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ピピロッティ・リスト展と久保田成子展 その① ピピ編

今年の初夏の関西で開催された2つの現代美術作家の回顧展に関して簡単なレビューをしていきたい。前者は京都国立近代美術館、後者は国立国際美術館と、どちらも国立館での開催であった。この文章を書くに先んじて、大学院のゼミ授業に参加させてもらっており、そこで得れた知見もせっかくなので反映していこうというつもりだ。

両者の共通点として、女性作家であること(そして、それぞれが女性性をテーマの一つに制作を行っている事例があること)、ヴィデオアートの文脈で語られること、大きくこの2点が挙げられるだろう。ちなみに、追々言及するかもしれないが、両展示の担当学芸員も女性である。

一方、対照的な相違点を考えてみれば、現役作家/物故作家だろうが、挙げるとキリがないのでやめておく。

ピピロッティ・リスト YOUR EYE IS MY ISLAND(あなたの眼はわたしの島)

美術館の外、ファサードの部分を見上げると、吊るされた大量のLEDライトに女性用下着を被せた≪HIP LIGHTS(またはおしりの悟り)≫が来場者を出迎える。京都東山の土地でようこんなことできたな、なんて思いつつ、館内に足を進めてみると、若い男女でごった返している。ぶっちゃけると、私が見たことのあるブロックバスター展*を除く京近美のキュレーション展のなかでは、まず間違いなく一番人が入っていたと思う。チームラボかよ!と思わず突っ込みたくなる客層。日曜に行ってしまったせいか、10~30代が8割でなんならカップルがデートコースに組み込んでいる。京セラだけじゃなくで、京近美もデートスポット化してきたのか!とかもツッコみたい。緊急事態宣言中っていう皮肉なんだけど。(ちなみに、現在開催されている現代工芸の展示は普段通りって言っちゃ怒られそうだけど、普通に静かで人が少ない感じだ。)

(*〇〇美術館展やゴッホ展みたいな自館が企画元ではない展示)

先にヴィデオアートという言葉を出したが、より正確にはヴィデオインスタレーションと言った方が実態に近づけるだろう。展示室に入る前に、鑑賞者はみな靴を脱がされるわけだが、この展示では床に座ったり、ベッドで寝そべったり、映像作品が投影されている家具に腰掛けながら作品鑑賞をさせられる。とてもざっくりで、会場構成的な前後している部分はたくさんあるが、会場の奥に進むにつれて制作年も後になってゆく。ピピロッティの映像作品の形式が、矩形のシングルチャンネルから、コーナーに設置されるダブルチャンネル、そして、雲のような形をした映像、さらにはオブジェクトにプロジェクターで直接映像が投影されるインスタレーション、といったような変遷を見せる。ピピロッティ自身がインタビューでも語っていたように、そこには四角い画面の映像を正面に立って、一対一的に対峙して鑑賞するという従来の、視線を画面が垂直を維持し続けるような、映画館的鑑賞に近い映像と身体との関係性からどんどん鑑賞者を解放していく。実際に会場で一番最初の映像作品(普通に画面が垂直に壁に存在するヴィデオ)は「映像を見た」という感覚で見ていたが、最後のインスタレーションでは、家具やオブジェ作品・展示空間そのものに映像が投影されており、映像の縁が捉えられなくなって、ついにはそれが消失してしまったかのように錯覚させられる。そして、作品と作品の区別もどんどん曖昧になる。もはや、投影された映像はBGMみたいな存在と思えるほどに後退していくだろう。(実際にすべての映像を見切りましたなんていう鑑賞者はほぼいないだろう。)そうなったとき、既に私たちの感覚は、映像を見る身体としての私ではなく、映像に入り込んでいる身体としての私という認識に変化しているのだろう。

例のゼミで多くの学生(キュレーションの授業だけど、美術系じゃなくてデザイン系)が口々に没入感という言葉を発していたのは、ここまで長々述べてきた感覚を一言でまとめたものだろう。ピピロッティの映像作品がヴィデオアートから、ヴィデオインスタレーションと呼ばれ方が変わりそうな時代的境目はだいたい2000年代初頭あたりだろう。(たしか)2005年に出版されたクレア・ビショップの『Installation Art』という著作の冒頭も冒頭で彼女はインスタレーションアートの重要な3要素として、theatrical,immersive,experimantalと述べている。いやはや、まさにピピロッティ展を見た感想そのもののようだ。ピピロッティも実験してみたかったって言ってたし。

展示会タイトル、あなたの眼はわたしの島。

眼や女性の身体のイメージが多用されるほか、皮膚や水面といった境界を隔てる膜を連想させる光景が連続する。展示会を通して身体の内部にいるかのような感覚が特徴的だし、なにより赤やピンクをはじめとしたヴィヴィッドな色遣いや滑らかな襞のような曲線(ときとして画像の輪郭として現れている)は内臓を想起させるだろう。カーペットの床を靴下で歩む柔らかさも、視覚ではなく触覚的な面でもここはピピロッティの身体なのかもしれないし、あるいは巨大化したピピロッティが美術館の天井を取り外してこちら側を覗き込んできそうなものだ。他者に見られることによってはじめて認識できる主体性という問題もあるだろうし、見る/見られるという美術史上の女性の身体問題もある。しかし、この展示会のサイケデリックさによって刺す刺される視線は柔らかなものになっていて、通常の美術館では得られない視覚的のみを頼らない心地よさに、文字通り包み込まれるというわけだ。

オンラインキュレーション

ピピロッティは来日することなく今回の展示をオンラインでキュレーションした。Zoomを使い、会場と海外在住のピピロッティ本人を常に画面で繋げながら作業が行われた。通常の絵画や彫刻といったオブジェクトベースの展覧会とは異なり、複雑なインスタレーションの展示であるから、その労力量は容易に想像がつかない。担当学芸員は同館の主任学芸員の牧口千夏氏である。正直なところ、私のこの展示に対する一番の感想は、学芸員すげえな、というものかもしれない。学芸員の露出度合いに関しては様々な意見と議論があることが承知だが、キュレーションの創造性の観点からも、国内の美術館全般に言える話だがもう少し学芸員の名前が表に出てきたほうが良いのではないか、と考えている。現状だと、ギャラリートークと図録くらいにしかその名が出されることがなく、これでは大半の鑑賞者の目には入らない。もちろん、有名になるほどそれがよい、という短絡的な話ではないが。

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今回のピピロッティ展で、他の展覧会との差異を感じたのは、作品リストの冒頭に示されているこの部分。【主催】~【助成】の項目はどの展示にだってまず記載されている。だが、企画協力から、映像コーディネート、さらに輸送・ヤマト運輸まで載せているのはなかなか珍しいのではないか。美術館、さらにはそこで行われている展示は、作家と作品だけで成立するわけでなく、もっと多くの人々の芸術への営為の結集なわけだから、裏方=見えない存在として隠しきってしまう多くの現状がベストとは思えない。もちろん、公共性の問題もあるだろうが、私の個人の意見としては今回の記載には賞賛の意を唱えたい。だとしたら、だとしたらだ、担当学芸員の名前もここに並んでいて欲しかった。ピピロッティは今回の展示にあたり、≪チナツのための壁作品≫(2021)を制作し出展している。そう、担当学芸員の牧口氏へ向けられた(for Chinatsu)ものだ。特に、現存作家の展示では、学芸員は作家とほぼ必ず接触している重要人物たりえるのではないだろうか・・・



長くなりそうなので、2展示の記事を分けることにしました。久保田成子展では、担当学芸員の方から直接お話を伺えたり、質疑応答もしていただけたので、展示会と学芸員というキュレーションの問題についても含めて書けたらな、と思っています。


ヘッドの画像は、京都国立近代美術館HPより引用。https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2021/441.html



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