No4 身分のある街

身分関係のある国に仕事で滞在したことがある。上流の方々はさぞやラクチンな人生を歩んでいるのかと思えばなかなかそうではなさそうなことを知った。上流の人たちは将来国の舵取をしなければならない。これは決定事項。それはつまり幼稚園に入る前の年齢から人を動かすことが求められるし、人を動かす根拠として数百年先の国家社会のことを考慮していることが求められるということだ。自分の欲しいおもちゃがどうとか、砂場で遊びたいという自分の欲求を表に出すならば「わがままをいうんじゃない!」と怒られる。3歳の子供の話だ。これは大変な身分だ。

さて、身分というのは双方向のものだ。先ほどの国では下々は100年先はあっちが考えるから、数年はこっちで考えよう、という分業が自然にできている。それは社会常識とでもいえるものとして浸透している。本人たちは気が付いていないが、外国人である自分には実によくできている社会制度であることがわかる。ところが日本には双方向でない身分制度がある地があるのだ。

ある地域では、特定の集合住宅に住むことがステイタスになっている。ところが、そこはバブルの時に忘れ去られた山間の地。それでもステイタスを維持しようと躍起になっている人がいる。いや、正確にはステイタスがあると思い込んで住み続けている人たちがいるのだ。

仮にその集合住宅をラグジュアリープレイスとでも名付けておこう。例えば家具を買って配送してもらおうと思っている。購入して配送手続きをするともちろんどちらにお住まいですか?などと聞かれる。そうすると、この集合住宅の人はこう答えるのだ。

「ほら、”あの”ラグジュアリープレイスに住んでいるんだよ」

で、住所は言わない。ここでいう”あの”は指さしてあちらの方ではなく強調や特定の意味で使われている。そんなことは言わなくてもわかるだろうと言うのだ。しかも必ず「あの」を付ける。あの話題の、あのみんなが知っている、あのみんなの憧れのラグジュアリープレイスだよ。といわんばかりだ。

さて、このラグジュアリープレイスが羨望の時期だったことがあるのは事実だけれどそれでもその羨望は地域の小さな範囲だったことがうかがえる。お年寄りも知っている人は少ない(というか私は合ったことがない。)

「”あの”ラグジュアリープレイスだよ」はたいてい流される。

言ったほうは
「へぇーすごいですねえ、どのくらいお住まいですか?高いのでしょう?」みたいな会話を期待しているのだけれど、

言われたほうは
「さっさと住所を言えや!」となる。

そして流されたほうは
「あの店員さんものを知らないあほだね。ラグジュアリープレイスを知らないなんて。これだから田舎は嫌だね」などと貶しながら帰るのだ。だいたいの人がラグジュアリープレイスを知らないから、この流れは鉄板となるのだ。

本人たちはラグジュアリープレイスに住むことによって「あほな田舎者」よりも上の階層にいると言いたいのだろうけれど、階層というのはそれぞれが上だ下だと認識することによって成立するのであって、勝手に上だと思っている場合は裸の王様ということを理解しなければならないのではなかろうか。