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母親の決心

(あらすじ)
小学校3年生の大源太少年、ある日突然おじいちゃんの会社が倒産してしまう。姿を消してしまったおじいちゃんとおばあちゃん。ちらつく「保証人」の文字。悲しい廃墟となったおばあちゃんの家。大源太くんの一家はどうなってしまうのか?

 さて、前回も書いた通り、父の尽力もあって、倒産騒ぎはなんとか落ち着いた。特に大きく借金が孫の代まで残ったりすることもなく、一家は普通の日常を取り戻しつつあった。

 そして、家を捨てて夜逃げをしたおじいちゃんとおばあちゃんは、その後どうなったか。
 2人は北へ行った。
 そう、奥州。古来より、落ち延びると言ったら陸奥と相場が決まっている。上野駅から電車に乗り(多分)、情感たっぷりに向かった先は、岩手県だった。
 岩手に知り合い筋を頼っていき、なんとか仕事と落ち着く先を見つけることができたのだ。

 そのおじいちゃんの岩手の家に、小学校4年生の夏休みの時に、遊びに行くことになった。しかも夏休みの間のほとんど、約一ヶ月という長期間である。
 なぜそうなったかというと、母親が中国の天山山脈遠征登山隊に参加することになり、その期間家を空けることになったからである。

 え?
 と思うと思う。無理もない。普通の家でお母さんが海外登山隊に参加するということなんてないと思う。
 しかも、いきさつを聞いていたらお分かりの通り、何もこんな家がゴタゴタしている時に行かなくても、と思うのではないだろうか。

 意味がわからないことだらけだと思うのでちゃんと説明すると、うちの両親は2人とも大学の山岳部の出身で、もともと山には縁の深い一家であった。だいいち「大源太」という名前だって山からとったものである。弟の名前だってそうだ。
 だから、家族旅行だって自然の多いところが多かったし、一度など台風の直撃をまともに喰らいながら家族で立山縦走を成し遂げたこともある。

 そして、両親のいた大学の山岳部が、中国の天山山脈に遠征する話は、おそらく前から決まっていて、その運営のなんらかに両親も関わっていたのだと思う。そして、家庭の主婦だったうちの母も、この機会に参加してみたら、という話も、おそらく前から決まっていたことだったのだろう。
 ところが倒産騒ぎがあり、金銭的にも余裕なさそうだし、これはもう仕方ないと半ば諦めていた。しかし、思いのほか騒ぎを割と早く片付けることができたので、やっぱり今しかないと決断し、当初の予定通り行くことにした、というのが真相に近いと思う。

 もとより、父親も仕事で海外や山関係の遠征をすることが多く、数ヶ月家を空けることも多かったから、感覚的にはそれがお母さんになっただけで、それほど子供的には大変な感じのする話としては受け止めていなかった。

 ただ、自分が親になってみると当たり前にわかることだが、母親はそれでも相当心配だったようだ。
 出発までの間の母の日記を見ると、その天山行きの会合などで夜に家を空けることが徐々に多くなり、その間子供たちだけで初めて食事をとらなければいけない時のことなど、心配で心配でたまらないというようなことを書きながらも、何事もなく子供たちだけで家事をこなしていることに物凄く安心して、「これなら行っても大丈夫だ」という思いを強くしたというようなことが書いてある。食事は作ったりすることもあったが、レストランに子供だけで行くこともあって、レストランの人に驚かれたりするのが当時の大源太にはとても楽しかったようだ、と書いてある。そのことはなんとなく覚えている。食べ終わってレシートを持ってレジに行き、なんだか大人になったような気分でお会計をするのも、ちょっとどきどきしながらも楽しかった。

 自分が自分の楽しみのために家族を置いて1ヶ月程度家を空けるとなると、今の自分でも少し身構えてしまうが、そう考えるとやはりうちの母も大したものである。そして、そんな機会がちゃんとめぐってきて、それを迷いなく掴み取るところもすごいところだ。

 天山山脈行きは、母親にとってとても良い経験になったようだ。
 中国の人たちの素朴な優しさ。ひたむきに頑張る大学生たちの美しい顔。時間の流れ方。山にいだかれる思い。
 以下は日記に記された原文である。

 「山で現役の学生たちの姿を見て、あと10年たつと子供たちがあの位になるのだなと感慨深かった。学生たちが山に登っている時の、あの緊張して引き締まった、とても良い顔を見て、2人もああいう顔をすることがあるかしらと思った。勿論、彼らの親も自分の子供のそういう顔を見ることはないに違いないし、私も見れないかもしれない。でも、いつかああいういい顔をしてもらいたいと思う。」
 「いろいろなことがあった。良い旅だった。十数年ぶりに山での生活をしていくうちに、私が被っていた仮面がどんどんはがれていき、本来の素直な自分を発見した。学生時代、何であんなに山にいきたかったのか説明できなかったことが、やっとわかったような気がした。とっても素直な気持ちになれたこと、その状態がずっと維持できれば良いなと思った」

 母親がはるかタクラマカン砂漠のそばで得難い体験をしている頃、ぼくたち兄弟も日本の東北で何にも変え難い宝石のような日々を送っていた。その話はまた次回。

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