うちに帰ろう。

 青空のもと、キャッキャと燥ぐ遠くのボートを眺めながら溜息をついた。望んでいた筈の“好きなことをして良い時間”を貰ったというのに、全く気持ちが晴れない。爽やかな緑の匂い。穏やかに広がる平和な景色。完璧なお膳立てを前にしても、心は酷く落ち着かなかった。

なんなら今、わたしはとても苛々している。

「次の日曜にでも気分転換しておいでよ」

そう夫に言われて、直ぐには不安しか感じなかった。わたしがおかしいのだ。自分がこんなにも子育てに上手く順応できない人間だとは思いもしなかった。

止まらない嘆きを飲み込み、手にしていたマグカップをテーブルに置く。そうして今日3度目のLINEを送った。
休日の12時を回り、国立公園に併設されたレストランのテラス席は大分賑わってきていた。

―何か問題はありませんか?カンちゃんはご飯食べましたか?

既読の付かない画面を暫く睨む。きっと手一杯なのだろう。癇癪を起した息子にオロオロするばかりの夫の画が浮かび眉間に寄っていた皺が若干引っ込んだ。
わたしにはまだ早かったのだ。産んだ瞬間から母親には休息なんて無いと、そう覚悟して仕事も諦めたじゃないか。

「あの、申し訳ありません」

うちに帰ろう。そう決心し、背凭れに置いていたショルダーバッグに手を掛けた時だった。引き留める様な優しい声に振り向けば、そこには黒のロングエプロンに白いシャツを着た若い男性店員が立っていた。

「お客様、こちらの椅子をお借りしても宜しいでしょうか」

空いている向かいの椅子に目をやる。わたしは直ぐに頷いて、どうぞどうぞと手を差し出して見せた。

「中から別の椅子をお持ちしますので少々お待ちください。ありがとうございます」

「あ、いえ、あのっ」

もう帰りますので。そう伝える前に彼は颯爽と去って行ってしまった。
スラッとした後ろ姿を目で追う。大学生ぐらいかな。彼は持っていった椅子を他のテーブル席に付けると、床に置かれていた大きな荷物を持ち上げて椅子の上に置いてみせた。まだ幼い子供連れの女性が頻りに恐縮している。ああ、優しい気遣いが出来る子なんだなぁ。陽に透ける柔らかな髪と誠実そうなその笑顔を反芻しながら池に浮かぶ小さなボートたちに視線を移した。

息子の将来を想う。
あんな感じの良い青年に育ってくれたならと思う。そうして目を閉じ、20年後の自分の姿も想像した。子育てに一区切りがつき、還暦を迎えたわたしには一体何が残っているのだろうか。

 ひと回り以上も年下の夫と籍を入れたのは1年前。拒み続けていたわたしの心の中に彼の優しさはじわじわと侵入してきた。未だにお義母さんに負い目を感じている自分が居る。大学を卒業したばかりのカンちゃんが「結婚する」と連れて来た女が40歳目前だったら?
わたしは絶対に反対する。自分のことは棚の上にあげまくって。

「お客様」

柔らかな声の方へゆっくりと目を開いた。背の高い彼がまたそこに立っていた。

「先ほどは大変失礼いたしました。宜しければこちらをどうぞ」

マグカップの横に出されたのはフォンダンショコラだった。白く平らな皿の周りにはカラフルなイチゴやラズベリー、ブルーベリー、そしてミントの葉っぱが品良く添えられていて、その中央に光沢のある円柱型のケーキが立っていた。

あったかい匂いがする。

突然のことに声を出せないでいると、店員はより嬉しそうに言葉を続けた。

「こちら“人をダメにするケーキ”です」

「へ?」

「人を、ダメにする、ケーキ、です」

聞き取れなかった訳じゃないのに、彼が物凄くニコニコしながら“ケーキの名前”をゆっくり紹介したので、わたしの口から笑いが漏れてしまった。

「先ほどのお礼にと店からです」

「いえそんな悪いです。あれだけでこんなこと」

「切ってみて下さい。中からどばぁぁっと大量の液体が流れ出しまして、」

「あはははは」

何故か恐怖を誘う様な身振り口振りでフォンダンショコラを説明する彼に、わたしは再び笑い声を上げた。

「本当に体が蕩けちゃう程に美味しいですから。食べてみて下さい」

「分かりました。食べてみますダメにするケーキ」

「人を、ダメにする、ケーキです」

「あ、すみません。人をダメにする、ケーキ」

「そうです。珈琲のおかわり持ってきますね」

懐かしい感覚。大人と話して笑ったのはいつ振りのことだろうか。変な名前のケーキのことを早く夫に伝えたいと思った。

「頼ちゃん」

くぐもった声に突然名前を呼ばれ、驚いた私は口に当てていた手もそのままに動きを止めた。

「頼ちゃんごめん」

テラス席の柵の外に夫が立っていた。
朝と同じグレーのスウェットに眼鏡。足元は黒のクロックスに裸足だった。案の定、抱っこ紐から伸びたカンちゃんの小さな足にも靴下は履かされていなかった。

「ごめんね」

私は席を立ち、俯いてしまった夫に近づいていった。良く見るとグレーのスウェットには赤や黒の小さな染みが無数に出来ていた。

「こっちこそごめん」

「カンちゃんが泣き止まなくて、」

「うん」

息子は夫の腕の中ですやすや寝ていたが、口の周りにはお昼の跡が。目の周りには涙の跡が残っていた。

「ねぇ、美味しいフォンダンショコラがあるの。一緒に食べよ?“人をダメにするケーキ”だってさ」

「え?」

「人を、ダメにする、ケーキ」

随分とぎこちなかったかも知れない。
でも、顔を上げた夫にわたしは久しぶりに笑顔を見せることが出来た。

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