見終わった時にその缶の上を叩くんだ。コツコツコツって」
「へー、面白いね」彼女は目を細めながら太腿を指で叩いた。「きっとその人も同じだと思うよ。缶の上を叩くのは考えてるんだね、これから先こんな作品に出会えるかなって」
「なるほどなぁ」
僕は父のことを少しだけ知れた気がして、彼女に「ありがとう」とお礼を言った。

「うーさぶっ…」
彼女が腕を組みながら首を縮め身震いする。時刻は17時15分ほどだった。
「私なんだかんだ20分くらいここにいたわ」
「よくそんな薄手でいられたね」
僕は嫌味を込めてではなく、純粋に思ったことを言った。
「ちょっとタバコ吸おうと思って家出ただけだから」
彼女はそう言いながらセーターについた毛玉をとった。
「ねえ、もし時間あったらさ、あそこの喫茶店行かない?」
僕は反射的に道路の向こう側にある喫茶店を指さした。特に下心があったわけではなく、単にもう少し人と話していたかったからだ。
彼女が指の先に見える喫茶店を眺める。
「もうちょっと映画の話聞きたくてさ。ここ寒いし」
彼女は数秒喫茶店を観察した後に「タバコ数本もらっていい?」と言った。
「もちろん」
ケントでいいならと付け足し、二人で信号の方に歩き始めた。
「私あそこ行くの初めて」
「ほんとに? すばらしい店だよ」
「すばらしい、はちょっと大げさじゃない?」
「いやほんとに。とにかく窓がでっかいんだよ」
「へー、そうなんだ」
「あ、ところで名前なんていうの?」

あの店何時までやってたっけな。
窓から漏れ出る淡いオレンジ色の光を眺めながら思った。

「お邪魔しまーす」
重い木のドアが開くのと同時に、菫の声が静かな店に響く。
「おー、やっと来たか」秀俊は小さな丸椅子から腰を上げ、シンクの台に手をついた。
「あら珍しい、お客さん誰もいないじゃない」菫がスタスタと店内を進み、突き当たりの小さな机に手提げを置き、派手なコートを椅子にかける。
「ほんの数分前にみんな出て行ったんだ。ひとりはタバコを買いに行っただけだから、もう時期帰ってくると思うぞ」
お前も何か飲むか、と秀俊は向かいにきた彼女に水を出す。
「タバコ買いに行ったか…。あ、もしかしてさっき駐車場でタバコ吸ってた男の子かな」
ぶつぶつと独り言を言いながら、菫が紙袋の中身を確認する。
「よかった。潰れてなかった」
嬉しそうに笑い、「どうぞ」と秀俊に紙袋を差し出す。
「お、なんだ」
「明後日誕生日でしょ。私仕事で数日来れないから先に渡しとこうと思って」
「なんだなんだ。お前もそんな粋な計らいができるようになったのか」
「さっきそれ持ってタバコ吸ったから臭いかもね」
秀俊がどれどれと紙袋の中に目をやる。
「おー、すごいな。俺の好きなチーズケーキじゃないか」
「モンブランは私のだから」
菫が金魚にパラパラと餌をやる。
「なんか、それにしても数多くないか? 全部で4つあるぞ」
「美味しそうだったからつい買っちゃって。あ、明日裕子さん来る日じゃない? ケーキあげといてよ。明日ならまだもつでしょ」
「そうだな、裕子さん月曜は必ずくるからな」
秀俊は紙袋から長方形の箱を出し、奥に隠れている冷蔵庫にそっとしまった。
「閉店したら食べるか」
「そうね」
菫が奥の椅子を一つ持ってきて腰掛ける
「じゃあホットコーヒーお願いします。にしても今日ほんと寒いね〜。もう嫌になっちゃう。ここは相変わらず温かくて心地いいわ」
「そうだな。今が一番寒い時期だしな」
秀俊が慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
「慎二は出て行ったのか?」
秀俊がコーヒーから菫に目線を移す。
「出て行ったわよ」
菫が金魚の水槽をコツコツと指で叩きながら答える。
「ほんと人騒がせな子よね。理解できないわ」
「母親に似たんだろうな」
秀俊が静かな声で笑った。
「ちょっと何よ。別に私は一度も喧嘩で実家に帰ったりしてませんけど」
「お前がここに帰ってきた時には、すでに喧嘩が終結してたからな」
秀俊が菫の前にコーヒーカップと砂糖の入った瓶を差し出す。
ありがとう、と菫はお礼を言い、瓶から大匙二杯の砂糖をコーヒーに流し入れる。
「お父さんってほんと嫌味言うの上手いよね」
スプーンでコーヒーくるくると混ぜながら菫が言う。
「嫌味じゃないだろう。事実を言ったまでだ」
「その言い方よ。気使える人は事実をちょっと曲げるものよ」
「確かにな。ただお前にはそんなことする必要なない。娘なんだから」
「なんか嫌な感じ…」
秀俊が、先ほどまで座っていた小さな丸椅子にゆっくりと戻っていく。
「ねえ、そろそろこっちのカウンター使おうよ」
菫が物置と化したカウンターを撫でながら言った。
「どうだかな。物を動かすのが面倒なんだ」
「そんくらいだったら私がやるわよ」
「いや、いいんだ。お客さんの背中見ながら仕事するのも悪くないしな」
「喫茶店みたいな接客業ってお客さんとのコミュニケーションが醍醐味じゃないの?」
「いいんだよ。いい」
秀俊はそう言い切って新聞を広げ読み始めた。
「確かに花壇もいいけどね〜」
菫は大袈裟にため息を吐きながら、水槽の中を泳ぐ金魚に喋りかけた。

重いドアを押す。
店内にお客さんは一人だけで、お爺さんは小さな椅子に座り新聞を読んでいた。
「あら」
水槽の前に座っていた女性がこちらを見て驚いた顔をする。
「あ」隣にいた蘭も驚いた顔をしている。
「奇遇ね〜」
もしかして私の跡をつけてきたの? と彼女は嬉しそうに言った。やっぱりだ。さっき喫煙所にいた女性、どこかで見たことあると思ったら、ここで時々お爺さんのこと手伝ってる人か。
「え、ここよく来るんですか?」
蘭が嬉しそうに女性に聞く。さっきの喫煙所で仲良くなったのだろうか。
「そうね。よく来る。ていうか、お父さんの店だから」
彼女がちらっとお爺さんの方を見て笑った。
「さ、座って座って」彼女は席から立ち、僕たちを中に促した。
「菫の知り合いか?」
お爺さんが新聞を閉じ彼女に聞いた。
「ええ、さっきコンビニの喫煙所であったのよ。慎二の愚痴聞いてもらっちゃった」
「そんなこと話したのか…」
お爺さんの表情は、喫茶店のマスターというより一人の娘の父親、という雰囲気だった。
やっぱりこのお爺さんも喋るんだ。僕は不思議と感動した。
僕はさっきのカウンター席に座り、蘭が座りやすいように隣の椅子をひいた。
「ねえ、せっかくだしお喋りでもしない? ここで再開したのも何かのご縁よ」
菫と呼ばれた彼女が、こちらに椅子をジリジリと移動させながら言う。
「いいですね、そうしましょ」蘭がうんうんと頷く。
「ここ変な間取りだからみんなで団欒とかしづらいんだけど…」
菫さんはブツブツと喋りながら、奥の二人用の机を店の中心に引きずってきた。こんな好き勝手にしていいのだろうか。僕はお爺さんの顔色を伺ったが、特に何も言うことなくグラスに水を注いでいる。
「お嬢さんは何か飲むかい?」
机にグラスを二つ置く。
「じゃあ、ホットコーヒーで」
「お兄さんは?」
「僕も同じのでお願いします」
お爺さんは「はい」と言ってから元の場所に戻っていった。
「ごめんね。あの人ちょっと感じ悪いでしょ」
菫さんがタバコに火をつけながら言った。
僕はポケットからケントを出し、カウンターにあった灰皿を机の中心に移動させた。
「いえいえ。そんなことないですよ」
僕は本心から言った。感じが悪いなんて一度も思ったことない。
「そうかな〜」
菫さんは首を傾げながら煙を吐いて、「あ、そうだ」と何か思いついたように突然立ち上がり、お爺さんの方へ駆け寄っていった。何やら頼み事をしているようだ。お爺さんは彼女の話を聞き、少し困った顔をしてから小さく頷いた。菫さんがスタスタと店の外へと出ていく。
僕は箱から2本タバコを取り出し、一本を蘭に渡した。
「ありがとうございます」
「いえいえ」僕は軽く会釈し、彼女にライターを渡した。
よいしょ、と言いながら菫さんが重そうな看板を店の中に入れる。
「ふう…。閉店しました」
菫さんがパチパチと小さく拍手をしながら、椅子に座った。
「大丈夫なんですか? まだ5時半前ですけど」
蘭が心配そうに聞いたが、「大丈夫大丈夫、閉店時間は割と気分だから」と笑いながら菫さんはタバコを咥える。そんなことよりさ、と彼女は言い、僕と蘭がなぜ一緒にこの店に来たのか聞いてきた。僕はケントの箱を見せ、喫煙所での会話をざっと説明した。
「え、ほんとにケント吸ってる人は自殺するの?」
菫さんは自殺の話が気になったのか、僕が大方話終えた後に再度聞いてきた。
「いや、映画の話なんで…」
蘭が笑いながら答える。
「どうせあれでしょ? 死ぬ直前に一本タバコ吹かすんでしょ?」
菫さんが、映画のキャラクターを真似するように濃い煙を頭上に吹く。
「ですね」蘭も同じように濃い煙を吹かして笑った。

「はい、どうぞ」
お爺さんがホットコーヒーを二つ持ってきてくれた。お礼を言って机にスペースを空ける。
「お父さんもせっかくだし一緒にお喋りしようよ」
「うん、そうだな。洗い物したらな」
お爺さんはそう言ってまた奥に戻っていった。
「あの人、普段無口なんだけどね、話したらすごい面白いのよ。いろんなこと知ってるし、案外人と話すの好きなのよね」
菫さんは本当にお父さんのことを大切に思ってるんだな。もし父がまだ生きていたら、僕は他の人に同じような自慢をできるだろうか。微笑みながら話す彼女の顔を見ながら思った。
「確かに。博識って感じですね」
蘭がホットコーヒーを啜りながらお爺さんを眺める。
そうなのよ、と言いながら菫さんもコーヒーを飲んだ。

『How many roads must a man walk down…』
店内に流れるボブ・ディランの声が聞こえる。
心地いいな。僕はなんとなく知っている歌詞を口ずさんだ。
『How many seas must a while dove sail…』
菫さんと蘭も小さく口ずさむ。僕は二人を見て少し微笑みタバコを一吸いした。

「あの花壇、素敵ですね」
蘭が外に見える花壇を指さして言った。
「あら。嬉しいわ」
頬を緩ませながら菫さんが言う。
「誰が手入れしてるんですか?」
以前から気になっていたので聞いてみた。
「お父さんがいつもしてるの」
「へえ、すごい。花が好きなんですね」
蘭が驚きながら言う。
「そうなの。もともとはお母さんが花壇を作ったんだけど、体が弱い人でね、結構昔になくなっちゃったの。それでお父さんがその花壇を守ってるわけ」
「あ、そうなんだ」
僕はあの花壇にそんな物語があったことに驚いた。
通りで素晴らしいわけだ。
「お母さんは本当に花が好きで、私のスミレって名前も花が由来なのよ。春に生まれたからスミレにしようって」
「え、私のランって名前も花が由来です」
蘭が驚きの声をあげる。
「本当に? 私たち運命かもね」
菫さんも驚きながら笑った。
「ほんとは窓側にカウンターなんかなかったのよ。なんだけど、お母さんが亡くなってから、お客さんに彼女が作った花壇を見て欲しいってお父さんが思って、後から作ったわけ」
なるほど、そういうことだったのか。僕は長年の疑問が解決し、とてもスッキリした。それにそんな愛のこもった素敵な理由だったなんて。
もしかして今日カーテンを閉めなかったのも、花壇が見えなくなるからだったのだろうか。
僕はピンときたが口には出さなかった。
「私は両方のカウンター使えばいいと思うんだけどね。なんかどうしても窓側に座らせたいらしくて…」菫さんが、もうねぇとぼやきながらタバコを吸った。
「そりゃ窓側の方が素敵ですよ。そんな素晴らしいな理由があるなら」
蘭はキッパリと言いコーヒーを飲んだ。
僕も同感である。こんな素敵な花壇に背を向けるなんて勿体無い。
「まあねぇ、コーヒー提供するのがちょっと手間なくらいだから」
窓の外を眺めながら菫さんが呟く。
「あなたたち甘いもの好き?」
菫さんが手に持っていたコーヒーカップを置いた。
「はい、まあ」そんな質問久々にされたので、僕はなんとなく答えた。
「結構好きです」蘭も答える。
じゃあちょうどいいわ、と彼女は席をたち奥に歩いていった。
長方形の白い箱の上にお皿とフォークを乗せて帰ってくる。
「ケーキなんだけど、多めに買っちゃったからよければ食べてくれる?」
箱の中にはモンブランが二つとチーズケーキ、それとショートケーキが入っていた。
「いいんですか」
蘭が目を輝かせながら言う。
「どうぞどうぞ。チーズケーキは残しといてあげてね、お父様が召し上がるので」
彼女はそう言いながら、自分の分のモンブランをとった。
「素敵ですね。お父さんにケーキ買ってあげるなんて」
蘭はどっちにしようかな、と箱の中を眺める。
「明後日誕生日だから」
「あ、さっき言ってた待ってる人がいるって、もしかして…」
「そうそう。できる娘でしょ?」
「えー、もうめっちゃできる娘です」
蘭が感心したように拍手する。
先に彼女に選んでもらい、僕はモンブランを取った。

「悪いな。チーズケーキ残してもらって」
お爺さんがコーヒーと丸椅子を持って机にやってきた。
「お、主役が登場ね」
「おめでとうございます」
蘭が祝いの言葉を言う。
「いやあ、照れるな。こんな大勢に祝われるなんて何年ぶりだろう」
お爺さんは素敵な笑顔を見せながら、照れるように頭をさすった。
「ほんとよね。二人が来てくれてよかったわ」
菫さんも嬉しそうに言った。
「ほんとだな」
お爺さんが頷く。
「さっき、花壇が素敵って言ってたわよ」
菫さんがモンブランを頬張りながら、自慢してやりなさいよと言うようにお爺さんを見た。
「お、ほんとか。それは嬉しいな」
「ほんと素敵です」僕と蘭もケーキを食べながら声を揃えていった。
「花を見てると季節を感じることができるからな。四季それぞれで全く違う雰囲気の花壇が生まれるんだ。それが楽しくてな」
お爺さんはチーズケーキを食べる手を止め、今まで見せたことのないような笑顔で言った。その笑顔は花壇を語る、というより花壇を作った亡き奥さんを語っているようだった。
四季それぞれの花壇か。記憶の中にある春の花壇や夏の花壇の前で、楽しげに肩を並べるお爺さんと奥さんを想像する。きっととても素敵な夫婦だったんだろうな。

「ちょっと私の好きな曲流していい?」
菫さんが立ち上がりCDが積み上がっている方へ向かう。
「どうぞ」
お爺さんがチーズケーキを平らげ頷いた。

『Once upon a time there was tavern…』
ピアノの音とともに女性の透明感のある声が聞こえる。
「Those Were The Daysって曲なんだけど、本当に大好きなの」
菫さんが席にもどりコーヒーを一口飲む。

「ちょっと、酒でも飲むか」
お爺さんがぼそっと呟く。
「え、いいの??」
菫さんが嬉しそうに聞き返す。僕はお爺さんの口から酒という言葉が出たことに驚いたが、特にこの後の予定もないので是非飲みたいと思った。
「今日はなんだか気分が良いからな」
お爺さんが微笑みながらそう言った。
「やったー。飲もう飲もう」
菫さんが両手を上に突き上げる。
「ぜひ」蘭が嬉しそうに言った。僕も続けてぜひと言った。

『La la la la la la…』

確かに今日は気分がいい。そして色々な出会いがあった。これも何かの縁なのか。
店に響き渡る心地良い女性の声を聞きながら、オレンジ色の光に照らされる花壇を眺めた。

そこには、相変わらず風に吹かれながら揺れる白い花が見える。

多分どれだけ強い風に吹かれても抜けないだろう。


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