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【読書記録】ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利 / 塩野七生

塩野七生先生の「ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利」を読み終えたので記録を残します。

要約

シリーズ14作目となる本著では、4世紀のローマ帝国を描きます。

前作ではコンスタンティヌス帝によるキリスト教の振興が描かれました。
キリスト教はローマ古来の宗教や政治と相容れないこともあり、長年多くの為政者から忌避されていましたが、ようやく日の目を見ることになります。

4世紀はキリスト教がメインストリームに躍り出て、力を拡大する時代となります。

コンスタンティヌス大帝の死後

キリスト教の振興を図り、絶対的な権力を持った大帝は病により亡くなりました。
彼の死後、帝国は息子3人と甥2人の計5人により分担して統治されるはずでした。そのために大帝は生前から準備を整えていたのです。
しかし結果はそうなりませんでした。

甥であるダルマティウスとハンニバリアヌスと彼らの肉親、そして彼らに属していた高官グループが何者かにより粛清されてしまったのです。
コンスタンティヌスの血縁者としてガルスとユリアヌスという二人もいましたが、幼少ゆえか殺害されずに済みました。
首謀者は結局分かっていないのですが、大帝の次男であるコンスタンティウスが怪しいと言われています。
コンスタンティウスは生き残ったガルスとユリアヌスをエウセビウスという司教に預けます。
潜在的なライバルであった二人を監視するためと考えられます。

このようにして、結局帝国は大帝の息子3人によって分割統治されることになります。

コンスタンティウス帝

大帝の息子3人による分割統治も、結局は長続きしませんでした。
長男のコンスタンティヌス2世は三男のコンスタンスの統括地を奪おうとし、返り討ちに合います。(その場で死去)
三男のコンスタンスは部下の謀反により殺害されます。
結局帝国は次男のコンスタンティウス一人により統治されるようになります。

ユリアヌス帝

コンスタンティウス帝の治世では内戦と粛清により、兵士が激減していました。それにより蛮族の流入を抑えきれなくなっていました。
特にガリアの地は蛮族に荒らされ放題でした。
この地をどうにかしろということで副帝に任命されたのがユリアヌスでした。
彼はコンスタンティヌス大帝の葬儀後、兄のガルスと共に生き残ったものの長年幽閉されていました。

ユリアヌスは副帝に任命されたものの、明らかに冷遇されていました。
しかし軍事の才能を発揮し、ガリアに平和をもたらすことに成功します。
内政にも力を入れ、地域の復興にも貢献します。

そしてコンスタンティウスの死により、正帝となります。
正帝となった彼は、数々の政策を実施します。

  • 皇宮内で無意味に膨れ上がった人員の削減

  • キリスト教への優遇撤廃

  • 小麦の買い占め禁止

これらの対応はどれも正当な理由のもとで行われました。
しかしいずれも既得権益者に嫌われるもので、特にキリスト教徒には毅然と対応したこともあり「背教者」として歴史に名を残すことになります。
(そもそもユリアヌスはキリスト教を信仰していなかったので「背教者」は的外れという指摘があります)

テオドシウス帝

ユリアヌス帝の死後、ヨヴィアヌス → ヴァレンティニアヌス → グラティアヌスと帝位が受け渡されていきますが、その間にもキリスト教は力を付けていきます。
そしてテオドシウス帝の代で、とうとうキリスト教がローマの国教になります。
彼は元来キリスト教徒というわけではなかったのですが、病で弱っていた際に洗礼を受けたことでキリスト教徒となります。


テオドシウス帝はローマ古来の宗教の排斥を元老院に決議させます。
そしてユピテル神を中心としたローマ古来の宗教は邪教と扱われるようになりました。
古来の宗教に由来することはあらゆるものが禁止となったため、以下のようなことが実施されました。

  • 神殿が教会に変えられる

  • それまでに制作された彫像の数々が破壊される

  • 図書館が閉鎖される → 多くの書物が散逸

  • 古代オリンピックが終了

司教 アンブロシウス

テオドシウス帝はキリスト教を力の限り信仰しましたが、その裏ではアンブロシウスの活躍がありました。
彼はエリートの生まれで元々はミラノの行政長官でした。
元々キリスト教徒だったわけではないのですが、アリウス派と激しく争っていたアタナシウス派に担がれて洗礼を受けます。

彼はグラティアヌス帝とテオドシウス帝に取り入り、異教と異端の排斥に心血を注ぎます。
そしてある意味では皇帝以上の権力を手に入れます。

あるとき、民衆の暴動に対してテオドシウス帝は軍を派遣して鎮圧します。
それに対してアンブロシウスはやりすぎだと叱責し、贖罪の意識を示すよう迫ります。さもなくば教会に入ることを禁ずると。
皇帝は質素な身なりで教会の前に立ち、許しを乞います。
それでようやく許されて教会に入ることを認められたのでした。
衆人環視のもと、皇帝よりキリスト司教の方が強いという構図が示されたのです。

キリスト教は異教に対しても皇帝に対しても勝利したのでした。

感想

コンスタンティヌス大帝はキリスト教を利用して皇帝位の安定化を図りました。彼自身は死の直前までは非キリスト教徒でした。
それがいつしか、キリスト教徒が皇帝となり遂には国教になります。
これにより古来の宗教とともに哲学が放棄されます。
ルネサンス期に見直されるまでの1000年に渡り、西洋からは革新的な哲学や科学的知見がほとんど生まれていません。
帝国の安定化を図るための方策が、人類の叡智を停滞させることにつながるとはコンスタンティヌス帝も思わなかったでしょう。
こういった繋がりを知ることが、歴史を学ぶ楽しみだったりします。

「ローマ人の物語」シリーズも次巻で最後となります。
楽しみにしております。

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