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学ぶよりも大切な姿勢

昨日、友達と遊んで、小学生時代の話をした。
いろんな人の家にゲームをしに遊びに行ったり、公園でサッカーしたり、駄菓子屋でお菓子買ったり置いてあるアーケードゲームやメダルゲームをやったり、もっとあるけど、とにかく遊ぶものが多かったよね、と話していた。
今も多いとは思うけど、ぼくが小学生の時は、まずゲームの種類が多かった。
64、ゲームキューブ、プレステ、プレステ2。
ドリームキャストが置いてある家はレアだった。
携帯ゲームはゲームボーイアドバンス、小学5年生ぐらいの時に確かDSが出たんだっけな。
ワンダースワン持ってる人はレアだった。
そういえばベイブレードもすごく流行ったな。
バトルドームは確か2人ぐらい持ってた。
その内1人はドラえもんバージョンのやつだった。


そんな話とは別に、ぼくも友達も1歳ぐらいの子供がいて、自分の時間少ないけど、もし1人で過ごす時間ができたらどう過ごすか話したら、親友は資格勉強と言っていた。
マジかよ。
ぼくも何らかの勉強をしたいとは思っていたのだが、明確な目的が欲しかった。
それは資格を取るという目的ではなくて、もっと生活が楽しくなるような勉強がしたいと思うのだが、漠然としすぎて、どのような勉強をすべきか思いつかなかった。


「今何を学ぶべきか」というのをテーマに、友達と遊ぶ前から書いていたのだが、なかなかまとまらなくて、全てを捨ててゼロからまた書いている。
全てを捨てた記事を書いている時に思ったのは、そもそも「学ぼう」と最初に思う姿勢そのものが間違っていると感じた。
学ぼうよりも前にあるのは「知りたい」という気持ちである。
お腹いっぱいの状態でケーキのショーケースを眺めたところで、どれにするかは決まらない。
「腹減った」があって何を食べるか考える。
「知りたい」があって何を学ぶか考える。

じゃあ「何が知りたいか」を考えようと思ったのだが、
これは機会を待つしかないかもしれない。
「楽しい!もっと知りたい!」と感じる機会だ。
ただ何事もじっとしているのは良くない。
色んなものを見ることが大切だ。
漫画でも映画でもいい。
この「知りたい」を探すことも学びと呼ぶのかもしれない。

あと大事なのは遊ぶことだ。
歴史の偉人よりも、ポケモンを151匹覚えるのが楽だったのは、当時はポケモンのゲームで遊ぶのが楽しかったからだ。
遊びに感じるものは「知りたい」という気持ちが自然に生まれる。
いや、わざわざ「知りたい」と思うよりも前に行動している。
遊びが充実していれば、それだけ学びも増えるということだ。

小学生の時はたくさん遊んだ。
だからたくさん学びがあった。
大人になってから遊ぶことそのものが億劫になりがちだ。
自分の時間が少ないから、無駄になりそうなことはとことんやらなくなったのだ。
無駄なことをやらないのはいいことけど、遊ぶ意識は忘れないようにしよう。

友達とは池袋集合だった。電車から降りて配管を眺めながら駅の構内を歩くのは楽しかった。今思えばこれは遊びだったのかもしれない。

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