一学期保育参観記録
先日、保育参観に行ってきました。
息子の幼稚園は6月中の一カ月間、希望制で一日に二組まで一時間保育に参加することができます。支援級への判断材料を一つでも増やすため、先日行ってきました。
私の気持ちを包み隠さず言うならば、正直保育参観に対してはいつも後ろ向きです。
なにより他のお友だちと息子を少しでも比較してしまう自分が嫌だし、家以外での彼の姿を、親が必要以上に知る必要がないと思っているからです。親だからといってすべてを知る必要などないし、息子のプライベートに踏み込みたいとも思いません。今後も、そういったスタンスで積極的に足を踏み入れることはしないつもりでいますが、いま幼稚園で過ごす彼の姿は、支援級就学への大事な判断材料です。なので、行ってきました。
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「なんでこの子はみんなと違うんだろう」
こんなやぼな疑問、もうとっくのとうに通り過ぎたと思っていたのですが、やっぱりまたそう感じてしまいました。みんなと同じになれないとだめだと思わされてしまうあのかんじ。音楽の先生によるピアニカの授業になると、途端にそう感じました。それまですごく楽しそうにしていたのにな。音楽の先生は、60代後半であろう女性の先生。きっと街中にいる女性となんら変わらないはずなのに、魔女みたいに見えてしまう。
「うん、ここらへんはよくできてるわ 」と言って指差しながら笑顔で担任に話し、「おとこのこ、がんばろうね」と言いながらも、落ち着いてピアニカの前にさえ座れず私にべったりの息子はまるでいないかのよう。視界にすら入れてもらえない。担任の先生がフォローをしてくれていました。優しさが身に染みる。音楽の先生は、行事に向けたプレッシャーからその厳しさになるのだろうけれど、悲しい。
30分だけの音楽の時間なのに、息子が全然楽しそうじゃない。
比較が自分を苦しめるのだと思いつつも、いざ立たされると顔を出すこの感情。うちの子、笑顔のすてきな優しいいい子なんだけどなぁ。みんなができることができなきゃ、だめな子なんだろうか。
そして、こういった態度に対して都度都度、向き合う価値があるのだろうかという天秤。指摘するべきか、それともこれは些細なことなのか。常にそんな疑問が目の前に現れては消える。もっと俯瞰して見なければ。息子もそうだけれど、私自身も比較の呪縛から抜け出したい。(いや、そもそも、息子は気にしてもいなかったりして)
「去年よりお友だちとの関りも増えた」「言葉も増えた」「トイレだって一人で行って帰って来られるようになった」「お友だちのことを気遣えるようになった」など、できるようになったことを挙げればきりがないほどあるのに、私の帰り際、私にひしと抱きついて離れず、顔をうずめながら静かになくあの子を見て、「いまは自信をつけるときです」そう言っていたこの間の医師の言葉を思い出し、支援級への就学を確信しました。
最近このnoteでよく「支援級支援級」と言ってますが、支援級が難しくても、探せば打つ手ならいくらでもあると私は思っています。ホームスクールもあるし、習い事をしながら家で過ごしたっていいんだし、息子みたいな子がいままでいなかったわけじゃないんだからいくらでも方法はあるのだろうと思います。もし仮に息子に合う道がなかったとすれば、一緒に探せばいいだけの話です。
なにより、あの可愛いあの子の笑顔が大事。心が大事。笑顔でいられる場所を、私は探すだけ。夫と相談しながら。
息子のために、そして自分のために強くなろう。
そう言い聞かせないとやってられません(笑)
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いまAmazonPrimeで『THIS IS US』というドラマを観ているのですが、子育てについてだったり、親としての振る舞いだったり、私自身についてだったり、いろいろ考えさせられます。
また、置かれた立場によって感じ方も行動もすべてが変化するのだと私に教えてくれるドラマでもあります。音楽の先生だって、きっとその立場から見える景色がある。
理解できない感情や行動があれど、それは否定すべきものではないし、いま置かれた自分の立場に集中すればいいのだと思いました。自分がどうありたいかを問われているように感じます。
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