買った本にまつわる「記憶」と「記録」―読書月記48

(敬称略)

マンガ家の篠有紀子が初期に発表した作品に『冬の日の1ページ』がある。篠の作品のなかでは、私が最も好きなものだ。コミックス『フレッシュグリーンの季節』に収められた作品で、1979年の「LaLa」2月号に掲載されたのが初出だ。
この作品の中には好きな台詞がいくつかあるが、その一つに「いつもと違うことすると いつもは見えないものが見えてくるから」というものがある。ごみなどが落ちていて普段はきれいとは思えない海を早朝に見たときに、その美しさに驚いた主人公に、義理の姉妹である伊勢谷範子が告げた言葉だ。この台詞を思い出したのは、ヤフオクで売れた本を郵便ポストに投函するため、普段よりも少し早く起きて、朝焼けに染まる山並みを見たから。通勤経路とは違う道なのでその山並みもたまにしか見ないし、いつもなら寝ている時間だ。

私はスマホを持っているが、SNSの認証やネットバンキングの認証に使うのがメインで、電話としては使わないため、持ち歩くことはほとんどない。だから、上に書いたような景色を見かけても写真に撮ることはほとんどない。その代わり、できるだけよく見るようにする。また、記憶にとどめるような努力をする。写真に撮った瞬間に安心して、記憶が弱まる気がするのだ。だからといって写真を撮ること、記録に残す意味を否定する気はない。それでも、人生のほとんどは、写真という記録に残せない。それどころか、写真として残せていないシーンこそが、人生の重大事であることが多い。家族や友人とのたわいもない思い出にしても、好きになった人の心惹かれるちょっとした仕草も、写真として残すことはかなり難しい(わざわざ、やってもらうという手はあるが)。また、仲間と一緒に撮ったのに一人だけ目を閉じてしまった写真の方が、あとあと思い出を蘇らせることもある。しかし、今は、写真の修正がかなりできるようになったため、それを修正してしまう可能性さえある。そうなると、記憶は喚起されるのだろうか? 修正した写真で、プルーストのマドレーヌのようなことがあり得るのだろうか。

「記憶」と「記録」の問題は興味深い。最近はあまり聞かなくなったけど、一時期プロ野球で「記憶に残る選手」と「記録に残る選手」という言い方があった。分かりやすく言うと、ワンシーズンだけ素晴らしい成績を上げても、通算記録の話になると出てこない選手がいる。記憶に残っても、ワンシーズンの記録を塗り替えない限り、記録に残る選手にはならない。私の10代の頃に活躍した山口高志が「記憶に残る選手」の典型だろう。山口の通算成績は、数字だけで見るとプロ野球の投手としては凡庸だ。いや、最高のワンシーズンの記録にしても、プロ野球史のなかで必ずしも傑出したものではない。勝ち星、防御率、そのトレードマークであった速球による奪三振率さえ、彼以上の投手はあまたいる。しかし、引退(1982年)してから30年以上経った2014年に『君は山口高志を見たか』という本が出ていることを考えれば、1970年代後半、山口がプロ野球ファンに与えた衝撃の大きさは理解できるだろう。ちなみに山口と同時代にマウンドに立っていて200勝以上した投手は7人(日本のプロ野球では24人)いるが、その全員を言える人がどれぐらいいるだろうか?
「記憶」に限れば、私の中で山口を超える投手はいない。これを他人に伝えることは難しい。記憶というのはそういうことだ。そういった意味で記録は他人に伝えやすい。日本のプロ野球で一番勝利数の多い投手、一番本塁打を打った選手の名前を挙げるのは簡単だし、彼らの偉大さは誰にも理解できる。ほかのスポーツでも、プロ野球ほどではなくても「記録」が物を言う。「最年少」「〇〇連勝」「最年長」などなど。私もその手のことを覚えているし、すべてではないが、記録を尊重している。それでも「記憶」という力は大きい。

私は20年ぐらい前から、エクセルで蔵書の管理をしている。この20年で買った本のほとんどはそのデータを見ると、購入日(手元に届いた日)、価格などの記録が残っている。新刊でも中古でも、Amazonで購入した場合、Amazonでその本を表示すれば、それが表示される。しかし、そういった本をヤフオクで売りながら、買った時点の具体的な記憶がない本がほとんどだ。2か月前にアナトール・フランスの『現代史』について購入時のことを書いたが、ああいった「記憶」は減っている。理由は簡単で、インターネットで簡単に本が買えるようになったからだ。これは新刊書も古書も同じだ。
今でも古書店の棚の下の方に隠れるように置いってあった本や仕事の出張先で、ちょっとした待ち時間を利用して行った古書店で見つけた本のことを覚えている。新刊書でさえも買い切り制のため出版社で品切れになっている本を、地方の大型書店の棚で見つけたことを、その書店を一緒に訪れた友人、さらにその時、彼が発した言葉とともに記憶している。これも以前に書いたが潮出版社版の『風雲児たち』は新刊が出るたびにコミック高岡で買うしかなかったことを鮮明に覚えている。そして、面白いのは、それは中身と関わらないということだ。読んでない本でも「記憶」に残っている本もあれば、読んでいるのに中身以外のことを忘れてしまう本もある。もちろん、記憶に残っているから「愛着」が湧いて手放せない、ということはないが、それでもそういった「記憶」は大切だと思っている。

蔵書整理を始めたこともあって、以前に比べ購入する本の量を減らしている。ただ、減らしたとしても地方に住んでいるため、新刊も古書もネットで購入するしかない。そのなかで、どれだけ「記憶」を残していけるのだろうか。せっかく購入する量が減っているので「記憶」する努力をしてみようと思っている。

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