文学に青春を、人生をかけた若者たちが躍動する『日本文壇史』―読書月記54

(敬称略)

『日本文壇史』を再読している。執筆は伊藤整と瀬沼茂樹だが24冊もあり、かなりゆっくりとしたペースで読んでいるので読了までに1年以上かかりそうだ。今、第3巻を読んでおり、明治24~26年辺りで、樋口一葉がデビューしている。

再読といっても、前に読んだのは30年以上も前だ。私が持っているのは単行本で1980年代の後半に古本で購入している。1994年には講談社文芸文庫版が刊行されているが、その時点で単行本を持っており、しかも読了していたので購入しないと決めたことを記憶している。以前に読んだ時も、面白いと思ったものだが、今回再読してもやはり面白いというのが実感だ。
基本的な流れぐらいは記憶していたし、細かい部分は忘れていたものの、読みながら「あ、そうだった」という感じだ。だから、すごく驚くといったことはない。それでもいろいろと興味深い。

当時は寵児となった作家たちのほとんどが、今は忘れられている。山田美妙はその筆頭格だろう。それでも山田美妙の場合は「言文一致」がらみで名前が出ることがあるから、まだよい方かもしれない。尾崎紅葉の場合、『金色夜叉』の名を知っていても、読んだことのある人は、ほとんどいないだろう。また、第3巻から登場する小栗風葉も「今は忘れられた」代表格の一人だ。中村光夫の『風俗小説論』で取り上げられているから知っているという人がほとんどだろう。『風俗小説論』が発表されたのは1950年で、その時点で小栗風葉の『青春』は読まれなくなっていたのだから、2024年の現在、名前すら知る人も少ないのは当然といえる。
山田や尾崎、小栗が当時大衆的な人気を博したとしても、同時代の作家や評論家から作品が評価されていなかったのなら、今になって忘れられ、顧みられることがないことも納得できる。しかし、そんなことはなかった。新聞小説で大衆の支持を得ていた作家に比べれば、きちんとした「文学」として評価されていたのだ。にもかかわらず、彼らの作品は忘れられている。もちろん、作家のなかには死後、いったん評価を落とすものがいないことはないが、すぐれた作家たちは必ず〝蘇っている〟。ところが、明治時代の文学者に限っては、このケースはほとんどない。第3巻の半ば辺り、明治24~26年頃までに、デビューしていた作家で今も読まれているのは、森鴎外に樋口一葉ぐらいだろうか。島崎藤村や泉鏡花も活字にはなっているが、まだ〝駆け出し〟レベルだ。幸田露伴も読む人がいるだろう。二葉亭四迷は、どうだろうか? 作品数が少ない点が弱いかもしれない。あと、斎藤緑雨は警句が今でもしばしば取り上げられるものの、小説となればさっぱりだろう。
江見水蔭、広津柳浪らは、名前すら知る人も少ないだろう。半井桃水の場合は、作品はともかく、樋口一葉の生涯に関する記述の場合、必ず名前が出てくるから知っている人という人も多いだろう。
いかに同時代の作家、作品を正しく評価することが難しいかが改めてよく分かる。

再読して気づいたことは、本書を楽しく読み進めるには、かなりの文学的な知識が前提になっていることだ。例えば、二葉亭四迷は、本文では長谷川辰之助で記述され、ペンネームの話が出るまで「二葉亭四迷」の名は出てこない。尾崎紅葉や山田美妙も本名だが、こちらはまだ苗字がそのままだから、どうにかなるけど。
また、第3巻では星良子とその従妹である佐々城信子が出てくるけど、この二人をこの名で知る人はどれぐらいいるだろうか。佐々木の場合は、国木田独歩の最初の妻であると同時に、有島武郎の『或る女』の早月葉子のモデルだ。星良子の方は、後に相馬黒光という名で知られる(夫となった相馬愛蔵と新宿中村屋を創業している)。『日本文壇史』第3巻は1955年に刊行されているが、当時『或る女』のモデルについてどこまで知られていたのか、相馬黒光の事績がどこまで知られていたのか(臼井吉見が相馬愛蔵と黒光と主人公とした『安曇野』を書くのは1965年以降の話だ)。

忘れられた作家の名前が多数出てくるのは仕方ないのだけど、後に知られる人でも、多くの人に知られていない本名だとかで出てきて、その段階では、説明もなければ注もない。二葉亭四迷を知っていても、長谷川辰之助を知らない人はかなりいると思う。星良子や佐々城信子なんて、知らないのが普通だと思う。
また、単行本にはそれぞれの末尾に索引がついているが、これが五十音順ではなく、アルファベット順(要するにローマ字読み)というのも不可解だし、しかも人名も作品なども一緒に扱われているので、分かりにくく使い難い(文庫版の索引は、五十音順で、しかも人名と作品・事項などと分かれている)。
現代の感覚で言えば、そういった意味で、驚くことが多いのが、単行本版の『日本文壇史』である。
それでも、今はネットでいろいろと簡単に検索できるようになったので、条件はよくなった。

言文一致や近代小説の確立のために、青春を、人生をかけた若者たちの姿は、やはり興味深い。たかが〝文学〟なのかもしれないが、されど〝文学〟であり、一生をかけることだったのである。

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