「今夜あのバーで」

 可愛い女の子だった。顔は覚えていない。
 もう一週間も前のことになるが、彼女とはあるバーで知り合った。いや、知り合った、は正確ではない気がする。出会った、も違う。遭遇した、ぐらいだろうか。路面店で、店の外から店内の様子がすべて見えるような小さなバーだった。入ってみると二階席もあるようだったが、店員が1人しかいないため、一階しか開放していない様子だった。一階はコの字型のバーカウンターしかなく、満席に近かった。最初は入るつもりはなく、顔をのぞかせてみると、店員と目が合い、さっと唯一空いている席を示された。接待帰りで、いつも入るバーがその夜に限って開いてなく、当てもなくふらふらと歩いていた上に、ここが重要なのだが、かなり酔っていた僕は、あまり考えもせずにその店員に従ってバーに入り、席に座った。その隣に、店の一番奥になる席に、座っていたのが彼女だった。
 ずっと焼酎しか飲んでいなかったので、とにかくビールが欲しかった。とりあえず、ビールを頼み、一口飲もうとしたときに、ふっと何故か隣の彼女と目が合い、乾杯した。
 このときには既に彼女の顔を見たことになる。でも、一週間経った自分には、彼女の顔の印象の端も持ち合わせていないのだ。
 そのあとのことはあまり記憶にない。ただ急に、おそらく終電の時間だったからか、満席状態だったカウンターから人がいなくなり始めた。僕が入ってから30分ぐらいで、お店は僕と彼女だけになった。
 他のお客さんがいなくなる前も、つまり乾杯したあとから、お店に2人だけになるまでも、僕らはずっと話していた。
 でも、僕にはどのような会話したのか覚えていない。どのような話をして、どのようなリアクションを返したのか、どのようなリアクションが返ってきたのか、彼女がどのような話をしてくれたのか、僕には茫洋として思い出せない。ぬかるみに手を入れているように、何も掴めない。
 思い出せるのは、たくさん笑ったこと、彼女も笑っていたこと。間違いなく、自分が楽しかったこと。
 少なくとも、自分の何かを理解してもらえた気になったこと、彼女の何かを理解した気になったこと。
 彼女のことを可愛いと思ったこと。
 おそらく、深夜の、テンションで、僕らは調子よく会話を重ね、お酒を飲んだ。
 翌日も仕事だったので、中途半端な時間に店を出たはずだ。小腹が空いたらしい彼女に、どこか食べることができる居酒屋に入らないか誘われたのを、覚えている。なぜ覚えているかというと、とても後ろ髪を引かれる思いをしたからだ。店を出て、少し一緒に歩いて、僕はタクシーを止めた。1人でタクシーに乗り込む僕に向かい、初めてそこで彼女は名乗った、のを覚えている。でも、その名前は、もう思い出せない。その瞬間は、きっと僕に刻まれたはずなのに。それに対して、自分がどんなリアクションをしたか覚えていないが、名乗り返さなかったことだけは間違いない。だって、帰りのタクシーのなかで、それを悔やんだから。自分が名乗らなかったことを悔やんだから。その後悔が滲んだせいで、その後悔に気に取られたせいで、名乗ってもらった彼女の名前を忘れてしまった。
「私は〇〇、よくあのお店で飲んでるから、またね」
 彼女はなんて名前だっただろう。
 思い出せない。
 でも可愛い女の子だった。

 あれから一週間経つが、ふと思い出してしまう。出勤途中の電車の中で何気なくつり革広告を見たとき、スマホで何かをしようと思ったときの作業の合間、昼飯に入ったお店で食事が出てくるのを待っている間、打合わせが停滞して誰かが考えをまとめている間、帰宅途中の飲みに行くか迷う瞬間、そんな隙間に彼女のことを思い出す。顔は出てこない。ただ、可愛かったという記憶と楽しかったという記憶と、自分のことをわかってくれたかもしれないという感覚。それだけが自分の中でわずかに漂う。その瞬間はあまりにも濃く、あまりにも強い。ぼんやりと深く深く自分の中に潜ってしまうほどに。

 週末の夜、僕は再び、そのバーに行ってみた。またもやほぼ満席だった。のぞくとすぐに店員に見つかり、空いている席を示された。見ると、その席の隣には、外国人のカップルが座っており、店内にも彼女の姿はなかった。僕はおとなしく案内されたまま座り、ビールを注文した。
「二回目ですね」
 誰とも乾杯せずにビールを一口飲んだとき、店員がさらっと声をかけてくる。
「え? あ、覚えてくれます?」
 店員がクスッと笑い、「印象的だったから」と言った。
「印象的?」
「うん。だって、なんというか、うん、あれ、覚えていない?」
 なんだろうか。とても不安になって僕が黙っていると、店員はそれを肯定と受け止めたようだ。
「結構酔っていたんで」
 言い訳がましく僕が言うと店員は声をあげて笑った。「いや、そんなん、見ればわかりましたよ」
「そうですか。え、自分、何かまずいことしました?」
 彼女に何かしただろうか。それだけが気になる。このバーカウンターに再び座り、記憶が呼び醒まされるかというと、そうではない。僕はひたすら自分の頭に訪ねる。何をした? 何を話した? 失礼なことをしたか? 自分勝手なことをしたか? ノックし続けても返事はない。
「隣にいた女の子と話したのは覚えています?」
「ええ、はい、なんとなく」
 なんとなくではなく、その部分ははっきりと覚えている。
「何を話したか、覚えてます?」
「あー、いや、それは、あんまり」
 本当のところだ。覚えていない。何を話したんだろう。
「なんかすっごい話が盛り上がっていて、好きな小説の話をしていたんですよ、あなたたち。でね、一番好きな小説はなに、みたいな話をしていて……」
「うん」
 まともそうな話だった。
「いや、まあ、そこまではよかったんだけど、そのあとね」
「うん」
「あなた、自分の好きな小説の内容、ほぼ一部始終話したっぽい感じで、なんというか、ネタバレ感がひどくて、途中からずっと、私、そのときいた子と目を合わせながら、うわうわ思っていたんですよね」
「え?」
 最悪だ。
「いや、めっちゃ好きなのは伝わってきたけど、そこまで言う?みたいな」
 本当最悪だ。
 僕は黙ってビールを一気に飲み干した。
「もう一杯ください」
 とにかくお酒を飲みたかった。ぐちゃっとなった心の中をお酒で満たしたかった。
 きっと彼女は僕に対してマイナスなイメージを持ったに違いない。
 彼女が可愛いと思ったから調子に乗ったのか、調子に乗れてしまったから、彼女が可愛いと思ったのか。どうなのだろう。自分の心も掴めなくなってしまった。
「あの子、よくうちに来るんだけど、あなたと会ったあとに来たとき、あなたのことを話していましたよ」
「え?」
「ネタバレすごかったけど、読んでないのに、読んだ気分になれたし、自分で読んだら感じられなかっただろうことを、なんか感じた気分になれたって。実際、話していた小説、買ったみたいだけど。この前は、読み終えてなかったけど、少し読んだら面白いって言ってましたよ」
「そうですか」
 店員に差し出された新しいビールを受け取り、僕は苦笑いをした。
「だから、そんなに落ち込まなくても」
 そんな慰めの言葉でビールの苦さは消えなかった。

 それから僕は週に一回程度はそのバーに行くようになった。何度行っても彼女には会えない。店員と仲良くなり、顔なじみになり話すような常連も出てきた。店員も、もう僕が初めてここに来たときに彼女と会ったことも忘れてしまっただろう。そして僕がここに足を運ぶ理由も店員にはわからなかっただろう。実のところ、僕にもわからなくなってきていた。僕にとってこの店が居心地が良いのは間違いなかった。
 そんな風に顔を出すようになって一ヵ月が過ぎ、二ヵ月が過ぎていった。一向に彼女には会えず、もしかしてあの夜は幻だったのではないかと思い始めた。
 いやそんなはずはない。
 酔っていたけど、自分の中に、はっきりと刻まれたものがある。
 日々は過ぎていき、日常のタスクをこなす。僕の時間は積み重なっていくが、漫然としたものだ。もちろんそれでどこかにたどり着けるわけはない。ビールを飲む。誰かと、ほんの束の間、少しの間だけ笑う。それで十分だと思う瞬間がある。それだけでは足りないと思う瞬間がある。ループしては、自分のなかに澱む。
 ぼんやりと生きていた。

 いつものように、本当にいつものようにバーに行った。珍しく空いていたと思ったら平日も平日の水曜日の夜だった。仕事が終わり、どうしても少し飲みたくなった。何があったわけではないが、複数の仕事が同時に切羽詰まって、業務量が膨れ上がり、作業をしていたら、会社を出たのがかなり遅くなった。食欲もなく、疲れ切った心を持て余し、ふらっとバーに来ていた。いつもの店員が迎え入れてくれる。客は一組のカップルがいるだけだったので、どこに座ってもよいような感じだった。なんとなく初めて来た時に座った席に座る。
「平日のど真ん中に珍しいじゃない? ビール?」
「飲まなきゃやってられないよ。うん、ビール。お願いします」
 注いでもらったビールをゆっくりと一口飲む。その喉越しで疲れが多少消えていくのを感じる。錯覚かもしれないけど。
 そのとき新しい客が入ってきた。1人客のようで、店員の迎え入れる声を聞く前に、すっと僕の隣に、つまり店の一番奥に座った。座ったのは女性客で、顔を見ると、「あ」と言ってしまった。
「あ、久しぶりですね」
「え? 知り合い? 会ったことあったっけ? 2人」
 店員が驚いて聞いてくる。そして彼女に何も聞かずに、ハイボールを作って彼女に手渡した。
「だいぶ前だけど、一度会ったことありますよね?」
「ええ、はい」
 僕はただ声を返すしかできない。
「あれ、そうなの? 週末にしか来ないお客さんと平日にしか来ないお客ってあんまり接点ないんだけどなあ」
「あ、週末メインな方なんですね」
 そう言って彼女は自分のハイボールを僕に向かって持ち上げたので、僕はビールグラスを黙って、それに合わせた。コツンという音が短く響く。
「ずっと会いたいと思っていました。薦めてくれた小説読みましたよ。面白かった。それで、ずっとあなたに薦めたい小説があって。あ、そういや、お名前聞いてなかったですよね? 聞いてもいいですか?」
 印象だけではなく、彼女は可愛かった

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