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LGBTにおける歴史戦

読者の皆さんは、歴史改竄というと極右におけるでっち上げを想像するかもしれない。だが近年、リベラル勢力による歴史の書き換えが目立つようになっている。そしてそれは、わが国のLGBT史においても着々と進行しているのだ。ゲイである筆者から見たいくつかの事例を報告したい。


先日、若者に人気の男女混合パフォーマンスグループAAA(トリプル・エー)の與真司郎氏がゲイだとカミングアウトし、大きな反響が巻き起こった。ニューヨーク・タイムズがインタビュー記事を掲載するなど、「保守的な社会である日本で勇気ある行為」と海外でも絶賛された。だが、あるファンが書いた告発記事を読んで、LGBT当事者の多くは一気に熱が冷めたのだった。

そこには、AAAがグループとしての活動を休止して以降、與氏は洋服屋さんになったこと。意識高い系大学生のような発言が目立つようになり、たまに開催するイベントも自己啓発セミナーのようになっていったこと。SNSでもお金の話やいかに自分がアメリカで成功しているかという話ばかりになっていったことが綴られている。

「僕はゲイです」と涙ながらに告白したファンミーティングの会場では、本人が招いたとしか思えないマスコミが、待ってましたとばかりにファンの表情をカメラで撮り、その人は《「今、カミングアウト劇場を盛り上げる装置に利用されてるんだな」と思って気持ちがスッとしらけた》という。

人気に陰りが見えたタレントが再帰を果たすために、左派メディアが喜びそうな発言を始めることはよくある。今回のカミングアウトも、そうした部類だと感じた人が多かったようだ。新曲の収益の一部が、有名なLGBT団体「NPO法人プライドハウス東京」や「認定NPO法人ReBit」に寄付されると発表されたことで、一連の出来事はLGBT活動家と組んだ企画であったことが誰の目にも明らかになった。

だが、筆者たちゲイが許せなかったのはそこではない。「日本のLGBT史の修正」が行われたことである。

たとえばニューヨーク・タイムズは《活動家たちに話を聞いたところ、與ほどのステータスのある日本のポップスターがゲイであることを公表した事例は記憶にないという》など、明らかな嘘を確信犯的に報道する。マツコ・デラックス氏やミッツ・マングローブ氏はゲイの女装家だが、彼らをテレビで見ない日はないし、ノンバイナリーをカミングアウトした宇多田ヒカル氏をはじめバイセクシュアルのカズレーサー氏など、過去にも大勢のLGBTが活躍していることは周知の事実だ。わが国には欧米のような禁忌はないからである。

新宿二丁目でゲイバーを4軒経営する江口康彦氏(通称えぐりん)は、『GQ JAPAN』のインタビューを読んで怒りが収まらなかったという。

與氏は《20年くらい前ですから、ゲイという言葉も知らなかったし、いまみたいにインターネットで知識を得ることもできない。テレビのバラエティでは、『オカマ』や『ホモ』は笑いの対象でしかなかった。誰にも相談できず、自分はおかしいんじゃないか、自分のような人間は世界にひとりしかいないんじゃないかと思っていました》と述べたが、90年代後半、日本で初めて海外からEDM系DJを招いて1000人規模のゲイナイトを主催していた江口氏は、「あなたがゲイという言葉を知らなかった20年前のゲイナイトには、倖田來未もMISIAも出演してくれました。エイベックスのアーティストが20年前はゲイという言葉を知らなかったとか、どんだけよ」と苦笑する。

当時歌舞伎町にあった日本最大のクラブ『CODE』では、毎月最終金曜日に『TOKYO GAY NIGHT』が行われ、若者に流行していた雑誌『men’s egg』とコラボして人気モデル兼DJが出演するなど、一般のシーンにもゲイナイトは浸透していた。そして毎月奇数月最終日曜日には『NEXT』、毎月偶数月最終日曜日には『FRIENDS』が開催されており、ゲイたちは「出会い系ねるとん」に一喜一憂していたのだった。これは、フロアに好きな子がいたら、その子が胸に貼っている番号をカードに書き、相手が気に入れば返信カードをもらえる仕組みだ。欧米のゲイクラブカルチャーにはない、わが国特有の方式である。「1人で来ても2人で帰れる」というフライヤーの触れ込みは満更嘘ではなく、ガラケーのメアドを交換して後日デートをするカップルが続出していた。非モテの筆者はチャンスに恵まれなかったが。


確かに90年代には、とんねるずの石橋貴明氏によるキャラクター「保毛尾田保毛男」が放送されていて、それにショックを受けたLGBT活動家が2017年になってフジテレビに抗議をしたことはあったものの、そこだけに囚われていては全体としての微熱感を捉え損ねてしまう。日焼けサロン『チョコレートハウス』で肌を焼き、ギャル男の格好でパラパラを踊り、ねるとんでマッチングしなければ夜明けに10代20代で満員電車状態になる『Jスパーク』(その頃大人気だったハッテン場)に行って不特定多数の男とのエッチを楽しむ-−。ゲイが輝いていた時代。それが90年代だったといえる。

90〜00年代にオーガナイザーをやっていたえぐりん


タイのゲイナイトのスポンサーも

江口氏がパイオニアとして始めた巨大ゲイナイトは、男性同性愛者同士の「つながり」を提供し、生活を豊かにした。LGBT活動家による人権運動がゲイを楽にしたのではなく、「巨大ゲイナイト」というシステムの発明が大きかったのである。そして現代においては、ゲイの出会い系アプリがそれを代替している。アプリを開いてスクロールすれば、半径1キロ以内に何百人ものゲイの顔写真を見ることができる。孤独を抱えて部屋の片隅で体育座りをしていた時代とは違うのだ。 

「実際には、90年代にゲイ雑誌『Badi』の登場もあって『ハッピーゲイライフを送る』がキャッチコピーになり、ゲイは楽しいといった一大ムーブが起こったのです」と、江口氏は語る。そして與氏に対して、「悲劇のヒロインを支持するのは、アライ(異性愛者のLGBT支援者)とかイデオロギーのある人ですよ。陰気で不細工な活動家ならば仕方ないですが、ゲイのリーダーになり得る人の根暗発言はゲイからは支持されないです。ゲイをカミングアウトするなら、ハッピーゲイライフを発信しないと」と、一般ゲイの目線から厳しく指摘する。そう、ゲイの本来の英語の意味は「陽気な」だ。

LGBT理解増進法ができて学校での教育も始まろうとしているが、LGBT活動家が吹聴する「LGBTの自虐史観」ばかりを教えれば、親は悲観し、当事者の子どもたちは将来に不安を覚える。「LGBTに生まれてよかった」と思ってもらえるような授業をしてもらいたいと心から願う。そのためにも本当の歴史を掘り起こす必要がある。2022年、東京都が20歳から69歳までのLGBT 1040人を対象に行なった調査によると、生活上の困難を感じたことがない人は約70%だった。これもマスコミの伝えるイメージと随分違う数字ではないだろうか。

読者の皆さんにはこちらのインスタグラムの写真を見てほしい。これは、国内最大級の大学部活検索サイト『部活メディア』のアカウントにアップされているものだ。

大阪府内の体育大学のアメフト部員に、部内恋愛の実態についてインタビューしたところ、「男子同士もあります」「そういう時代」とのこと。アメフトというとスポーツの中では特にマッチョなイメージがあるが、自然体で受け答えする学生たちに気負いはない。

筆者が秋田市の山王十字路で辻立ちをしていた時のエピソードも興味深い。中年男性がわざわざ車を停めて近づいてきて、「娘がレズビアンなのですが、最近の高校生は頭が柔らかいっていうか、クラスメイトがちゃんと受け入れてくれているんですよね。親として嬉しいですよ」と、堰を切ったように話し始めた。その男性はPTAの役職についている人だった。


コラム:巨大ゲイナイト・システムはどのように誕生したのか?

江口康彦氏(通称えぐりん)は筆者と同じ54才。福岡県でクリスチャンのご両親のもとに生まれ、18才の時に上京してきた。美少年だった彼は新宿二丁目のウリ専で働き、大人気となる。22才には日焼けサロンの店長、24才からはゲイナイトのオーガナイザー、27才からはイベントのプロデューサー、33才からはウリ専『GET WAVE』のオーナー、36才からはゲイバーのオーナーとなり、起業家として大成功した。

90年代後半に彼が築いた「巨大ゲイナイト・システム」は、ゲイナイトだけを指すのではなく、一連の人の流れを作り出したことを意味する。それはゲイナイトが始まる前からスタートしている。つまり、ゲイナイトでブイブイ言わすために事前に日焼けサロンに行って真っ黒になっておくことが必要だったのだ。江口氏が店長を務めた新宿3丁目の日焼けサロン『チョコレートハウス』は、ほとんどの客がゲイだったという。そしてゲイナイト当日は、クラブハウスに人が集まってくる22時過ぎまで新宿2丁目のゲイバーでアルコールを飲み、その後ぞろぞろと歩いて歌舞伎町に向かう。仲間と踊り明かし、ねるとんで相手が見つかればホテルに直行。見つからなければ、そのままイベントの終わる朝6時までオールすることになる。外出は自由であり、イベントの途中に抜けて新宿2丁目の店と行ったり来たりする人も多かった。コートは会場のロッカーにしまっているので、筆者たちは冬の寒空の下、「寒い寒い」と言いながらTシャツ1枚で新宿2丁目まで小走りで移動していた。仲間と一緒なら、それさえ楽しかった。江口氏によると、イベントのある日は2丁目の店が人でいっぱいになり大変喜ばれたという。新宿2丁目と歌舞伎町の間を、若いゲイたちが回遊魚のようにぐるぐると往来する循環システム。これが筆者のいう「巨大ゲイナイト・システム」だ。


江口氏は、当時を次のように振り返る。

「クラブは踊らない人は行きづらいかもしれませんが、僕のゲイナイトは踊らなくてもゲイと出会いたいゲイが来やすいようにと、出会いの要素を組み込みました。それが『ねるとん』です。当時、フジテレビで放送された、とんねるずの番組から取り出した言葉で、僕のゲイナイト以降、ゲイの出会い系イベントでねるとんって言葉が一人歩きしだしました。

ねるとんとは、来場者全員に番号を配布して、タイプの子がいたらその子の番号と自分の番号を書いて、アピールした紙をスタッフが代わりにお届けして、最終的にはタイプの子の番号と自分の番号がカップリングしたかを確認できるシステムです。

番号は、シールに数字を一つずつ書いて渡して、それを自分の服の目立つところに貼ってもらいました。

ところがある時、クラブの外に停めてあった怖い人が乗ってそうな車にシールを貼り付けた子がいて、それを目撃した車の所有者が貼り付けた子を追いかけ回す事件が起こりました。その子は無事に逃げ切れたと思いますが、トラブルの原因になると思い、シールから番号札に変えました。

ゼッケンを作ろうとの意見もありましたが、費用的に採算が合わなかったので、カードに番号を書いて安全ピンで留めることになりました。

当初は、タイプの子の番号を書いたアタックカードがスタッフに届くと、マイクで『〇〇番さん、アタックカードが届いてます』とマイクで呼び出しをかけていましたが、DJが流す音の邪魔になるし、そもそもマイクの音声が聞こえない、聞きそびれた、との意見が出て、番号をプロジェクターで映すシステムを作りました。

投票用紙には、第一希望、第二希望、第三希望を書いてもらいました。少しでもカップリング率を高めるためです。

人気のある子は何人からも投票されます。第一希望、第二希望、第三希望のいずれからも投票されていれば、第一希望の子とカップリングを成立させたり、自分は第一希望でも相手が第三希望だった場合、相手が第一希望の子とカップリングしていたらそちらを優先させたり、複雑な構図になっていきました。

手作業では追いつかなくなったため、集計するためのプログラミングを作る必要が出て来ました。

普段働いていた『チョコレートハウス』という日焼けサロンの店舗で、毎夜ミーティングして、アイデアを持ち寄り、プログラムを作ることができる子を見つけだし、日焼けを無料にする代わりに作成をお願いしました。

『チョコレートハウス』はゲイ雑誌『Badi』のオーナーが経営するウリ専『アンデルセン』の店長が独立して始めたものですが、そこに大学を卒業した僕は声をかけていただき店長として就職したのです。

9割がゲイのお客様の日焼けサロンで働いたことにより、プロモーションの一環としてゲイナイトを主催したいと思ったのがイベントの原点です。

そして、イベントが成功したことにより、当時日本最大のクラブであった歌舞伎町の『CODE』にプロデューサーとして招かれて、イベント三昧な日々を送ることになりました。

『CODE』がビルの建て替えで無くなり、今のGODZILLAがいるTOHOシネマビルに変わる時、ウリ専『GET WAVE』を創業しました」。


ゲイのライフスタイルがどのように作られていったか、お分かりいただけただろうか。

さて、90年代といえば、SNSはまだなく、ゲイの間でもテレビ文化が大きな影響力を持っていた。そんなテレビの寵児として引っ張りだこだったのが、タレントのとんねるずである。

LGBT活動家にとって、とんねるずは唾棄すべき存在である。石橋貴明氏が作り出した『保毛尾田保毛男』は、読んで字の如く「ホモ」を揶揄するキャラクターだ。青い髭剃り跡とテカテカ光る額、頬紅を塗ったかのような真っ赤な顔は、誰がどう見ても「ホモ」であるにも関わらず、「ホモというのはあくまで噂であって自分はホモではない」と否定する。それは、必死に世間を欺いて生きている自分たちの姿の映し絵だった。激昂したLGBT活動家は、スペシャル番組で再び保毛尾田保毛男が登場した2017年にフジテレビに抗議を行い、謝罪させている。

だが筆者たちゲイは、そんなとんねるずに救われてもいる。とんねるずの集団お見合い番組『ねるとん紅鯨団』にヒントを得て企画されたのが、ゲイナイトでのねるとんだった。短絡的な「差別と抵抗」といった文脈だけでレズビアンやゲイを語るのは、時代の一側面しか捉えていない。オネエ言葉ひとつとっても、そこには巧妙な「妥協と融合」という戦略が潜んでいる。活動家目線の歴史の記述では掬い切れないものがたくさんあるのだ。

保毛尾田保毛男

再び、江口氏の声に耳を傾けてみよう。


「ねるとんは日本独自のものです。東南アジアにもないです。タイプがいたら直接アプローチすればいいだけなのですが、日本人はシャイな気質で積極的に声をかけられない人が多いので、スタッフが仲立ちするワンクッションおいたやり方がウケたのだと思います。欧米のクラブカルチャーがカッコいいと思う欧米至上主義の人には、番号札を付けたねるとんはカッコ悪いといっていた人もいたが、音に関しては欧米至上主義の人を黙らせるために、有名海外DJをあえてブッキングして初来日を連発させて、世界標準の音を日本で披露しつつ、出会い系ゲイナイトとして日本独自のカップリングパーティーのシステムを構築しました。海外から来日したDJが「えぐりん、あの番号はなんだ?」と聞いてきたので「出会い系システムだ」と説明したら、「オリジナリティがあって素晴らしい。俺にも番号札をくれ」と楽しんでくれました。サブフロアでは、音楽に振付したパラパラや、J-POPを流すなど、日本独自の空間を作りました。

400坪という日本最大の大箱のクラブハウスで、毎月ゲイだけによるイベントを開催できることは、こんなに人に溢れた街で堂々とゲイとして生きている、そして楽しんでいる、というプライドになりました」。


80年代のニューヨークでは、ゲイナイトがクラブシーンを席巻していた。そのニューヨークでも活躍していたDJの中村直氏が90年代に帰国して、日本の大箱ゲイナイトでもプレイするようになった。芝浦ゴールド、新宿リキッドルーム、そして新宿歌舞伎町CODEへ−−。CODEがビルのリニューアルのため閉館後は、新木場アゲハへと大箱ゲイナイトの流れは引き継がれていった。

80年代から90年代はゲイ雑誌を利用した文通欄で、90年代からはメンズネットといったインターネットの掲示板で、00年代からは、mixiのゲイ版として登場したメンミクで、10年代からはアプリのナイモンやジャックドで。その時々の流行りのツールで、ゲイは常に出会いを求めていた。我々を生きやすくしたのは決してLGBT活動家のおかげではなく、こうしたテックの進化による。

当時かかっていた曲をリミックスしたCD。えぐリンの企画。

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