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一ツ目ト人ツ女

 2人の少女を巡る滅びゆく世界を舞台にした異種間百合です。
・えげつない描写
・悪堕ち、異形化要素
・直接ではないが性的な表現
・謎な世界観
 これらが平気な方は、お時間あればごらんくださいm(__)m


第一部:墓標ガ朽チテ燃ユル迄

『一ツ目ノ墓標』

 一眼国というお話がある。
 私は絵本で読んだのだけれど、元は落語だったか、怪談の類だったか。
 香具師が一つ目の人間たちが住む国の話を聞き、見世物にする為に捕えに行く。しかし逆に自分が捕まり、見世物にされてしまう。
 数の多少や常識など、相対的なものに過ぎないのだという皮肉を感じるお話だが、思うに今この世界を覆っている状況も一眼国に通じるものがあるのかも知れない。
 すぐ側を通り過ぎていく腕を組んだ2人の少女。その下半身は蛇と蜘蛛のそれだ。蛇の尾の先をおずおずとふわふわの毛の生えた腹に巻き付け、照れたように笑いあっている。
 空を見上げれば、羽ばたきもしていないのに宙に制止している人と鳥の中間のような乙女が、その羽に優しく妙齢の女性を包み込み、愛撫しているのが見える。女性は普通の人間のようだが、脱がされた服の下には羽毛が生え始めているように見えた。
 テレビを見れば、何処かの国の戦場に降り注ぐ無数のミサイル。とんがり帽子の女の子が箒の上でくるりと指を回せば、それらは全て無数のキャンディになって大地に降り注ぐ。見た目は幼く見えるのに、横抱きした裸の女性への扱いは手慣れたものだ。
 戦闘機は30mくらいある巨大な女の人に握りつぶされ、戦車は頭に角が生えた筋骨隆々とした女性にひっくり返されていた。男性の兵士は皆殺しにされ、女性の兵士はその場で押し倒され、次々と同族へと変貌してかつての同胞を襲う。
 世界は、今日も滅びへと向かっている。

 幼馴染の凪は、世界がこんな風になった頃から自分の家へと閉じこもった。
 もし“彼女たち”が本気になればあっさりと部屋の中へと押し入ってくるだろうに、それで安全が確保できると信じているかのように。
 そういう少し愚かなところも、私は好きだ。きっと一眼国の住人を見世物にしようとするタイプの人間だと思う。
 貰った合鍵で家へと入る。インターホンを押しても、凪は出てこないし他に反応する人もいない。
 おじさんは行方不明、おばさんは下半身が蛸の女の人の番になって出て行ってしまった。私がこうして食料を持ってこなければ、数日で餓死するだろう。

「凪、来たよ」

 部屋の前で一声かけると、ギラギラした目つきの凪が扉の隙間からこちらを伺ってきた。目の光は怪しく、痩せこけて、髪もぼさぼさになっているのに、何だか野生動物の子供みたいな可愛さがある。私の贔屓目かも知れないけど。
 小さく手を振ると、そのままパタンと扉を閉じる。毎回思うけれど、開けてくれればいいのに。そう思いながら部屋の中へと入り込む。

「今日は何があった?」

 私の手から中華丼をひったくるようにしながら、挨拶もそこそこに凪が聞いてくる。すっかり荒れ果てた部屋の中には、テレビもラジオもない。スマホはあるけれど、まだ異変が初期の頃に怖い画像を見てしまったとかで、調べ物に使いたがらない。凪は、私から聞くことでしか外の世界を知ろうとしなくなった。

「えっとね、委員長が凄いセクシーな感じの青肌の悪魔みたいになってた。一ノ瀬のグループも今日は学校来てね、全員が蛾?蚕?みたいな姿になってたよ。生徒が結構戻って来た、というか変わって来たから、通常授業がそろそろ再開されるかもだって」

 中華丼を怪しい様子からは考えられないほど綺麗な作法で食べながら、凪は時々うーとかぐーとか唸るだけで、その話を聞き続けている。
 世界が変貌していくのが怖い。“彼女たち”に侵略されて壊れていくのが怖い。でも、何も知らないのが一番怖い。
 最初の内はかなり言葉を選んだりぼかしたりしていたのだけれど、一度すさまじい癇癪を起されてからは、私はもう見たまんま、体験したままのことを伝えるようになった。

「それで後は、生活指導の堀田。前に凪の髪引っ張った奴。学校の中に隠れてたみたいでね、婚約者だった水田先生に引き裂かれてた。ほら、前に言ったみたいに水田先生、人魚になって噴水に住んでたじゃない。助けを求めに行ったのかな」

 自分が嫌いだった相手の最期をどう受け止めたらいいのか分からないらしく、凪はうううと唸りながら髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜ始める。結局、中華丼のパックをゴミ箱(とっくにパンクしてゴミ山になっている)に投げてから、私に向かって抱き着いてきた。

「仁美、仁美。仁美はそのままだよね?変わってないよね?」
「変わってないよ。昨日と一緒。凪の幼馴染の仁美のまんま」
「うう、ううう、うー。ごめん、いつも突っかかってごめんね、ホントは大好きなの。見捨てないで仁美。嫌な娘だけど見捨てないで、怖い、見捨てないで」
「見捨てないよ、私も凪のこと好きだから」

 私もなんて言ったけれど、凪のこれは発作みたいなもので、私のことをご飯の供給とたまの掃除係以上に考えているのかは、実際のところ分からない。毎回毎回つっけんどんな態度取るし、外の世界を知りたいのはあるとしても「一緒に居て」とは言われないし。
 その一言さえあれば、私も学校に行くのなんてやめて、凪の側でずっと一緒に居るのに。
 少し前までは綺麗だった髪を指に絡めてみる。ごわごわして脂ぎっていて、近くお風呂にいれないとな、としか思えなかった。

 始まりは、1人の女性がテレビに売り込んだ与太話だった。与太だと、誰もが思っていた。
 自殺を考えるほど追い込まれていた彼女は、名前も知らない森の奥へと迷い込み、死に場所を探していた。するとそこで、青い肌に蝙蝠の羽を生やした不思議な──悪魔とか、サキュバスとかそういう外見の女性と出会ったのだという。
 見た目からは想像できないほど親切で優しかったサキュバスは、彼女を自分たちの住まう住居に連れ帰り、優しく接して心を癒して、外の世界へ送り出したのだ。
 様々な神話や伝説に登場する魔物や怪物、妖怪の特徴を備えた女だけの村。妄想の類と一蹴されかねないそれらは、彼女のスマートホンの中に残されていた無数の写真によって一気に現実性を増した。専門家たちにも合成である可能性は極めて低いと太鼓判を押され、様々な目的の元に彼女が示した森へと人々は殺到した。

 ──そして“彼女たち”は世界に解き放たれた。

 誰かの行いが逆鱗に触れたのか、無礼に対しての報復か、それともこんな機会を狙っていたのか。
 今思うと、恩知らずな行いをした売り込みの彼女は、最初から“彼女たち”がこちらに来る口実を作るために動いていたのかもしれない。
 テレビ画面の向こうで、アナウンサーやコメンテーターが皆殺しにされた中、カメラに大写しのまま青い肌のサキュバスめいた女性に抱かれ、同族へと変貌していく姿を全世界へ中継された彼女の顔は、終始喜悦に満ちていたように私には見えた。
 神話や伝説の中に語られる存在の特徴を持った“彼女たち”は、もう出鱈目なくらいに強かった。
 世界最強の軍隊が全滅するまで2日もかからず、核ミサイルはお菓子に変わったりキャッチされて丸呑みされたり。衛星兵器というのだろうか、宇宙から放たれた光線は宙に浮かんだ魔方陣に飲み込まれ、逆に某国の首脳部を吹き飛ばした。
 まだ世界が滅び切っていないのは、単に彼女たちがとてつもなく慎重だからに過ぎない。そういう習性なのか、それとも単に嗜好や性癖なのか、彼女たちは男は殺すが女は愛して同族に変えようとする。
 この愛してというのが重要で、対象は老若関係なし、幼い子供だろうと老婆であろうと抱き締め、愛を囁き、愛撫して堕とし、増えていく。混乱自体が彼女たちのせいではあるのだけれど、女性が巻き込まれた危難や悲劇に駆け付けることが多く、彼女たちを支持する動きすら今や少数派ではない。
 ちなみにこれを利用して虐待した女性たちを囮に“彼女たち”を殲滅しようとした国がどうなったかは──やめよう、凪と違って私は食事前だから。

 凪の家から出てカギを閉め、次はシャンプーや洗剤を持ってこないといけないと考えていると、私の前にひらりと美しい女性が舞い降りて来た。普通の人間は、まあ飛べない。“彼女たち”だ。色っぽい唇から覗く鋭い犬歯からして、吸血鬼と呼ばれた存在に近いのかも知れない。

「こんばんは……?」

 多分、私を狙ってきたか、あるいは私を同族に変えてから凪を襲わせるとか、そういうことを期待してきたのだろう。けれど、彼女は私の顔を見てすぐにその期待が外れたのを悟ったようだ。
 凪は、窓の外すら見ようとしない。だから家を出た時点で──擬態は解いている。

「あなた、同族さん?」
「多分違います。まあ、似たようなもんですよ」

 彼女の美しい顔を、顔の半分近くを占める単眼で見つめ返す。
 誤解の無いように言っておくが、私は凪に嘘など吐いていない。“彼女たち”の同族にされたわけではなく、私は生まれた時からずっとこうで、それを隠して人の世界で生きて来た。
 半分以上壊れてしまった凪は、私が変わらないことだけに価値を見出し、私が何故変わらずに居続けられるかについては微塵も考えたりしない。考えた上で、途中で怖くなってやめたとかありそうだけど。

「へえ、そう──お幸せに」
「ども」

 ひらりと何処かへ飛び去って行く吸血鬼。幸せを祈られてしまった。“彼女たち”は本当に、女性に対しては無条件に優しい。
 世界は私にとって生きやすくなった。擬態をしていなくても、二つ目のフリをしていなくても構わない。本当の顔を晒して町を歩き回っても、にこやかな挨拶が返って来る程だ。
 たまに生き残りの人間が怯えて襲って来たりするけれど、大抵は視界に捉えた瞬間に痺れさせたり、数が多ければ光線で薙ぎ払ってしまえばいい。流石にミサイルだの爆弾だのは“彼女たち”と違って上手く処理できないから痛いけど、死にはしないし。
 けれど、その代わりに凪にだけは本当の顔を見せられなくなった。
 少しだけ妄想することがある。もしも“彼女たち”がこの世界に現れなければと。
 私と凪はごく普通に学校に通っていて、凪は恐怖で壊れることもなく、絆を深めて、いつかそう、少しだけ先に進んだ関係になって。
 その時に正体を明かせば、世界を侵す妖女ではなくただの個体として向き合えば、彼女は私を受け入れてくれたのではないだろうかという、都合のいい妄想。
 実際には異変の最初期から家に閉じこもったくらいだから、私の正体を知った瞬間に凪は卒倒するとか、口汚く罵倒するとか、錯乱して襲い掛かってくるとかしたと思う。
 それでも。

「シャンプー、買いに行かないと」

 明日は凪をお風呂に入れよう。お風呂場も酷いことになっているだろうから、まずその掃除から始めなければいけないだろうけど。運が良ければ、一緒にお風呂に入ったり、洗いっこをしたり出来るかも知れない。
 普通の友達のように。普通の人間同士のように。
 いずれ、凪は限界を迎えるだろう。世界は滅びる。凪以外の全ての人間が“彼女たち”の同族になって完全に狂うか、あるいは凪の部屋の窓を“彼女たち”の誰かが叩き割って私から奪い去っていくかする。
 その時、きっとこの恋の墓標を立てることになるだろう。
 1日でもその日が来るのが遅くなることを祈って、私は夕日を背にしてとぼとぼと帰り道を行く。
 黄昏を超えて新たに生まれ変わろうとする世界に、ただ1人で背を向けるように。


『刃ハ朽チテ沈ミテ』

 幼馴染の家を訪ねることに、重圧を感じるようになったのは何時からだろう。

 自分の中にある友情以外のナニカを見出した時かも知れないし、彼女の心の中に人以外の存在を受け入れる余裕がないと気付いた時かも知れない。勝手に過去を改竄して深刻ぶっているだけで、世界が突如現れた“彼女たち”──神話や伝説の魔物、妖怪の力を秘めた乙女たちに蹂躙されて、幼馴染が引きこもるまでは能天気に足を運んでいたような気もする。
 ともあれ、今日の足取りが最重の部類であるのは間違いない。
 幼馴染である凪は、世界が“彼女たち”に侵略されて以降、自分の部屋を堅牢なものと勘違いしたかのように立てこもりを続けている。
 両親のいなくなった凪の生命の維持も兼ね、私は日々の出来事と変わりゆく世界の姿を彼女に伝えることを日課にしていた。
 既に彼女たちは世界中のほとんどの抵抗勢力を滅ぼし、同族に変え、緩やかで激烈な世界征服を完了しつつある。私が伝えられる内容は、ほぼ全てが凪の精神を蝕むものばかりだ。
 それでも、下手に気を使ったりごまかしたりすると癇癪を起こすので、あるがままを語り続けてきたのだが──今日話すことは、とびきり彼女にとっては都合の悪いものとなるだろう。
 あるいはそれは、私自身にとってもなのだけれど。

「桐原伊吹さんって居たじゃない」
「居たっけ」
「あの娘、怪物退治の家系の末裔だったんだって」

 異様に綺麗な作法でカレーライスを食べる手をぴたりと止め、凪はこちらを静かに見つめ返してくる。どんな話をしても呻くか唸るくらいしかしてこなかったことを思えば、斬新な反応だった。
 つい先日お風呂に入れて隅々まで洗ったので、今の凪はやつれているのと目つきが悪いことさえ除けば、かつて同じクラスで過ごしていた頃の彼女に大分近く感じる。小首を傾げる仕草など、誰に聞いても美少女判定されるだろう。

「怪物退治って、本当?」
「多分ね。昔この辺りに住み着いていた、単眼の鬼神をやっつけたとか」

 一瞬だけ「そう、私のご先祖だね」とか言いながら本当の顔を──顔の半分ほどを占めている単眼を見せつけようかという衝動が沸き上がる。けれど、いずれは彼女の崩壊や発狂が回避できないとしても、私の手で凪を壊したい訳では無いので、止めた。
 思いがけない自分のルーツを知ることになったのは、正直なところ驚いた。母からの教育もあって、物心ついた時から自分が“そういうもの”だと納得して、隠しながら生きていくことにしんどさこそ覚えたけど理不尽さは感じなかったので、来歴を調べるとか全然していなかった。我ながら結構図太いものだ。

「仁美?」
「ああ、ごめん。それで、桐原さんが刀を手に、学校に乗り込んできたんだけど──」

 教室に姿を見せているクラスメイトはもう全員が“彼女たち”の同族に生まれ変わったので、私も本当の姿で居ても何も問題は無いのだけれど、何故か学校では今まで通り普通の人間ぶった容貌のままでいる。
 それは凪が常に側にいた場所なのも関係しているだろうし、別にクラスメイトにそこまで心を許す理由がないというのもあるだろう。
 昼ともなると、皆それぞれのパートナーとイチャつきながら食事となるので、独り者の私は居心地が悪く、ふらふらと校内をさ迷うことになる。
 “彼女たち”は基本的に性に奔放で、毎回静かに過ごせる場所を探すのはそれなりに面倒なのだけど、ふと思い立って噴水の側のベンチへと向かってみた。

「あら、多々良さん」
「こんにちは、水田先生」

 絵本の人魚姫で見たのだろうか、美しい人魚が腰かけるようにして水辺に佇む、絵画のような光景がそこにはあった。岩礁の類ではなく学校の噴水のへりというのがシュールだけれど。
 水田先生は元は音楽の先生で、少し気弱だけど優しくて人気のある先生だった。あまり評判の良くなかった生活指導の堀田先生と婚約した時は色々な噂が流れたけれど、先日彼を直々に引き裂いて殺害したことから、噂の一部は正しかったのではないかと私は睨んでいる。
 最も“彼女たち”の同族になると、男性を殺害することに躊躇がなくなるようではあるが。

「ここ、ご飯食べても大丈夫ですか?」
「勿論よ、学校は生徒の為のものよ」

 ぱちゃぱちゃと噴水の水を控えめに跳ねさせながらの返答。他の変異したクラスメイトやご近所さん等もそうなのだけど、元の性格が極端に変化してしまうということはあまりないらしい。むしろ他人に優しくなったり、気遣いができるようになったりしているように見えることもある。性行為は自重してくれないのけれど。
 もくもくと適当に余りものを詰めただけの弁当を頬張りつつ、何とはなしに水田先生を見つめる。他の“彼女たち”になった人たちと違い、何故か水田先生はこの噴水に1人きりで住んでいる。

「誰か待っているんですか」

 1人で虚空を見つめて過ごす姿に何となく私自身を重ねてしまったのだろうか、口をついていらない問い掛けが出た。水田先生はちょっとだけ驚いた顔をして、「津浪さん以外にも興味があるのね」と華麗な失礼返しを決めながらも答えてくれた。

「桐原伊吹さんって、クラスメイトよね?」

 彼女はこの世界が混乱に包まれた時、心の中で歓声をあげたのだという。
 先にも触れたが、桐原伊吹は私の先祖と思わしき単眼の怪物を撃退した家系の末裔であり、その際に用いられた刀を家宝とし、怪物退治の技は現在まで伝えられてきた。
 けれど、それらは“彼女たち”が現れるまでは一切振るわれなかったという。私も自分以外の“そういう存在”に出会ったことは一度もないので、多分ずっと昔にいなくなってしまったか、“彼女たち”の住む集落に移住したのだろう。
 始まりはきっと、危機の再来に備え人の安寧を守るという切なる祈りからだった御業の継承。
 しかし実用されることなく代を重ねる内、志は歪み肥大化した選民意識へと変貌し、彼女の家系は切り殺す相手を求めながら鬱屈を溜め続けた。その発散は修行と称して露悪する場合が多く、桐原さんも父親と祖父にやられたと、胸や背中の消えない疵を見せてくれた。
 歪みの蓄積は桐原さん自身の精神の荒廃と屈折にも繋がり、突如として怪異が目の前に現れ死闘となる妄想じみた薄い可能性に欠け、竹刀袋に入れた愛刀と共に夜の町を徘徊すらしていたらしい。完全に不審者である。
 そんな彼女にとって、恐るべき女怪が姿を現し、近代兵器や軍隊が塵芥のように蹂躙されていく光景は、己と伝えられた技の時代が来たことを確信させるには十分だった。

 ──そして彼女は、桐原家は敗れた。

 父と祖父はそれぞれの判別が不可能な肉塊となって下水道を流されていき、母親は幼い魔女の姿をした怪異の“恋人”として連れ去られた、というか嬉々として自分から付いていったそうだ。私ですら刀で切られたくらいでは死ぬ気はしないので、“彼女たち”が相手となれば妥当な結末だろう。
 桐原さんが逃げ延びられた理由は1つだけ。女の子だったから。単なるお目こぼし。それは、これまでの人生のほとんどを呪いに変わった歴史で圧迫されてきた彼女にとって、精神を崩壊させるには十分な顛末だった。

 そんな彼女が完全に壊れてしまわなかったのは、まだ“彼女たち”が世界に跋扈する前の小さな成功体験があったからだそうだ。
 異形の敵を求め、夜の町をさ迷う最中、ふと見掛けた男女の諍い。ホテルに行くか、行かないか、抵抗する女性を殴りつける男。それが自身の通う高校の教員たちだと気付いたことは、助ける契機になったのか否か。
 竹刀袋越しに柄を堀田の脾臓の辺りへ叩きつけ、桐原さんは水田先生の手を取り駆け出した。困っている女性を助けたことより、暴力を行使できた喜びの方が最初は大きかったという。

「ありがとう、桐原さん、ありが、とぅ──怖かった、怖かったぁ!」

 けれど、少し離れて落ち着いた頃。年上の女性がぼろぼろと涙を流しながら感謝を告げてきた時、彼女の視界はパッと開けたのだそうだ。
 自分はこの為に生きて来たのだと、困っている誰かを救う為に技を磨いてきたのだと。よくよく考えると化け物退治の技を守るべき人間に向けるという狂気には丸ごと目をつむって、彼女は生まれて初めて自我めいたものを獲得した。

「泣かないで、先生。先生が困っていたら、何度でも助けに行くから」
「ほんと?助けてくれる?ごめんね、情けないね。先生なのに、縋っちゃって」
「誰だって助け合って生きている。恥ずかしいことじゃないよ。絶対に、私が守るから」

 最高に舞い上がり、気持ちよくなって吐き出した言葉が、後に決定的な挫折を経験した時の彼女を支え、奮起させた。
 彼女のような存在を守らねば、その為の力がまだ自分にあるはずだと。
 かくして、桐原さんは憔悴しきった体を引きずるようにして学校へとやって来た。
 私と会話中の、人魚へと変貌した水田先生を目撃したのは、その直後のこと。

「それで?」

 最初の好奇は完全に失せ、惰性に見ちた声音で凪が聞いてくる。彼女が期待していたものはそこに何もないと、早々に気付いたのだろう。

「私は話の後半部分を、桐原さん自身から聞いたんだよ」
「──つまり?」
「噴水の人魚は2人になりましたとさ」

 ──完全に錯乱し、奇声を上げながら水田先生に切りかかった時。死ねとか、化け物めとか、裏切り者とか聞こえたけれど、その中で一番ハッキリ聞こえたのは「たすけて」だった。
 水田先生はあっさりと桐原さんを抱き留め、かつて私の先祖を討ったという刀を飴細工のようにへし折ると、その場で桐原さんを自身の同族へと変えた。水田先生の胸に赤ん坊のように顔を埋めながら、安らぎ眠る桐原さんの顔が忘れられない──その直前に浮かんでいた判別不明の形相と、交互に点滅するようで。
 きっとこれはハッピーエンドなのだろう。2人はこれから支えあい、愛を紡ぎ、桐原さんの奪われてきた時間を埋めていくはずだ。
 けれど、私のルーツがあまりにも雑に処理されたように。
 桐原さんが堕ちる前に浮かべていた感情や焦燥、それが無になってしまったことをどう受け止めればいいのか、私には分からない。

「──怪物と人間は」

 凪が半端に疑問を口にして、そのままうーと唸って布団を被る。「通じ合える?」と聞きたかったのか、「対等なのか?」と聞きたかったのだろうか。

「自分で考えた方が、きっといいよ」

 そんなものは私が一番知りたい。
 泣きたいのがバレないように、冷たい物言いにならないように、私は言葉を選ぶ。
 撫でた凪の髪は早くも油が浮き始めていて、妙に指に張り付くのが嫌だなと思った。


『巨影ガ燃ユル』

 火葬場の煙突が、私と凪を最初に結び付けたものだった。

 私の顔の半分近くを占めている単眼は、二つ目の人間のフリをしている間も別に本来の機能が使えない訳ではなく、その力を存分に発揮することができる。
 すごく遠くまでものが見えたり、睨んだ相手を痺れさせたり、熱線や破壊光線を撃ったり。強いて言えば、普通の人間の姿でこれらの力を使うと、すごい顔をしかめているように見えたり、鼻から怪光線を撃ってるように周囲から映るのが難点と言えば難点か。
 本性を隠し人の世界に溶け込むことに拒否感や疑問はなかったが、しんどさは常に感じていた。
 1人でいても特に苦のない性質を幸いに、幼い私は高台などから町を見渡すという遊びを飽きずに繰り返し、友達を作る努力どころか欲することすらしなかった。
 そんなある日、幾つか決めていたお気に入りの場所の1つに、やたらと華美な格好をして呆けていたのが後の幼馴染こと津浪凪だった。別に険しい道という訳ではなかったけれど、そこに至るまで何回か転んだのかスカートはどろどろで、服に反して妙に小汚い印象だったのを覚えている。

「あれ、なあに」

 別の場所に行こうとする私を牽制するかのように、凪は一方的な問い掛けを放り投げて来た。視線の先には、当時はまだ稼働していた火葬場の煙突。控えめにちょろちょろと煙が上がっているのが見えた。

「死んだ人を、やくばしょだよ」
「死んだらやくの?」
「やくよ。くさって、きもちわるくなるから」

 真面目に答えたのは何の気まぐれだったのか。
 煙突からこちらに視線が映り、私は凪がすごく可愛らしい女の子であることに気付いた。それは同時に、ほとんど他者に興味を抱かず生きて来た単眼の怪異である私が、美しく好ましいと思うのは二つ目の“普通の”人間であるという気付きともセットになっていた。
 答を聞いた凪はしばらくゆらゆらと上半身を揺らしていたけど、いきなり目に涙をいっぱい溜めて、うーと唸りながら私にタックルを仕掛けて来た。のちに凪に聞いたら、あれはタックルではなく抱き着いたつもりだったらしい。

「こわい、こわい、こわいよぅ」

 私の胸にすがりつき、鼻水や涙をこすりつけてくる情緒不安定な少女。
 何だか野犬のようだな、と失礼な感想を抱いたけれど、犬に限らず生き物にそんな風にすり寄られたのが初めてだと思い至ったのは、妙に興奮して眠れないベッドの中でのことだった。

 母親に対して、最初に抱く感情とは何か。
 大抵は愛情とか好意とか、それらを抱けないにしてもすがりたい、頼りたいとかそういうものだろうか。
 私の場合は「この人ヤバいな」だった。

「いいか、お前は私が愛した方の特徴をその容姿に色濃く受け継いでいる。この世で一番麗しく、美貌としか言いようのない、我々二つ目の人類など欠陥品としか思えない完成された外観の持ち主だった御方のだ。
 だからお前は、その容姿を隠し、お前自身を飢えた獣どもから守らなければならない。奴らはお前の美しさ、あの人由来である価値に気付けば、必ずやそれを簒奪しようとするだろうから」

 幼稚園や学校も普通に通い、テレビも漫画も禁止されていなかったのだから、私はあっという間に母の価値観の方が特殊だと気付くに至った。美しいとか手に入れたいとかとは一線を画す衝動のもとに害されるのも理解できたので、方針自体には従っていたがけれど。
 全体的に芝居がかった態度を娘にすら徹底する人だったのだが、あれは本気で信じていたのか、信じようと無理をしていたのか。
 私の父親だかもう1人の母親だかに当たる人に崇拝に近い感情を持っていて、かの人に選ばれた自分は素晴らしい存在だと任じているのはマジだったと思う。
 そんな母は、意外にも凪と友達になることに関してはあっさりと許容した。正体さえ隠しすのなら友達を作るのも、恋人を作るのも、結婚をするのも構わないとまで言ってくれた。そこに寛容さではなく、酷く歪んだ狭量さを見た私は親不孝者だろうか。

「お前の本当の価値を理解できなくても、友誼くらいは結べるさ」

 渾身の笑顔で告げられた言葉が呪いになったのは、この瞬間だったか、それともずっと先だっただろうか。

 火葬場はもっと新しくて、煙突が施設の中を循環しているものができたので、私と凪の出会いの契機となった場所はずいぶん昔に閉鎖された。煙突は今でも残っているけれど、それも老朽化がどうとか言われて、撤去が始まるとか始まらないとか。
 そんなことを言っている内に、世界には“彼女たち”──神話や伝説の魔物、妖怪の特徴を備えた(私とは似て非なる)超常の乙女が世にあふれ出し、あらゆる問題は後回しになっていった。
 そんな旧火葬場の煙突の横に、同じくらいの大きさのお姉さんが立っている。テレビで見たことがある顔だなと気付いたけれど、火葬場の煙突の高さは確か59mが平均的だと調べたことがある。某国の戦闘機を捻り潰していた時より、更に2倍くらい大きい。
 流石にあそこまで大きいと凪が何かの拍子に視認して発狂しかねないし、歩き回られただけで踏みつぶされたり家が丸ごと崩れるかも知れない。光線で焼き尽くせるだろうか、それとも体の制御を奪って海にでも沈めるか、そんな物騒なことを考えていると、大きな彼女の焦点が私に向かって合わされた。

「みつけたー」

 初めて正面から見た彼女の顔は、随分と穏やかで優し気なものだった。“彼女たち”が大抵女性に向ける顔は優しいのを差し引いても、戦場で大虐殺を行っていた姿と上手に繋がらない。
 咄嗟にその巨体を操ろうとした私が思いとどまったのは、大きな彼女の肩に見覚えのある姿を見つけたからだ。

「久しぶりだな、娘よ」

 私の人“一倍”高い視力は、母の口がそう動いたのを正確に読み取った。

「母さんが帰って来た」

 そう告げると、凪はパックのお寿司を危うく落としそうになってから、私の方にギラギラした目を向けて来る。
 その病んだ輝きからは、彼女の精神の荒廃が過去最高に達しているのを容易に読み取ることができて、今回のやり取り次第で私と凪の関係が完全に崩壊することを予感させるには十分だった。

「どんな!?」
「どんなって、普通に。今まで通り、頭のおかしい“人”だよ」

 凪が露骨にほっと息を吐き出す。もしも母が人間以外の存在に変貌していた場合、私も同族に変わっている可能性が高いと思ったのだろう。実際には私は最初から人外だし、母は“彼女たち”を連れ帰ってきているので、凪的には胸を撫で下ろす要素など皆無の情報なのだけれど。
 ずるずると体を引きずるようにしてにじり寄ると、凪の手が私の肩に、背中に、腰に順番に触れる。まるで慰めるような仕草。本当の意図は知らない。

「お母さんに、何もされてない?」
「まったく、何にも。別に好きな人ができたみたいだし」

 ──母が家を出た行ったのは、中学2年生に上がって少しした頃だった。
 そわそわとした態度や目つきの変化で何となく予感はしていたのだけれど、深夜に母は私のベッドの中に潜り込んできて、服を脱がせようとしてきた。
 ヤバい人だとは思っていたけど親愛がないかと言えば別で、まあキスとかされなければ抱かれるくらいいいかとぼぅと眺めていたら、急に「違う、違う」と叫んで首を絞められた。
 指は皮膚にすらめり込まなかったけれど、びっくりして突き飛ばしたら天井とベッドの間でバウンドして「ぐげ」と鳴き声が響いた。
 翌日には母は姿を消していて、月に2回の仕送りが始まって以降、顔を合わせたのは昨日が初めてだ。
 これを凪に話すと彼女は顔を真っ赤にして激怒し、母だけではなく平気な顔をしている私にも怒鳴り散らした。
 その後、正直あまり関係があるとは思えない自分の母親についての話をしてくれた。
 私の記憶のなかのおばさんはごく普通の中年女性なのだけれど、何でも元々はそこそこ名の知れた家のご令嬢で、おじさんと駆け落ちするような形で結婚を挙げたらしい。凪も当然そのことは知らず、ごく普通の一般家庭だと思って日々を暮らしていたそうだ。
 ──私と凪が出会った、あの日までは。
 おばさんは本当にいきなり、凪に礼儀作法のようなものを強要し、上手くできないとひどく折檻したらしい。凪は何度も「意味がわからない」と繰り返したけれど、私は何となくその理由がわかる気がした。
 要するに、急に思いついたのだ。娘に自分が持つ知識を継承しようという、その場限りの閃き。理由なんてそれだけだったのだろう。
 凪は泣きながら家を飛び出し、逃げて、逃げて、そして私と出会った。
 あの日、凪が泣いたのは「お母さんが死んでしまうと思って怖くなったから」だそうだ。私のした火葬場の説明と、自分が受けた唐突な理不尽が直列してしまい、あらゆる変化を死を始めとした悪しきものとして受容するようになってしまった、ということだろう。
 そう考えると人格形成に私も関わっている訳だが、その矯正となるとおばさんやおじさんが手掛ける時間は十分にあった。結果として、人の目につく作法や行いだけ完璧という歪んだ形で完成したのを思えば、私だけ責任を負う気はさらさら無い。肝心のおばさんも、全てを放棄して“彼女たち”と番って去ってしまったことだし。
 ともあれ、凪はきっと私を“変化を嫌うもの同士”として受容したのだろうし、この話はそういう意味では私に歩み寄ろうとしたのだと受け止めるべきだろう。やっぱりイマイチ関連性がピンとこないけど。

「仁美、私に隠し事しちゃ駄目だよ」
「急になに?」
「何かあったら全部伝えて。私に教えて」
「わかってるよ。私にだって、凪しかいないから」

 うぅ、うーと唸りながら私から離れようとしない凪。
 少しだけ迷ってから、その背中をにそっと手をかける。毎日食事は差し入れているのに、どんどん骨ばっているように感じる。私の力が人間より大分強いのを差し引いても、簡単に折れてしまいそうだ。

 ──私が何をしようと、凪は抵抗できないし、何処にも逃げられない。

 薄暗い思考の元となった、話さなかった昨夜の出来事を思い出す。

『こちらはお前の新しい母親になるユミールだ、仲良くしろ』

 ──人間大になった巨人へ向けた母の笑顔は本当に幸せそうで。

『色々と悩んだり苦しんだりしたが、新しい恋が全てを忘れさせてくれた』

 ──娘の私も見たことがないほど晴れやかで。

『葛藤や悩みを超えた時に、人間は真に成長することができる』

 ──その言葉はあまりに真っ当で真っ直ぐで。

『だから、私が過去から放たれたように──お前も、前に進むべきだ』

 ──私にかけた呪いを忘れ、祝いの言葉を吐き散らかした。

 変化を嫌う凪は私と同族だと思っているかもしれない。逆だ。私は変化に嫌われているのだ。何もかもが私を置き去りにしていく。
 きっと、いずれは凪も。

 この2日後、人類は絶滅した。


『人ツ女ノ墓標』

 ──その日、わたしは初めて人を殺した。

 世界の主要な国の代表があらかた“彼女たち”──神話や伝説に登場する魔物、妖怪の特徴を持った超常の乙女たちへと入れ替わり、人類の文明は正式に終焉を迎えたことが大々的に発表された。
 戦争はとうに終結し、反抗勢力すら何処にも残っていない。人類は“彼女たち”に霊長という過ぎた身分を譲り、地球の歴史から姿を消すことが確定した。あるいは地下や穴蔵でひそかに生き延びていく者も居るかも知れないが、復権や繁栄はまず無理だろう。
 そんな穴蔵生活を自主的に送っている我が幼馴染こと、人類の数少ない生き残りである津浪凪は、惣菜を持って行っても吐くようになってしまったので、手作りの弁当や鍋物を持って訪ねるのが2日ほど続いている。
 部屋に閉じこもるだけで安全を確保できると信じられる彼女の脳を以てしても、自分が口にしているものを“なに”が作っているかに思い至るのを避けることはできなかったようだ。
 意外なことに、凪はまだ壊れていない。いや、もう8割方壊れてしまってはいるのだけれど、人格というのか性根というのか、凪らしさというべきものはまだ残っているし、私が作って持っていけばご飯も食べる。お風呂だって、髪すら自分で洗おうとはしないけれど、私と一緒なら入る。
 けれど、もう私から外の世界の話を聞きたがることはなくなった。無意味だからだ。彼女が恐れ怯え続けた変化は、新たな秩序として固定されてしまった。
 もしかしたら、このまま凪と穏やかでも心安くもないけれど、性急な何かを強要されない時間は続いていくかもしれないと、いつの間にか私は楽観するようになっていた。
 それは油断だったとは思わない。けれど、世界が“彼女たち”に支配され、それでも凪にまでその手が伸びなかったことに、少しだけ安心していたのは事実だ。
 警戒すべき対象は“彼女たち”ばかりではないと、最初の頃は──むしろ学校に共に通っていた時分には、いつも感じていたはずなのに。

 ──凪の家の玄関が破壊されていた。焦げ跡から銃を使ったのだと“一目”でわかった。

 単眼の怪物よりも、凪は人間のフリが更に下手だった。
 見た目は愛らしいし、物静かな印象を与えるし、それに人の目の届く範囲だと所作はとても綺麗だから、学校に通っていた頃は男女問わずにモテた。
 けれど、新たな変数を自分の中へと受け入れることが、凪にはどうしてもできない。
 協調性がないと委員長から怒られ、お高く止まっていると一ノ瀬たちのグループに小突かれ、髪の毛が数cm長いと堀田先生に引っ掴まれ、その時は黙っている癖に後から私に癇癪を起していた。思えば、よく“彼女たち”が出現するまで引きこもらなかったものだ。

「それ、あいつらにも言ってやればいいのに」
「そんなことしたら面倒じゃない。仁美だから、いいのよ」

 世界が崩壊するなんて思ってもみなかった私は、こうやって少し特別な立ち位置に居られれば十分かと余裕ぶって構えていて、凪にとっての自分がなんなのかということを考えるのをやんわりと避けていた。そのせいで、答は今も出ていない。
 私は凪のなんなのか。友達なのか、単なる幼馴染なのか、それとも知人くらいのレベルなのか。食料の調達係か、風呂に入れる担当者か、掃除人か。

 仁美だから、何がよかったのか。
 
 それを聞く機会は永遠に失われたことだろう。
 私は、凪の前で人を殺した。

 一足で玄関を抉り飛ばすようにして、2階へと到達。
 まだ部屋に踏み込みかけだった男の頭に熱線を放つと、ドロドロと頭蓋骨を露出させて溶け崩れる。顔もよく見えなかったが、見る価値も感じない。スライム状の屍肉を踏み躙りながら部屋へと飛び込む。
 男が1人と女が1人。男の方は銃を凪に突き付け、上着を乱暴に剥ぎ取ったところだった。女の方は凪が食べ残したおでんに顔を突っ込んでいて、私にまだ気づいていないようだ。
 凪の肌が、露わに。
 頭の奥の太い何かがぶつりと音を立てて切れ、力任せに平手を男の後頭部へ叩き込む。頭を720度ほど回転させながら男は吹き飛び、窓ガラスを破って電柱の染みになった。
 女がおでんの器を置き、私を視界に入れる。私が、凪の為に作ったおでん。その表情は呆けているようで、多分仲間の2人が死んだことも把握していないようだった。

「凪!凪!」
「う、ぐぅ」

 返事にもならない呻き声。けれど、目の奥にはまだ意思の光がかろうじて灯っていた。まだ、凪のままだ。
 ほっとしたのと、耳が痛くなるような音と、頭にぽんぽんと何かが当たるのは全てほぼ同時。凪の目の光が一気に色を変える。撃たれたのを、見られた。

「え、あ、へ?なんで、死なな」
「凪を殺すつもりだったのか」

 頭を撃ったことよりも、死んでいないことに動揺しているのは、この手の所作に慣れている証拠だ。こんな豆鉄砲が“彼女たち”に通じる訳もなし、数少ない同族を手に掛けながら生き延びてきたのだろう。
 哀れだ。運が悪かった。こんな時代に生まれた不幸には、私も親近感を覚える。

 ──けど死ね。

「あ、ぎゃじゃぎゃ、びゃばああびゃびゃばびゃばああ」

 頭蓋骨に皹が入るほど力を入れて拘束し、直接“目の力”を脳みそに叩き込んでやる。脳からの電気信号がメチャクチャに機能し、細胞の1つ1つまで狂いだすように。女は、自らの肉体反応で“折り畳まれて”、サイコロ程度の大きさになって箪笥の下に転げて行った。
 私ってこんなことまで出来たんだなあと、変な感じに感心してしまう。あれだけ単眼の化け物だと自認していたつもりだったけど、何処かで私は人間の亜種くらいの気持ちでいたのかも知れない。
 その勘違いも、もうすぐ終わる。
 胴体ならまだしも、頭を撃たれるのを見られたら、流石に凪も現実から目を反らし続けることはできないだろう。
 いつだったか自問した。答を出す時が来ると。
 幸せそうに母は言った。私も前に進むべきだと。
 きっと、今がその時だ。私にも凪にも、前に道などなかっただけ。

「ひと、み」

 途切れ途切れに名前を呼ばれたのを契機に、私は凪の方へと顔を向ける。
 擬態を解いた、顔の半分以上を占める、単眼を。

 ──この子を1人にしてはいけない。
 おかしくなったお母さんから逃げ出した先で出会った、何だか焦点の定まっていない女の子。
 質問を投げたのは、そのまま行かせたら空でも飛んで行ってしまいそうだと思ったから。
 答が怖くて泣いてしまったけれど、あの子は私を受け止めてくれた。
 きっと不安定で、怖がりで、何かを新しく始められないわたしを守るために、側にいるって思ってる。
 間違いじゃない。それも間違いじゃない。私は駄目な子だ。悪い子だ。なのに人を頼れない子だ。
 あの子は受け止めてくれたから、甘えて、すがって、怒鳴って、暴れて。ごめんなさい、捕まえてしまって。
 でも、そうやって私が枷になれば、あの子はここにいるのかなとも思ってた。
 わたしたちは対等じゃない。あの子はいつか、わたしを置いて先に行ってしまう日が来るかもしれない。

 でも、その日まではわたしを守ってほしい。わたしも、あなたを守るから。

 一つ目になったあの子の顔はこわくて、こわくて、頭の芯がぐにゃぐにゃになりそうになる。
 せっかくお風呂に入れてもらったのに、失禁しているのがわかる。銃を向けられても平気だったのに。
 そのままげぇげぇと胃の中身を吐き出して。喉どころか顎まで痛むくらいにえづいて。
 やっぱり直視はできなくて、おこりのように震えながら、目をぎゅぅと閉じて。それでも、あの子に向けて手を開いた。

「おいで、仁美」

 戸惑っているのが伝わってくる。うそ、見えてないからホントはわからない。もうどこかに行ってしまってたら格好悪いね。
 けど、多分どうすればいいかわからなくて、何か言いかけて泣きそうになって、全然心にもないこと言う。そんな時の顔をしてるって、信じて。

「おいで、仁美はそれでいいの。仁美だから、いいの」

 肉の温もりが体を包む。目をつむって感じたそれが怖すぎて、ぎゃーと叫んでしまった。
 けれど、あの子のことは離さない。
 いつか、わたしを置いて先に行ってしまう日が来るかもしれない。
 でも、それを1日でも延ばし続けることは、きっとわたしにもできるはずだ。

 今までのように。

 ──母の血は、すごく甘い匂いがした。
 母は昨日、ユーミルさん(流石にまだお母さんとは呼べない)と同族になったので、女性からすると“彼女たち”の体液は甘く感じるのかと聞いたら「飲みやすいようにリンゴジュースで割った」と言われた。
 凪は、人間をやめることにした、らしい。その心の動きを聞き出そうとしても泣かれるわキレられるわで話にならない。精神が限界なのもあって、一刻の猶予もなかった。
 かと言って、せっかく両想い──なのだろうか? 何かどうしようもない齟齬とか断絶がまだあるような気がしてならない──になれたのに、そこらの“彼女たち”に凪を抱かせるのは論外だ。悩んだ末、母を頼ってみたところ、体液を飲めば変異自体は起きると聞かされたのがつい先刻。

「ただし、行為は何も楽しみでやるものじゃない。確実に自分と同種族として安定させる為のシステムの意味合いもあるんだ。それを通さないということは、どんな姿になるかわからないということ。そこは覚悟して、受け入れることだな」
「──だって。凪、大丈夫?」
「大丈夫な訳ないでしょ!?」

 ブチギレられた。
 そのまま凪は、目を瞑ったまま(何と私の顔を直視してから今まで一度も目を開いていない)母の血のリンゴジュース割りを一気飲みする。飲むんかい、とツッコミかけて止めた。飲んでもらわないと困る。

「しかし、凪ちゃんと添い遂げるとはな」
「何か言うことでもある?」
「ないよ、もっと早く祝福しておけばよかった」

 本当に、それはそうだ。母の呪いの軛は今も胸の中にある。私も、多分だけど凪も、何かを乗り越えて前に進んだのでも、問題を解決して成長したのでもない。ただ、何か決定的なものを先延ばしにして順延しただけなのだと思う。

「何か変化ある?」
「気持ち悪い、吐きそう、泣きたい」
「ボロボロだね」

 凪の体を、驚かさないようにそっと抱き締める。

「私の目、見た相手の体を操ったりできるんだけど、やろうか?楽になるかも」
「お願い、します」

 何故か敬語でそう言って、凪は閉じていた目を開き、私の単眼と視線を合わせる。
 その目の色は赤く変化しつつあり、肌もなんだか青黒く変色してきているようだ。けれど、生来の愛らしさはそんなに変わっていない。私たちは、きっと変われない。

 ──この日、凪は旧い自分を殺し、人類は絶滅した。
 それでも、決定的な破綻や決断の日まで、私たちは続けていく。
 変化に取り残された単眼の怪異と、ありふれた彼女の、不安定な日々を。


第二部:黄昏ト朝焼ケノ狭間ヘ

『痕印ヘノ道之』

 先にネタバ.0レをしてしまうと、私と凪はのちに結婚する。

 人類が絶滅し、星の支配者の座を美しき女怪たちへ譲り渡して数週間。
 “彼女たち”──神話や伝説に登場する魔物や妖怪の特徴を備えた超種族は、世界中に残された旧文明の負の遺産を解消すべき精力的に活動しており、世界を覆う閉塞感は緩やかに消滅しつつある、らしい。
 ただの一眼──もとい一般市民である私こと多々良仁美からすると、コンビニに商品が棚一杯並ぶようになったとか、電車や飛行機が稼働するようになったとか、日常の回復程度でしかその変化は感じないのだけれど。

「仁美、速い。もっとゆっくり歩いて」
「速いって、いつも通りだよ」
「私が側に居なくて、元の速さを忘れてるのよ。いいからゆっくり」

 幼馴染の津浪凪は、再び学校に通うようになった。
 “彼女たち”が溢れた時に世界の変節と侵食に怯えて引きこもり、秩序が形成された後は紆余曲折あって多数側に帰属することを決めた凪。まだ成り立てで角も羽も小さく、人間時代の不摂生のせいで骨ばっているので、サキュバスというよりゾンビに見える。
 そんなゾンビもどきと、この世界に生きる人型生物の中では恐らくただ1人“異種”となった私は、一応は恋人同士というか番というかそういうものになったはずなのだけれど、並んで歩いていると思っていた以上に何にも変化がなくて逆に戸惑う。
 実は凪がコスプレに目覚めただけで、“彼女たち”が出現してからの日々は全部妄想だったんじゃないかとすら思うほど、私たちには劇的なものがない。コンビニの棚と同じで、変わったものより変わらないものの方に目が行く。
 そんなことを考えながら凪の顔を見つめていたら、一瞬ビクッとしてから「な、なに」と聞かれたので、やっぱりすべては現実だと気付くのだけど。というか、流石に悲鳴上げたり視線反らしたりはしなくなったけど、まだ怖いのか、私の顔。
 顔の半分以上を占める単眼、この世界に“彼女たち”が現れる前から存在していた怪異である証。私としては見慣れているのと、かつての母から聞かされた過剰な賛美に引いてしまったのもあり、どちらかと言えば気の抜けた容姿だなとしか思わない。

「怖いっていうか、慣れないのよ」
「一緒の時は二つ目でいようか?」
「殴るわよ」

 気を遣ったのにキレられた。精神的には大分落ち着いて、奇声をあげたりは減って来たけれど、癇癪持ちは元からだと再確認する。
 けれど、こういう私にだけ向けられる怒りは、嫌いではない。

「ごめん、ありがと」
「何の礼よそれ」

 “彼女たち”になると、自分に備わった異能についてはほぼ完璧な知識と活用法が自動で身に付くという。
 委員長はサキュバスになって人体の構造や反射、ホルモンの分泌などを医者や生物学者並に理解できるようになったというし、桐原さんも人魚になってから水圧や浸透圧を即座に計算したり、水の中に溶けている塩類や有機物、非電解質の濃度を感覚的に把握できるらしい。
 便利だなと思いつつ、考えてみれば私も単眼だから立体視をできていないはずなのに、感覚や超視力で補った情報を組み合わせて人間──というより凪の視界に近い情景を脳内に構築して齟齬なく会話ができているので、滅びた人間以外はどんな生き物もそんなものなのかもしれない。
 何が言いたいかというと、学校で行われている授業の話だ。
 数学や化学、あるいは体育や音楽、これらは“彼女たち”の間でも非常に大きな個体差がある為、カリキュラムを再検討中。
 代わりに生物と歴史と保健を混ぜたような授業が増えた。
 学ぶのは、当然“彼女たち”のことだ。私はてっきり同族になった時点でそういうのも脳に刻まれると思い込んでいたのだけれど、生態と文化は違うということらしい。今後の世界を生きていくには必要な知識なので、私だけ置いてきぼりにされなくて本当に助かった。
 “彼女たち”は様々な世界を渡る旅団のようなもので、本家本元は“リリサイド”という組織?血族?みたいなのがあり、多元宇宙や可能性世界を巡り、同族を放っては自分たちの生態や嗜好を広めていくことを目的にしているようだ。生粋の侵略者ということだろう。
 ちなみにこれは私の感想ではなく、頭に大きな花を咲かせた木蘭先生が真顔で言っていた。要するに、本人たちは抵抗や反撃を受けることを前提にした、多様性の剪定行為としての“悪いこと”と解っていて、その上で躊躇なく実行していると。改めて恐ろしい生き物である。
 ということはやっぱり、あの最初に“彼女たち”の情報を漏らした女の人──今は日本の代表をやっていて、椴加瀬青梅という名だ──は、意図的にこの世界に“彼女たち”を解き放つように動いたのだろうか。
 滅びた人類の代わりに、何処かで会う機会があったら文句の1つも言っておこう。
 そう決めた日の内に、私は凪と一緒に椴加瀬青梅代表と、それよりもっとエライ人と出会った。

「初めまして、多々良仁美さん、津浪凪さん。私はエリアナという。こちらは妻のミカシャ」

 いきなり日本で一番偉い人の名前で呼び出されて。
 どうやって逃げようか凪と相談していたら委員長たちに拘束されて。
 連れて来られた応接室で、椴加瀬青梅代表が平身低頭していて。
 エリアナさんと名乗った人狼らしき女性と、その背後でふわふわと浮いている透けた女の人と対話開始。
 ここまでほんの10分である。劇的なものはない、とか思っていた朝の私に告げたら目を回すだろうか。いや、基本的に私は愚かなので、鼻で笑って信じないだろう。

「授業の邪魔をしてしまってすまない。手身近に済ませる予定だから、ご容赦願いたいね」
「はあ」

 こんな返事しか出てこないのは、私が無礼な訳ではなく話についていけないからだと理解してくれているようで、エリアナさんは淡々と話を続けてくれる。椴加瀬代表の肩がビクッビクッと毎回跳ねてるのがなんか面白い。
 久しぶりに凪がうぅぅと唸って私にくっついて離れない程度には追い詰められているので、要点だけで済ませてくれると助かるのだけど。

「単刀直入に言うと、仁美さんと凪さんには婚約をしてほしい」

 本当に要点だけで済ます奴があるか。
 凪がしがみついていなかったら、多分想像もできないほどエライ人にツッコミいれてたと思う。

「仁美さん自身の方が理解度は高いと思うけれど、君はこの世界で唯一の“我々以外の高次知的生命体”だ。君の先祖と衝突したことで、この世界に入植したばかりの同胞たちはその時点での世界掌握を諦めたそうだよ」

 いや全然知らない。なにその情報。私なんて“彼女たち”に比べたら貧弱そのもののビーム脳なのに。というか、そんなのを倒した桐原さんのご先祖こそ何者だろう。

「それに加えて、君の御母堂が再婚したユーミルは、私たちのなかでもかなり階級が上の方でね。私よりも古株で立場も上だ」

 それも全然知らない。なに、あのぽやっとした優しい感じのジャイアント、滅茶苦茶えらかったの?てっきり戦闘員かなにかだと思ってた。

「最後に、凪さんは我々が好む正規の儀礼で以て同胞になった存在ではない。これ単体なら我々もそこまで気にしないけれど、ここに君のパートナーという立場が付与される」

 凪、睨むな睨むな。なんで唯一の味方が敵に回ろうとするの。人間だった頃はまだしも、今本気でやったら痛いんだから抓らないでほしい。

「君は、とてつもなく複雑な立場に置かれてしまっている。だから凪さんとの婚約で以て、間接的に我々の“同胞”となってほしい──そう考えている者が、そこそこ世界にいるということだね」

 こういう時に「様々な軛か放たれていたように見えた“彼女たち”も、所詮人間と同じですね」とか格好つけられたらいいのかも知れない。
 けど、このてんこ盛り具合はどうしようもない気がする。むしろ問答無用で排除とかされてない時点で、“彼女たち”の温厚さが透けて見えるようだ。椴加瀬代表のアレは、本当に何も言うことがないという申し訳なさからの誠意も含まれているのだろうと思うと、笑っていた自分が酷い奴に思えて来た。
 とは言え。例えばクラスメイトやご近所さんに、私はわざわざ「実は“彼女たち”が現れる前から居た怪物なんですよ」とか喧伝してる訳ではない。多くの人たちにとって、私は“今や”よくいる一般人だ。
 この婚約を受けた場合、どの層にどんな風に分布されるのかは分からないけれど、それは正式に彼女たちの“仲間”になるという態で、「私はこの世界でただ1人のはぐれです」と大々的に宣言することに他ならない。

 それは何というか──あまりに惨いことのように感じられた。

 我がことながら、自分自身がどう感じるかよりも先に、状況や環境の残酷さや痛ましさに意識が向いてしまう。
 ふと唸り声が止まっているので凪を見ると、彼女は癇癪を起こす寸前の表情になっていた。

「ふざ、ふざけ──!」
「凪!」

 手で抑えるのも間に合わないので、瞳の力を使って無理やり凪を痺れさせる。彼女の目が、涙を浮かべて私を睨みつける。久しぶりに真っ直ぐ顔を見られる機会が、こんな形とは。
 ふざけるな、そう怒るべきなのかもしれない。けれど世界はとうに変わってしまって、その良い部分だけを私はへらへら享受してきたのだ。
 エリアナさんは凪の半端な叫びに小さく目を伏せて、すぐに背後のミカシャさんへと視線を向けた。ふよふよと浮かんでいたミカシャさんは、何か紙切れのようなものを虚空から出現させると、私の方に向かって飛んでくる。
 私の前までやって来たミカシャさんの顔には、大きな痣のようなものがあった。幽霊にも痣ってあるんだなと思ったが、本当に幽霊なのかはよくわからない。一言も発しないまま紙切れだけを私の前に置き、またふよふよとエリアナさんの背後へと戻る。

「もし、君が少しでも悩むか、あるいは肯定的な答を選ぶ可能性があるのなら、そこに書かれている者たちを訪ねてみてほしい。様々な形で決断の助けとなると思う」
「相談役、みたいなものってことですかね」
「もちろん、この場で破り捨ててしまっても、途中でやめてしまっても構わない。生まれたての秩序でも、これだけで崩れてしまうほどは脆くはないはずだよ」

 椴加瀬代表が今まででひと際大きく肩を震わせる。あんまりいじめないであげて欲しい。本人の話が本当なら、少し前まで自殺を考えるほど追い詰められていて、そこから今度は日本の代表というハードモード・シンデレラなのだから。

「そして、もし全員の元を巡り終えたのなら、最後にミカシャと話をしてみて欲しい」
「ミカシャさんと?」
「彼女は──我々に侵略された世界で、生涯を人間のまま過ごした」

 ──それは、これからただ1人の異種として凪の隣で生きていく、私の先達ということを意味している。
 エリアナさんの首に透明の手を回し、その体毛に鼻先を埋めて、幸せそうに眼を閉じている彼女は、何を考えて、何を悩んで、何を抱えたまま異種を貫いたのだろう。
 体の自由を取り戻した凪が、渡された紙切れを引っ手繰る。横から覗き見て、確認できた名前は。

 私の母と、その妻である巨人。
 音楽の教師と、クラスメイト。
 知らない名前と、よく知っている桐原という姓。

 身近な相手ばかりじゃないか。私は多分、今日一番の微妙な顔をした。


『山姥ノ告解』

 大切の価値がもっとも下がるのは、興味を失うよりも単に順位が下がった時かも知れない。

 多々良竹子という女性のことを、私はよく知らない。
 確かなのは自身の母親であるということ、エキセントリックな性質の持ち主であること、あと中学生の私を手籠めにしようとしたことくらいで、結構な額の仕送りがどこから湧いて出ていたのかとか、そもそも何処で働いてるのかとか、祖父母にあたる人や人生の略歴などは何もわからない。
 今更知りたいかというと疑問符を付ける辺り、私こと多々良仁美はやはり親不孝者で、だからこそ母と相性自体は悪くないのだと思う。
 ──凪と違って。

「なあ、仁美。凪ちゃんはどうしてこんなに私に対して敵対的なんだ?」

 普段の苦し気な呻きではなく、猛犬のようにぐるると唸りながら母を睨みつける、我が幼馴染にして暫定婚約者・津波凪。その目に浮かんでいるのは、明確な敵意の紅だった。

「昔、母さんに襲われかけたこと、凪にだけは話したから」
「それでか。全面的に私が悪いから、やめてとは言い難いな」
「悪いと思ってたんだ」

 私と暮らしていた頃の母なら、あれやこれやと彼女基準で頭が良さそうな論理を並べ立てて、全力で自身の行動を肯定してドン引かれていただろう。変われば変わるものだ。母親に持つべき印象かは別にして。

「しかしエリアナ嬢もなかなかによくわからないことを言い出すな。私とユーミルの関係は、お前たちのそれとは違いすぎる。得られることはないと思うぞ」
「エリアナさんと知り合いなんだ」
「気にするのはそちらか。ユーミルと恋仲になってから“旅団”に招待されたことがあるからな。そこで話す機会があった」

 “旅団”というのは“彼女たち”の大元の本隊、“リリサイド”とかいうよくわからない侵略集団のことだろう。自分だけが知っていることは嬉々として語りたがる母なのだけれど、何故か“旅団”については語り出す気配がない。話さないように言われているのか、それとも変人の母でも理解が及ばないほど奇ッ怪なのか。

「まあ、正直なところ断る口実探してるところがあるから」
「断るのッ!?」
「凪、落ち着いて。凪が嫌とかじゃないから」

 猛犬と化している凪の牙がこちらに向かないよう、慌ててフォローする。
 “私はただ1人の異物です”と世界に喧伝するのもうんざりするし、凪といずれはそういう関係になるにしても周りから無理やり盛り立てられるのもなんだか醒める。
 かと言って、そこそこ大きな問題になっている事物を、個人的な事情で断って気にせずにいられるほど私は強くも図太くもない。
 論理的な理由とまでは言わないまでも、理を打ち立てられるだけの土台が欲しい。その為には、非効率的でも虱潰し位しかできることはない。虱扱いされる水田先生や桐原さんには申し訳ないけど。母は残当。

「そういう方向の意思の強さは、やはり“あの御方”譲りだな、お前は」
「それを今私に言われても、困るだけなんだけど」
「それもそうか。聞きたいのは、聞くべきなのはユーミルとの話だものな」

 今更、そう今になって私の父だかもう1人の母だかの話をされたとしても、きっと私はそこから新たな呪いを見出そうとするだけで、前向きに精査したり人生の試金石とすることはしないだろう。出来る出来ないは別に、多分しないと思う。
 そのくらいはきっと母もよくわかっているらしく、この人なりに“あの御方”とやらの劣化コピーとして以外の価値も親愛もあったのだろうとは思えるくらい──聞くべき話だけをしてくれた。

 ユーミルは“彼女たち”の中でも少しだけ毛色の異なる存在で、色々な平行世界に同時存在する大きなエネルギーが巨大な女性の形を取っているのだという。
 個体によっては気まぐれに世界創造の真似事をしていたり、あるいは人類を始めとした知的生命の保護を自身に任じていたり、性格の差も大きいらしい。
 で、のちのち私の義母となるユーミルはというと、とにかくのんびりとした穏やかな性格だった。エネルギー体だから最小で0.06mm、最大で40kmまで自在に体躯を変化させることができ、もうそれだけで“彼女たち”の中でも中堅くらいの強さなのだけど、争いごとを好まず、侵略についてもいざ始まるまでは乗り気でなかったらしい。
 そんな彼女が珍しく執着していていたのが、“彼女たち”の集落に辿り着いたばかりの頃の母だった。
 集落の住人たちは(後に椴加瀬代表にしたように)様々な形で傷付いた様子の母を癒そうとしたり、心を解そうとしたりしたのだが、上手くいかなかった。心の中に極めて強固な信仰の様なものを抱えていて、会話もするし感謝もするが、それだけで決して変わろうとしなかったのだと。
 要するに偏屈な変人だったということなのだが──これがユーミルには非常に強く刺さったらしい。

「こう言ってはなんだが、貴女はこの集落でもかなり地位の高い存在だと見受けている。私のような流れ者に構っていていいのか?」
「いいのー。えへへー、竹子ちゃんはかわいいねー」
「その可愛いというのはやめてもらいたい。仮にも私は子持ちの成人女性だ」
「私からしたら、人間なんてみーんな赤ちゃんみたいなものだよー」
「それは確かにそうか。申し訳ない、不明を撤回する」

 こんな感じの、母にユーミルが構っては、母がそれに奇天烈な対応をして、やんわりと訂正されては反省するという、笑いどころのわからない漫才の様なやり取り。
 母の偉そうで芝居がかった態度は、“あの御方”に選ばれ子まで成した特別な存在であるという思い込みと他者への価値依存で成り立っているものだ。
 1年間も先述の様な逢瀬を繰り返せば、自分自身の中に何にもないということに流石の拗らせ続けた母も気付かざるを得なかった。
 その日も母を手に乗せて頬ずりするなどしていたユーミルだが、決壊は突然訪れた。

「私は、私は、貴女に選ばれるのに相応しくない女だ。本質的には寄生虫と変わらない。昔に一度、たまたまの偶然で特別になれたことで図に乗って、それからずっと前進も進化もせず、動かなければそこは変わらず頂なのだと思い込んで生きて来た」
「こんな寄生虫さんなら大歓迎だけどねー。あ、お腹の中に住む―?時々吐き出してね、よしよしするのー」
「ここに来る前に、娘に手を出そうとした。あの娘の母親に重ねて抱こうとしたのだと、今まで思い込んできた。だが、貴女と過ごして、やんわりと私の愚昧さを指摘され続けて気付いたのだ。あの娘が内心で、私を愚かな女だと憐れんで、その上でまだ親愛の情から側に居てくれることに気付いた私は──単に、依存の矛先を変えたかったんだ」

 何気にもう1人の親の性別が明かされた。
 その言葉と共に、母は遂に自身が伽藍洞であることを自覚した。そして“空っぽの重み”で潰れそうな自分を遠ざけるように、ユーミルに懇願したのだという。

「しってるー」
「え」
「竹子ちゃんが空っぽで頭すかすかなんて知ってるよー。その上で大好きなだけー。もしかして、気付かれてないとか思ってたのかなー。竹子ちゃん、割と“底辺から上を見下す”ようなところあるよねー」

 ユーミルは“彼女たち”の中でもそこそこの立場の存在である。例え穏やかな気象で喋り方がのんびりしたものであろうとも、後に世界を力と智謀で簒奪してしまう妖女たちの一角なのだ。
 それが、まだ中学生の頃の私でも薄々感づいていた母の内面を把握していない訳がない。

「私はねー、こうして確かな人格も自我もあるけどねー。それでもこれが本物の自分かって言うと難しいんだよねー。何しろエネルギーの塊だしー、その現れ方が私ってだけだからねー。炎が燃えて色が変わるとか―、風が巻いて温度が変わるとかー、そういう“現象”みたいなものなんだよー」
「すまない、いきなり自分の恥部を気付いていたと暴露された挙句、観念的な話をされても正直付いていけない」
「だからねー、中身とか本当はどうでもいいものなんだよー。私も一度パッ消えて再出現したら別人かも知れない程度の儚い存在だけど、今の性格とか竹子ちゃんが好きなことが無意味とは思わないしー」

 ひたすら困惑している母をわしりと両手でつかむと、ユーミルは自身の口へと近づけていく。丸呑みにするなら一息でできてしまう距離。
 傷付こうが折れようが死にたいとは思ったことのない母は、決して安心できるだけの存在ではなくなってしまったユーミルに恐怖し、絶叫しながら失禁したそうだ。
 その頬に、大きな唇が押し付けられた。

「そんな空っぽな中身を覆って、驚くくらいしっかりと形作ってる、竹子ちゃんの器が好きだよー」
「うつ、わ」
「中身が空でも、頭がパーでも、虚勢とお芝居の塊でも、それらが表に出てくる時はとっても強くて堅牢なのが、竹子ちゃん。私は、それがとっても羨ましくて、自分のモノにしたくて仕方ないんだよ」

 普段の何処かふわふわした喋り方ではない、明瞭な口調による告白。
 自分から虚無を吐き出し、それが形作っていた虚勢を心から愛すると言われてしまった母に抵抗など最早できるはずもなく、母は恐るべき巨女の前に屈服し、愛に沈んだ。
 その後すぐに人間との戦争が勃発し、母との出会いで“求めるものを得る為の闘争”に価値を見出してしまったユーミルは前線で大暴れ(旧人類に謝らなければいけないことがまた1つ増えた気がする)。
 ほぼ趨勢が決した辺りで母と共に日本へとやって来た。ユーミルが愛する母の虚勢、虚仮、仮面。それらを構成する要素の1つである、私のことも愛する為に。

「──ユーミルさんのことをお母さんってそろそろ呼ぼうとしてたのを、思い留まるには十分な内容だったんだけど」
「呼んでやってくれ、きっと喜ぶ。可能なら凪ちゃんも」
「呼ぶわけないでしょ!」

 サッと差し伸べるように向けた母の手に、凪はがうと犬のように吠えて噛みつくフリをした。今の話で、凪の好感を得られる要素は微塵もないし、仕方ないことだろう。

「だから言ったろう。お前たちと私たちは全然違うし、参考にもならない」
「そう、かな。まあ、そうだったね。あと凪、母さん本気でビビってるから、ステイ」
「うぅー、ぐるるる」

 口ではそう言いながらも、母が言い切るほどは私にとって聞き流せる話ではなかった。自ら作り上げた虚無を、認めてもらえるという喜び。それは私と凪の関係においても、他人事とは言い切れない部分がある。
 私は何なのか、中身は何が詰まっているのか。ここから一歩を誤れば、“世界の異物”というそれだけが内面を埋め尽くす可能性もある私にとって、聞けてありがたい話だった気がする。母が気付いてないので、言わないけれど。

「あー、仁美ちゃんと凪ちゃんだー。リンゴジュース飲むー?」

 買い物を終えて来たのだろう、エプロン姿のユーミルさん(人間サイズ)が抱き着こうとこちらに駆け寄ってくる。咄嗟に逃げようとしたが、凪がしがみついて盾にしてきたので回避できなかった。おのれ、恋人。
 母がそれを微笑ましげに見つめている。今まで見たことが無いと思っていた表情。もしかしたら、昔から変わっていないかも知れない表情。

 ──私の中身には何が入っていますか。
 ユーミルさんにそう聞くのは、あまりに恐ろしかったので、やめた。


『魚ノ見タ空』

 変わってしまうことそのものと、変わったあとにそれ以前が無になってしまうことは、どちらが本当に怖いことだろうか。

 わたし──津波凪はどっちも怖い。比較できないくらい怖い。
 けれど、自分も含めて変わらないなんて無理で。だから、せめて数の多い方に行たいと思うし、変わっていくことを好意的に受け止められる変数として、幼馴染の多々良仁美を私は求めている。
 それが友情なのか、愛情なのか、独占欲なのか、捻くれた庇護欲なのか、区別はつかない。考えると頭の右後ろ辺りが熱くなってきて、落ち着くまで仁美にくっついていたくなる。だから、考えない。迂闊に考えてしまったら、仁美でごまかす。それでいい。
 仁美の方も私を守ってくれているのか、それとも自分に必要だから側に置いているのかわからなくなるみたいで、それはそれでそういう者同士だと思うと悪くない。口に出されると、ムカつくのは不思議だけれど。
 だから、色んな理由や事情があるのは大いにわかるのだけれど。
 仁美とわたしに婚約しろと強制されるのは、私からすると考えるのが苦痛で、怖い方向に思考が向かおうとするので、卑怯と思いつつも仁美に一任して、後ろにくっついて怒ったり、怒ったり、怒ったりしてきた。
 今気付いたけど、怒ってばっかりだ。もしかして、わたしは割と最低じゃないだろうか。
 その罰が下ったのか、今日のわたしは1人でとあるカップルのお話を聞くことになっていた。

 桐原伊吹さんのことはクラスメイトだということくらいしか覚えていないのだけれど、音楽の水田先生のことはよく覚えている。
 とっても優しい先生で、微妙に周囲に溶け込めないわたしを何度か気にかけてくれた。わたしはこんな性格なので、そういう形で気を遣われるとストレスなのだけれど、それでもありがたいことだとは思っていた。
 学校に再び通うようになってから何度か見かけたことはあったけど、水田先生が“彼女たち”の仲間になってから住処にしている、中庭の噴水へやってくるのは今日が初めてだ。
 噴水の縁に座って、魚の下半身でぱちゃぱちゃと水を混ぜる姿は、絵画のように美しい。
 わたしも仁美のお母さんに血(のリンゴジュース割り)をもらって“彼女たち”になったからか、“彼女たち”のことを美しいとか可愛いとか思えるようになってきた。
 前は、どんなに愛らしい外見のものでも見た瞬間怖くて失禁して泣きわめいていたので、成長したと思う。いや、成長じゃなくて心が変わってしまっただけだとはわかってるけれど。
 今となっては、見た目が怖いと思うのは仁美の本来の姿──きらきらした目が顔の半分くらいを埋めている、単眼の素顔くらいだ。
 仁美だから我慢できるけど、今でもすごい怖い。慣れてないだけと仁美には言ってあるけれど、メチャクチャ怖い。でも、あの姿を強制的に魅力的だと思い込まないことに、奇妙に安心もする。安心は好きだ。仁美と安心の組み合わせは大好きだ。
 話を聞きにきたのに、自分の暫定婚約者のことを思い浮かべて変な顔をしているわたしに気付き、水田先生が手招きをしてくれる。わたしは、噴水の側のベンチに座る。「そこに座るのね」と何故か水田先生は笑った。

「多々良さんは、来ていないの?」
「色々と辛そうだったんで、こっそり1人できました」
「そうなの。素敵ね」

 ごまかした方がいいかなと思ったけど、うまい言葉がでてこなかった。素敵とか言われたけど。
 水田先生と桐原さんが結ばれた時のゴタゴタを、仁美は間近で見ていた。当時のわたしも随分と衝撃を受けたのだけれど、仁美はそれ以上になにか思うところがあったらしい。
 仁美は真面目だ。わたしが“これ以上考えすぎたら頭がダメになるな”と思ってやめるようなことを、色々考えてなんだか辛そうな顔をしている。そういう時は、彼女が何処か“先”に行ってしまいそうな気がして、ひどく寂しい。

「大変ね、なんていうと無責任な感じになってしまうけれど、私たちの話でなにか参考になるのかしら?」
「わかんないです。でも、聞いておいた方がいいかなって」
「なにか、気になることとかある?」

 わたしは普段、半分くらい何かを考えるのを仁美に任せているところがある。大抵は単調な反復か、後ろ向きな逃走になってしまうので。
 だから、こういう質問をされるのは本当にしんどい。けれど、婚約をするかしないかは別にして、今後も仁美と一緒に居続けるのなら、何かしら彼女の為になる行動をとれるようになっておくべきだとも思う。
 自然体でいられるほど、わたしたちは通じ合ってはいない。いつも壁のようなものが間にあって、一緒にいても相手のことを理解できないことの方が多い。それを理由に離れていかないだけだ。

「えっと、桐原さんは、今は」
「今は授業中よ。こういう事情がなければ、注意をしているところなんだけれどね。津波さんは、サボりの常習だし」
「その説はご迷惑おかけしました」
「ま、真面目に返されると、私がひどい先生みたいじゃない?」

 そうだろうか。わたしが勝手に怯えて引きこもったんだし、責められても仕方ない。
 ともあれ、桐原さんが居ないのはある意味チャンスだ。気になっていたこと、正確に言えば仁美が気にしていそうなことを聞いてみる。

「桐原さん、すごい傷付いた状態で襲ってきたって聞いたんですけど」
「ええ、なかなか遠慮なく聞いてくるのね」
「その時の傷、ぜんぶ消しちゃったことに対して、なにか感想とかあります?」

 口にしてしまってから、言葉を選べ!と自分で自分を叱りつけたくなる。こんなの災害とかに家族が巻き込まれた時に「今のお気持ちは?」とか聞く、今は亡き人類のマスゴミみたいだ。悲しいに決まってるし、聞かれたくないし、言葉にしたくないだろう。

「──とてもスッキリとしたわ」
「え」

 水田先生は何故か薄い笑みを浮かべて、妙な色気を湛えた表情のまま──こんな話をしてくれた。

『誰だって助け合って生きている。恥ずかしいことじゃないよ。絶対に、私が守るから』

 かつて教え子の少女からかけられた言葉を、ずっと水田先生は心の支えに生きて来たそうだ。
 教員同士の気の乗らない飲み会の帰り道、生活指導の堀田(わたしの髪を引っ張ったことは、死んだ今でも許していない)に無理やり関係を迫られた。
 懸命に拒否をして、なんとか逃げ帰った翌日──飼っていた猫が死んだ。
 入口の鍵は壊して入り込んだ“誰か”に、何度も何度も蹴り上げられ、壁に叩きつけられたようで、原形を保っていなかったらしい。
 人間はこんなにも醜悪な顔で笑えるのかと思う、そんな笑顔で堀田は「猫で良かったですね」と囁いてきたという。恐らくはずっと狙われ続けてきたのだという事実と共に、水田先生は折れてしまった。
 婚約したのだと周囲に吹聴され、仕事があろうと予定があろうと誘いを断ると“躾”と称して暴力を振るわれ、遂にはホテルに連れ込まれそうになった時には、散々に罵られながら顔を殴りつけられた。
 今度こそ全ての抵抗の意思が失われ、人形のようになってしまうのだと水田先生は絶望と共に悟った。個を保った自分は、今日で死んでしまうんだと。
 そんな時に彼女は現れ、颯爽と堀田を打ちのめし、水田先生を救い出してくれた。これまで人に優しくすることしか知らず、誰かへの頼り方の解らなかった先生にとって、あまりにも嬉しく輝かしい言葉と共に。
 その日の経験と記憶を胸に、以降の水田先生は堀田を拒否し続けた。
 暴力にも罵声にも嫌がらせにも負けなかった。本当に危ない時は、きっと彼女が──桐原伊吹が颯爽と助けに来てくれると信じて。

 ──けれど、彼女は来なかった。

 堀田ではなく、美しい人魚に襲われ“同族”へと変えられる時に、だが。

 人間から“彼女たち”へと変貌する場合、大抵は最初に関係を持ち、愛を囁かれた相手と番となり、生涯を共にすることになる。複数の恋人を持ったり、時に恋人が別の恋人を作ったりとコミュニティが広がることはあるが、離れてしまうことはまずない。
 水田先生はそんな例外の1人だった。彼女を変えた人魚は「貴女の待ち人が来るといいわね」と名残惜し気に囁くと、また何処かの誰かを求めて去っていったそうだ。
 水田先生は行為の現場になった噴水を住処にして、静かに“何か”を待ち続けていた。
 それはあるいは、桐原さんが「守れなくてごめんなさい」と涙ながらに謝罪してくる姿だったかも知れないし、まったく別の“彼女たち”の眷属となって自分のことなど忘れている姿を見ることだったかも知れない。
 とにかく、納得が欲しかったのだという。自分が人生の希望として大切に抱えていたものが、実は単なる口約束だった、それを受け入れることができるだけの何かが。
 そんなことを考えながら日々を過ごしていたら、何処に隠れていたのか、生き延びていた堀田が水田先生の前に現れた。
 “彼女たち”は例外なく女は愛し、男は殺す。それを理解していないほど頭が悪かったのかと呆れる水田先生の前で──堀田は、想定よりも遥かに頭が悪いことを露呈した。

「俺に従わないと、あの桐原ってガキを殺すぞ!」

 画質の悪い写真の中には、ボロボロに傷付き、さ迷う桐原さんの姿。実際は強力な“彼女たち”に祖父と父親を殺され、母親を奪い去られた場面だったのだけれど、水原先生にそんなことがわかるはずもなく。
 何度も何度も地面に叩きつけ、魚の下半身で打ち付けた個所が抉れもげるほどに蹴りつけて、原形を失わせてから真っ二つに引き裂いた。
 もしこの薄汚い男に何かをされたのならば、自分が清めてあげなければいけない。そんな思考が脳裏に灯る。
 あるいは同時に、彼女はこんな程度で穢れなどしない、慰めて支えてあげなければという思考も灯る。
 多分、この時に水田先生は“彼女たち”へと完全に変貌を遂げたのだそうだ。
 そして、傷付いた桐原さんが仁美と話している最中に現れて。
 “裏切り者”と。“殺してやる”と。そして“助けて”と叫んだ時に。
 丁寧に、丁寧に頭の中で順番に答えたという。

 “先に裏切ったのは貴女でしょう?”
 “私はそんな貴女を愛してあげるわ”
 “これからずっとずっと──助け続けてあげる”

「──軽蔑するかしら?」

 最後まで笑みを浮かべながら語り終えた水田先生に、私はただうーと呻くことしかできない。
 “彼女たち”としては、とてもありふれた衝動と執着。
 けれど、その根底に人間の感情が根差した故の深さと重さ。
 わたしがこれまで仁美を通して聞いたきた“彼女たち”とはまた違う、愛情と衝動の混じり合った巨大な情動。

「でも、あの娘も悪いと思うの。あの言葉は本当に、本当に私の中で大切なものだったのに、ただ気持ちよくなって、舞い上がって言いましたなんて」
「それは、そう、ですね」
「だからね、津波さん」

 水田先生がこちらを覗き込むように見つめてくる。仁美以外には感じなくなりつつあった恐怖が沸き上がって来た。
 どうしてこの場に仁美はいないんだろうと、ひどく恨めしく感じる。わたしが自分の意思で置いてきたんだった。わたしのバカ。

「貴女は、多々良さんが大切に抱えたものがあるなら──それに応えてあげてね。きっと喜んでくれるわ」

 ──そんなもの、あるんだろうか。
 礼もそこそこに、逃げ出すようにしてその場を離れる。
 視界を塞ぐ青空が、水の中から見上げたように美しく濁って見えた。


『魔少女ト殺シ屋』

 もしかしたら世間様では、私の出自を突然開示することがちょっとした流行になっているのかも知れない。

 “彼女たち”──かつて地球を支配していた人類種の神話に語られし、魔物や妖怪の特徴を備えた超種族。地球は今や美しき女怪たちのものであり、人類は完全に根絶された。
 今や、彼女たち以外の人型知的生命体と言えば──私こと多々良仁美しか居ない。
 顔の半分くらいを占める大きな単眼。
 睨みつけた相手を操る、破壊光線や熱線を撃つといった、近代兵器相手に圧勝した“彼女たち”に比べれば実にささやかな力。
 その程度しか持たない怪物の私は、“彼女たち”が支配するようになった世界でもやはり異物でしかないのを痛感させられつつ、こちらは完全に“彼女たち”へと生まれ変わった幼馴染との津浪凪との婚約を、様々なややこしい事情から迫られている真っただ中である。
 とはいえ、学校は普通にあるし、“彼女たち”が如何なる存在かという今後の生き方を左右する超重要情報が授業に手語られるため、自分の都合ばかりでは動けない。
 かつては不良グループと言われていた一ノ瀬たちも、その一ノ瀬達を追いかけて自身の成績は大丈夫なのかと心配した委員長も、今は教室で静かに座り、しっぽや羽をゆらゆらさせるくらいで真面目に授業を聞いている。
 教室にいないのは凪と、私とちょっとした因縁を持つ桐原伊吹さん。
 桐原さんは自身の番である水田先生の元に行っているのかもしれないが、凪は何処に行っているのだろう。精神は落ち着いてきているが、少し前まで壊れかけながらの引きこもり生活を敢行していたので、視界内に居ないと心配になる。

「それでは、今日の範囲内で何かわからなかったことはあるかな?」
「はい、先生。“彼女たち”がこの世界に入植したのは数千年前で、人口の増加を待っていたにしても、現代を決行の時間とした決定的な理由は何でしょうか?」
「それはエライ人に聞いてもらわないとわからないなあ、私の嫁さんはそういうのあまり気にしない人だし。ただ、それより以前に実行しようとした際、対抗勢力に邪魔されたという言い伝えはあるらしい」

 頭から生えた大きな花を揺らして答える木蘭先生の言葉に、教室内がざわめく。それはそうだろう、世界最強の某軍を(それも女性だけを丁寧に救助しながら)2日で壊滅させた“彼女たち”。その侵略を阻んだ何者かなど、想像もつかないのだろう。
 それがお前のご先祖だ等と言われた私は、別の方向性で想像がつかないのだが。
 もう一度、凪の空いている席に目をやる。その行動にどんな意味があるのか、やっておいて自分でもよくわからなかった。

 私と凪は互いを一番親しい相手だと思いあっているはずだが、互いを一番理解し合っているかというと非常に怪しい。
 凪は私のあれこれを考えすぎると「頭がおかしくなる」と主張して端から放棄しているし、私も凪が多分こう思っているのだろうなと若干愚かな彼女の性質と組み合わせて予想しているので、そこには大きな隔絶がある可能性は高い。少なくとも私は、壁の実在をひしひしと感じている。
 けれど、だからそれが嫌だとか、解消すべきだとか、ストレスになっているかというとまた話は違って。
 例えば私はまだ人類が健在だった頃は二つ目の人間のフリをしていて、ある種のしんどさを感じていたけれど、これが凪に知られるしんどさに変わったのは“彼女たち”が星を席捲し始めてからだったような気がする。
 私たちは互いがわからない。けれど、それが恐怖や不安に変わるのはいつも外部の変化があってのことだった。
 だから私は、凪を探す時も「最初に高いところで会ったし高いところ好きだろう」みたいな、幼馴染とは思えない推理を元に屋上へとやって来た。
 残念ながら凪の姿は見たらず、そこには尾鰭を上手に曲げて魚の下半身で器用に直立している桐原さんと、彼女と(人間部位の)容姿がよく似た妙齢の女性、それに何処かで見覚えのある三角帽子の魔女のような恰好をした女の子がいた。
 桐原さんの家は化け物退治を生業とする家系で、魔女の姿をした“彼女たち”に壊滅させられ、母親を奪い去られたと聞いたことがあったので、多分あれが桐原さんの侵さ餡と件の魔女なのだろう。
 まさか、ニュースなどでお馴染みの最前線の魔女──世界中の軍隊を滅ぼして回っていた“彼女たち”の主力がそうだとは思わなかったけど。というか、桐原さん家はすごいな。ミサイルの雨すら飴に変えて物ともしない相手に、嬉々として立ち向かうとか。

「あ、多々良さん。今ちょうど──」
「ひょわあああああああっ!?」

 桐原さんに見つかってしまい、こっそり立ち去れないことに嘆息しかけた直後、魔女さんが恐怖の絶叫を上げた。そう、恐怖の。わかりやすく感情の乗ったそれを。
 この魔女さんと、私の義母である巨女、あとは牛女なのか鬼女なのかわからないマッシブなお姉さん辺りは戦場の報道で何度も見たが、常に映し出されるのは一方的な蹂躙で、裸の女性を愛で守りながら戦う余裕すらあった。
 そんな彼女が恐れる相手。振り返っても私の背後には誰も居ないし、空にも何にも飛んでいない。

「ショコラルテちゃん!?大丈夫、ママがいるからね!」
「うぅ、ママぁ。こ、心の古傷が開いたのじゃあ。よしよししておくれぇ」

 ママって呼んでるのか。本物の娘さんを前に、多分見た目通りの年齢ではない魔女が未亡人(と言っていいのやら)に甘えている。桐原さんはどう思うのかと視線を向けたた、なんだか微笑まし気に見つめていた。“彼女たち”の価値観がイマイチわからない。
 桐原さんのお母さんの胸に顔を埋めてしばらく蠢いていた魔女──ショコラルテさんだったが、やがて落ち着いたのか胸から目だけを覗かせてこちらを睨んでくる。胸から離れた方がいいんじゃないだろうか。

「驚いたのう。確かに“一眼鬼”とよく似ておる。何代か重ねておるはずじゃろう?娘と言われても信ずるぞ」
「一眼鬼?」
「ああ、すまぬすまぬ。礼を失したな。我が名は“腐蝕”の魔女ショコラルテ。こんな見た目じゃが“旅団”の古株でのう──おんしの先祖と相まみえたことがある」

 私の先祖。
 この世界で独りぼっちになる原因を作った、はた迷惑な私の起源。それが一眼鬼。

「ひよっこのエリアナに頼まれ、次いで可愛い義娘にも頼られて、ちょうど話を聞きに来るのを待っておったところよ。覚悟ができておるなら語ろうか。無論、我とママもとい保由との恋物語がメインにはなるがの」

 保由さんっていうのか、桐原さん母。
 そんなことを考える程度には、私の頭は冷静で、かつ混乱もしていた。
 私は一体、何なのか。母ですら明確には答えられない真実に、今や容易く手が届く。
 どうして今、隣に凪がいないのだろう。そのことがひどく気に障った。

 運命の出会いがこの世にあるとして、それがよきものであるという保証は誰がするのだろうか。

 ショコラルテたちが最初に“それ”と遭遇したのは、神や精霊のフリをして文明や宗教の種を世界中に撒き終え、緩やかな収穫に移ろうとしていた頃のことだったという。
 “彼女たち”は神話に語られる悪魔や妖怪の特徴を備え、あるいはそれらの逸話に語られる個体よりも強力ですらある力を奮う超種族だ。当時も多少は存在した反抗は、近代兵器ですら障害にならない“彼女たち”からすれば、考慮する必要すらないものだった。
 ──そのはずだった。
 人狼が毛皮を丸焦げにされ。メデューサが逆に石像にされた姿で回収され。ドラゴニュートが正面から打ち倒されて命からがら逃げ帰って来た。
 東の島国に、何かとてつもなく危険なものがいる。
 そう悟ったショコラルテたちは、交渉とそれが失敗した場合の篭絡を目的とした編成を行い、その怪物──一眼鬼と交戦した。
 黒い髪、鍛え上げられているが細身の体、そして顔の半分ほどを占める単眼。見た目の異形さは“彼女たち”ほどではなく、正直そこまで危険な存在には見えなかったという。
 しかし、結果はショコラルテを含めて総勢8人、中には“彼女たち”の主力であるサキュバスが2人も含まれた上で、惨敗。こちらの攻撃は一切効かず、効いたとしてもまるで動じず。
 ショコラルテが殿になって何とか仲間を逃がし、彼女自身は熱線に焼かれて地に落ちた。

「魔女修行をしておった頃は、シウスガウスお母様やタミトンお母様に散々ばら転がされたもんじゃが、あそこまで鮮やかに負けたのは久しぶりじゃったのう。そう、あれは執念──執念が違っておった」

 完全に魂まで砕かれることを覚悟したショコラルテだったが、一眼鬼はそれ以上の追撃をしてくることはなく、かと言って治療してくれるとかそんなこともなく、完全に興味を無くしたように小さな社に腰かけていた。
 元から一眼鬼を祀ったものなのか、適当は古社を勝手に使っているのかは分からない。とにかく、そこを境に一眼鬼は一切の侵攻を許そうとはしなかった。
 ショコラルテは、攻撃が再開されることすら覚悟して聞いてみた。何故、自分たちの侵攻を阻むのかと。

「この“目”を守らなくてはいけないから。“彼女”を1日でも長生きさせなければならないからね」

 意外にも一眼鬼はとても穏やかな口調でそう答えた。

 ──それは、私こと多々良仁美や幼馴染の津浪凪が生きている此処とはまた別の、“彼女たち”がやって来た“旅団”の存在しているのともまた違った、異なる世界の片隅の話。
 “サイクロプス”と仇名されている、凄腕の殺し屋が居たのだそうだ。亡くなった恋人の右眼を移植した結果、その拒絶反応で死にかけながらも、自身ではなく“目”の延命の為に生き、殺し、やがて果てた狂人。
 その狂気は、敵対者の手であらゆる拷問や陵辱を受けてなお傷1つ付けさせずに守り抜いた“目”に宿り、“サイクロプス”の死後も生き続けた。私たちの世界に流れ着いた理由はわからないが、恐らくは元の世界に“居てはならない”類の存在だったのだろう。
 そして、一眼鬼と恐れられることになったそれ──人型こそしているが実際には“目”その物の怪物、恐らくは“サイクロプス”とも元の目の持ち主の誰かとも違う何かは、時折人の角膜を奪う為に襲う以外には静かに日々を過ごし続けていた。
 “彼女たち”が侵攻してくるまでは。
 さて、当時のショコラルテはとても困った。人間を“彼女たち”に変えようとする限り、一眼鬼との対決は避けられない。しかし、その戦力は恐らく“旅団”の最高幹部格に匹敵するレベルだ。もし交戦が実現すれば、この小さな島国は確実に沈む。
 可憐な少女たちを一眼鬼用に生贄として捧げ続ける、これは言うまでもなく論外だ。一方的で侵略的なものではあるが、“彼女たち”は“女”を愛している。それを差し出し生存を乞うなど許されない。
 では再生能力を持つ“彼女たち”の角膜を捧げ続けるのは?これも厳しい。“彼女たち”の血や体液は他の生物を変異させる力を持つ。何か目に不具合でも起きれば戦争は不可避だ。条件として成り立たない。
 悩んだ末、ショコラルテが提案したのは──外科手術だった。“彼女たち”は見た目こそ神話の怪物だが、実際には高度な文明と科学知識を備えている。一眼鬼の“目”を生殖行為によって子供に、子孫に受け継がれるように、より正確に言えば生態コピーを行えるように改造する。
 一眼鬼の方も一々人間を襲うこと、極めて繊細に扱いながら角膜を剥がすことに嫌気が差していたようで、この話自体はそこそこ乗り気に聞いていたそうだ。
 “目”の継承についても、そもそも一眼鬼自体が完全な“サイクロプス”やその恋人の同体ではないことを指摘し、納得を得られた。
 しかし、ショコラルテを始めとした“彼女たち”が執刀することは断固として拒否された。それはそうだろう、謂わば敵同士なのだから隙あらば抹殺しようとすると疑われるのは当然だ。
 そこで登場するのが──桐原さんのご先祖に当たる女性だった。

「要するに──桐原さんのご先祖は、どんなとんでもない剣豪かと思ってたら、お医者さんだったと?」
「時代が時代じゃから、半分ほど呪術師が混じっておったがの。じゃが、その方が我々の霊的手術については理解が得られるのも早かった」

 聞けば聞くほど化け物めいている一眼鬼を、どうやって人間が討伐したのかと思っていたが、なるほど、要するに人間さえ襲わなくなれば良いのだ。
 多分、最初は適当に討伐したと言っていただけだったのが、後世の箔付けで秘伝の剣術だのなんだのが生まれたのだろう。桐原さんは恥ずかしそうに眼を伏せているし、桐原母──保由さんは、なんだか申し訳なさそうな顔をしている。私にそんな顔されても困るのだけど。

「こうして、一眼鬼は子供に己が“目”を継がせられるようになり、何処かへと去ったわけじゃ。正直、今でも思い出すと手が震えるほどおっかなかったぞ。で、ここからが我とママもとい保由に連なる話じゃ」

 一眼鬼という脅威は去ったが、“彼女たち”の侵略は一旦中止された。
 子供を成し、代を重ねるまでは依然として一眼鬼との衝突の可能性は残されていたし、彼の怪物のような存在が他にも世界の何処かに潜んでいるかも知れない。
 侵略はその双方が終わるまで延期され、調査を任された者以外の“彼女たち”の多くは森の中へと隠れ里を作り、引きこもった。
 ショコラルテはというと──桐原さんのご先祖様に甘えていた。

「我はこれでも、見た目よりはかなり年を重ねておるのじゃがなあ。いやはや、おっかなかった。忘れかけていた恐怖を思い出したわ。やはり超越者面して強者ムーブはいかんのう」
「何かを怖がることは、誰もが抱える当たり前の心持ちかと存じます。恥じることはないでしょう」
「えへへ、おんし本当に優しいのう。我の母様は2人とも優しさの欠片もない人たちじゃったが、それでも時折向けられたや安らぎを思い出す」
「甘えてもよろしいですよ。今だけは、あなたの母になって差し上げます」
「うふ、うふふ、母上ぇ」

 桐原さんのご先祖様は、大層な変わり者だったようだ。
 異界の知識を叩き込まれて怪物の手術をさせられるというだけで発狂しかねないというのに、あっさりとそれを受け入れたばかりか、ショコラルテを気遣う余裕すらあったらしい。剣豪ではなかったけど、気の持ちようはかなり豪胆だったということか。
 ショコラルテは彼女をとても気に入り、母親と慕って何度も甘えた。
 自身の眷属に変えて連れて行きたいと願ったが、既に彼女には夫と子供がいたらしい。
 流石に恩人を無理やり攫う気にもなれず、ショコラルテは彼女が天寿を全うするまで時折顔出して甘えるだけで我慢をしたという。
 ──やがて時は流れて。
 一眼鬼の子孫は私のような半端者だけとなり、それ以外のイレギュラーが存在しないことも確認がなされて。椴加瀬青梅が森に迷い込んだことを契機に、再び“彼女たち”の侵略が始まった。
 ショコラルテは最前線での侵略が任されていたこともあり、人類との戦いが本格化する前に、真っ先に桐原さんの家を訪ねたらしい。
 子孫にある程度は便宜をはかってやろうかと、その程度の気持ちだったらしい。
 そこで、ショコラルテは保由さんと出会った。遠い昔に母と呼び甘えた彼女と、まるで生き写しの女性と。

「こんにちはー、なのじゃ。えぇと、その」
「あら、ショコラルテちゃん。いいのよ、ママって呼んでくれても」
「えへへー、ママー!」

 最初、ショコラルテは普通の子供のフリをして保由さんに近づいた。桐原家がいつの間にか化け物退治の家系を名乗っていたので、保由さんもきっと化け物の自分に悪感情を抱くだろうなと思ったらしい。
 既に“彼女たち”の侵略は無視できないものとなりつつあり、軍隊が“元自国民”へ向けて派遣されるのも目前だった頃だ。保由さんはショコラルテを何か事情のある子供だと考え、まさか“彼女たち”の前線司令官だなどとは微塵も思わなかった。

「荷物、半分持つのじゃ。毎日大変じゃのう、こんなにたくさん。旦那は手伝ってくれぬのか」
「私は、これくらいしかできないから」

 そう言って浮かべられる、何処か影のある笑み。後で知ったことだが、保由さんは桐原家の直系ながら、まったく剣術の才能がなかったらしい(真相を知れば当たり前である)。
 父親や夫からの当たりは強く、娘も彼らの目に怯えて甘えたり気遣ったりできない。そんな時に出会ったショコラルテは、保由さんにとっては癒しだったのだろう。

「本当に、ショコラルテちゃんが娘だったらいいのに」

 そう言われて、ショコラルテは遂に保由さんを自身の番として攫うことを決めた。仮にもかつて慕った相手の家、どうせ男どもは同胞たちの手にかかるとしても、自分自身で手にかける気にはなれなかった。
 この段階では。
 無邪気な子供ではなく、魔女として桐原家を訪れたショコラルテ。保由さんを連れ去るだけで済まそうとした彼女が見たものは。
 柱にくくりつけられ、何度も何度も真剣で切り刻まれている保由さんの姿だった。
 女怪抹殺、女怪抹殺と繰り返した辺り、恐らく自分たちの化け物退治の技をいよいよ“彼女たち”に試すべく、景気づけに──そう、ただ気合を入れるために、自分の娘を、自身の妻を、切り刻んだのだ。
 多分、桐原さんと違って男衆は内心では“彼女たち”には勝てないと悟っていたのだろう。その点では桐原さんより頭が良かったかも知れない。
 けれど、表出した行いは最悪の愚行だった。
 優しい笑みを浮かべていた顔がずたずたになり、それを見た声に嘲笑が混じった瞬間。
 ショコラルテは2人の男を区別もつかないほど切り刻み、叩き潰し、下水道へと叩き落とした。
 そして、祖父と父を殺し、母を切り刻んだと誤解した桐原さんを叩きのめすと、保由さんを攫って空に飛び去った。

「──こうして、保由は我のママになったということじゃ!愛でたし、愛でたし」
「参考に、なりましたでしょうか?」

 保由さんがショコラルテさんを愛し気に撫でながら首を傾げる。
 私は──私は、これまで聞いたどの話よりも感動していた。心が動くことを、性質はどんなものであれ感動というのだ。
 人だった。変り果て、積み重ね、今も異形のままだけど。私のルーツは。一番最初の起源は人だったのだ。
 私は──ああ、私は、人の亜種だったのだ。今や、たった1人の。

「多々良、さん?」

 桐原さんがひきつったような声を出す。私は一体、どんな顔をしていたのだろう。
 ただこの事実を一刻も早く凪に教えたい、それだけなのに。


『ヒトツメノ痕印』

 ──もう一度言っておくと、私と凪は後に結婚する。

「やだっ!絶対やだっ!」

 アザラシのぬいぐるみが宙を舞い、主である凪に代わり一撃を加える。
 幼い頃から持ち続けている割にはこの子への扱いは杜撰で、こんな風に投げつけたり、機嫌が悪い時は当たり散らして振り回したりもする。引きこもっていた頃など、引き裂いてしまわないようにベッドと壁の間にわざわざ挟んでいたというのだから悲惨なものだ。
 そう言えば、いつだったかの誕生日に私があげたのだったか。景品でもらって趣味じゃなかったから、というひどい理由だったのだけど。

「でも、色んなことが一度に解決するかも知れないんだよ」
「それでもやだっ!お断りっ!!」
「いずれはすることだし。多分だけど」
「多分ってなに!?他に候補いるの!?」
「凪ったら、落ち着いてよ」
「うううう、うううー」

 涙目で唸り、抵抗を続ける凪。とは言え、今回に関しては私がもう、どうしようもなく、フォローのしようもないほどにひどいことを言っているので、むしろかなり理性的に反応してくれている方だ。
 今日、私こと多々良仁美は自分のルーツ、この世界でただ1人の一つ目の化け物である理由を知り、そのそもそもの起源が人間の妄執であることを知った。勿論、人間その物では無いのだけれど、人間の亜種としてギリギリ扱える存在であることを。
 そこで思いついたのが──私も“彼女たち”になれるかも知れない、ということだった。
 私の先祖にあたる一眼鬼は強すぎたが故に“彼女たち”に組み伏せられることはなかったし、私は何となくそれを避け続けて来た結果ややこしい立場になってしまった。だから、それを試したことはない。
 けれど、周囲が婚約を推し進めている凪が相手なら、行為の末に変異をしてしまったとしても許されるのではないだろうか。

「また竹子さんの血でも飲んでくればいいじゃん!リンゴジュース割り!」
「母さんが“彼女たち”のエライさんの嫁なのも原因の1つだから、こじれるんだってば」
「とにかく嫌!わたし、もう二度と仁美に触れない!!」

 ぐるぐると野犬のように唸って威嚇してくる凪。
 その気持ちは、わかる。変化を嫌う凪にとって私は、唯一受け入れた変数のようなものだ。それが一つ目の怪物だった事実だって、知り合った頃からそうだったと無理やり納得しただけで、今も割り切れていない。
 そこで更に、私を別の物に変える手伝いをしろなんて、それは嫌だろう。

「凪の気持ちはわかるよ。でも、元からの人格とかが大きく変わらないのは自分の時でわかって──」
「ふざけんなっ!ばかぁっ!」

 凪の癇癪が、いや癇癪なんかではない真っ当な怒りが、爆発した。

「嫌だよ!そりゃあ仁美が別の何かになるのなんて嫌に決まってるよ!仁美はずっと仁美でいてほしい!わたしの好きな仁美でいてほしいよ!だけど、だけどさぁっ!
 わたし、今日だって水田先生と桐原さんの話を聞いてきたんだよ!すごく怖くて重くて深くてさぁ!けどすごく愛し合ってた!思いあってた!気持ちがあったし好意があった!
 竹子さんとユーミルさんの話も、さっき聞いたショコラルテさんと保由さんの話もそうだよ!すごく歪んでるけど愛の話だよ!なんでそれがわかんないの!?馬鹿なの!?馬鹿だよ仁美は!!
 そりゃあ世の中騒がしてて申し訳ないよ!ごめんね、仁美のこと好きになっちゃって!ややこしい性格で色々引っ張っちゃって!
 だけどさあああああ!初めての!初めてエッチなことするのがさあ!“辛いことから逃げるため”ってなんだよ!“世間様への申し開きのため”ってなんなのよそれぇっ!
 わかってないわかってないわかってない!ぜんぜん仁美はわかってない!幼馴染の癖に!恋人の癖に!私の側に一番いた癖に!わかってない!
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!そんな理由で仁美と初めてエッチしたくないよ!わたしだって、仁美とエッチする妄想とか一杯したよ!してきたよ!人間だった頃から何ならしてたよ!ロマンチックな奴からちょっと乱暴な奴までさあっ!でも、こんなの無かった!こんな最低なの思いつかないよ!ふざけんなよ!
 お前、仁美!わたしより世界の方が大事なのっ!?そんな真っ当な頭の持ち主だったっけ!?うううう、ううううううう!!出てけ、出ていけ!わたしの部屋から、出ていけェッ!!!」

 念動力というのだろうか、いつの間にか使えるようになっていたのだろう、不可視の力で部屋の外に叩きだされ、扉が閉められる。そこは私の部屋であって、凪の部屋じゃないんだけど。
 そんなクソみたいな正論を浮かべたのを最後に、私の脳は一気に機能を低下させ、頭の中はたった一言で埋め尽くされた。

 ──やらかした。

 私は、私の想定よりも遥かに最低で愚かだった。
 その罰はあまりにも決定的で、致命的な一撃として降り懸かった。

 月を見るのは好きだ。
 上手く調節すれば、クレーターまではっきり見えたりもする。街よりも更に表情豊かで、眺めていると色んなことを忘れられる。屋根に上ってまで見ようとするのは、小学生の頃以来だけど。

「忘れてる場合じゃないだろ、馬鹿」

 自分で自分の愚かさにキレそうになる。逃げるな。ちゃんと平身低頭、凪に謝ってこい。
 そう頭ではわかっているのに、じゃあ何と言って謝ればいいのか、心の方が言葉を出力してくれない。
 悪かった、二度とこんなこと言わない。じゃあ、一生プラトニック貫くのか?
 凪の気持ちを考えるべきだった。凪の今の気持ち、正確にわかるのかよ?
 やっぱりこういうのは愛情込めてやるべきだよね。問題解決兼ねてるの消えないだろ?
 結局、ぐるぐると頭の中で回る思考は、いつもの悩みへと帰結してしまう。
 私は何者なのか。凪のことをどう思っているのか。
 世界で1人きりの一つ目の化け物が、人間の亜種と無理やりこじつけられると知った時、私は喜ぶだけではなく何かしらのショックも感じていたはずだ。それは何だ?
 私と凪の間には今後も絶対に超えることのできない断絶がある、やんわりと受け入れ許容してきたその断絶とは、そもそも何を起点に発生しているのか?
 考えてみたが、答は出ない。今までの経験もまったく答を導き出してくれない。
 エリアナさんだったか、3組の話を聞いてくれば何かの答のヒントが得られると言っていたのに。完全に逆恨みが浮かんでは消える。

「夜は危ないわよ。特にそんな綺麗な目をしているとね」

 突然かけられた声。私はゆるゆると、声の方を振り向く。

 顔の半分ほどを占める単眼。

 他の外見についても目に入って来たはずなのだけれど、それだけで彼女を体現する情報は十分だった。

「──一眼鬼」
「その名で呼ばれるのも久しぶりね」

 ころころと、目玉を瞼の上から撫でるような仕草。まるで愛しいものを愛でているような手つき。恐らくまだ人間であった頃、“サイクロプス”と呼ばれた殺し屋の癖。
 “彼女たち”を一度は打ち破った恐るべき怪異にして、私という存在の起源がそこには立っていた。

「思ったより驚かないのね」
「何となく、そのうち会えそうな気がしていたので」
「それにしたって、伝説の一眼鬼ではなくて、まず自分のもう1人の母親に可能性を考えたりしない?」
「同じでしょう。その2つは同じもの」

 一眼鬼の──私の母親の口元が、三日月のように裂けて歪んだ。
 迫力のある笑みなんだろうけど、やっぱり目のインパクトに負けている気がする。やっぱりこの容姿、私からすると気の抜けたものに思える。

「どうしてそう思った?」
「ショコラルテさんから、そっくりだの生き写しだの言われてのもあるけど、貴女の起源を聞いたから。私の起源でもあるけど」

 ただ1つの瞳で見つめ合う。
 相手が何を読み取っているのかは計り知れないけど、私は正直、何も伝わってこない。
 恐らくは世界で一番私に近い存在なのに。私よりも若干人間に近い存在だからだろうか。

「元が殺し屋とは言え、貴女の大元は“彼女たち”みたいな人間からかけ離れた存在じゃない。力は出鱈目でも、心の在り方は意外と人間よりなんじゃないかなって思って」
「へえ、それがどうして私が一眼鬼だという話に繋がるの?」
「だったら、悩むかなと思ったので。大切なものを継承できる代わりに、それが増えて、価値が変わってしまうことを」

 口に出しながら、私は凪の絶叫を思い出す。変化を嫌う凪。私を受けれてくれた凪。でも、受けれ入れてくれたのはそもそも、それなりに大切に思っていてくれたからじゃないかと。

「“彼女たち”は貴女との交渉が終わって、それ以降をあまり考えなかったみたいだけど、場合によっては貴女の力を受け継いだ存在が日本列島を埋め尽くす可能性だって0じゃなかったはず。けど、そうはなっていない。
 母さんもエリアナさんも、私以外の私の同類の話をさっぱりしない。全員“彼女たち”の同族になったか、メンタルをやられて死んじゃったか──そうでないのなら、そもそも私しか一眼鬼の子孫がいない可能性はあるかなって」
「自分がとてつもなく特別な存在だと改めてわかって、気分は如何?」
「死にたい」
「ごめんね」

 頭を撫でてくれる手つきは、思っていたより優しかった。何なら、竹子母さんよりも優しいくらいだ。

「私は“サイクロプス”本人では無いけれど、彼女の妄執と偏愛と狂気はわかるつもり。知ってる?この目は彼女の恋人のものだけど、その恋人の両親を殺したのは“サイクロプス”だった」
「──初めて、聞いた」
「その恋人が死に瀕した際の願いで、“サイクロプス”は恋人の目を埋め込み、その延命のための無茶な暗殺の繰り返しと、止まることのない拒絶反応の果てに死んだ。それでも死の際まで、何なら死してなおこの目を守り、愛しみ、慈しみ続けている。それが“増えた”時にどうなるのか、悩み始めたのは野に下ってからだったわ」

 間抜けでしょ?と一眼鬼が笑いかけてくる。なるほど、遺伝というものはあるのかも知れない。

「結局、数百年か千年くらい悩んで、なんで母さんを選んだの?」

 私の問いに、一眼鬼はキヒヒといやらしく笑った。

「とっても顔が好みだったの。記憶の中の誰かに似ていて」
「そんな理由で」
「そんな理由でいいんじゃない。女が女を好きになる理由も、女が女を大切に想う理由も」

 私は、愛されて生まれてきた子だった。
 けれど、多くの問題を丸投げされた子でもあった。
 喜べばいいのか、悲しめばいいのか。憎めばいいのか、呆れればいいのか。

「あの娘はよい子よ。馬鹿だけど愛らしい。竹子と割と似てる、大事にしなさい」
「もしかして、悩み相談に来てくれた?」
「さあ、どうかしら。“こう”なる前は殺し屋、“こう”なった後はただ1人の悪鬼よ?そんなお優しいと思う?」
「母さんには、会っていかない?」

 一眼鬼は初めて笑みを消して、真剣に悩んでいる顔を見せた。
 けれどすぐに、どこか自嘲するような悲し気な笑みを浮かべた。

「やめておくわ。もう竹子に私は必要ない。いいえ、多分この世界にも私は必要ない。けれど、貴女はきっと必要だから生きなさい、仁美」

 びっくりするくらい適当な言葉だ。いい事を言おうとして滑っている感が凄い。
 それでも、初めて名前を呼ばれたのを認識した瞬間、問答無用で涙が湧いてきて。
 目を閉じ耐えた次の瞬間には、もう一眼鬼は私の前から姿を消していた。
 多分、永遠に。

 ノックをしようとしたら、勝手に部屋の扉が開いた。
 引きこもっていた頃、凪は決して自分から扉を開けてくれることはなかった。それを思うと、私たちもそれなりに進展してきたということかも知れない。

「なに」

 布団で全身を覆うようにして、こちらを睨みつけてくる凪。相変わらず、脆くてすぐ崩れる状態を鉄壁と信じているかのようだ。
 私は言葉を選ぼうかと思ったけれど、変に口ごもったらその場で退出させられそうなので、思いついた言葉をそのまま放った。

「私、凪に一目惚れだったと思う」

「は、ふぃ」
「火葬場の煙突眺めてる時にね、タックル、じゃなくて抱き着かれて、アレ、初めての体験だったんだよね。その夜はドキドキして眠れなかった」

 目を白黒させている隙に素早くベッドに近寄り、隣に座る。目をやたらとぱちくりさせながら何度も何度も眼を反らす、見つめるを繰り返す仕草は、やっぱり犬のようだった。
 私たちを取り巻く状況はややこしい。私は世界でたった1人の異種だ。凪はとても気難しい。そして、私たちはきっと、根本的にはわかりあえない。それでも。

「私、凪のことが好きだよ。凪を悲しませるよりは、喜ばせてあげたい。傷つけるよりは、守ってあげたい。離れるくらいなら、一緒にいたい。そう思ってる」

 そっと凪の髪に手を伸ばす。いつかのように脂ぎって手に絡むことはなく、さらさらと心地よい触感を伝えてくれる。

「ごめんね、凪。大好き」

 凪はしばらくぽかんとした顔で呆けていたけれど、やがてうううと唸りはじめ、私の胸に顔を埋めるとぐしゅぐしゅと涙と鼻水をなすりつけ始めた。鼻水はやめろ。

「わ、わた、わたしも、仁美、好きだから。ど、どこにもやらないから、わたしのだから」
「うん、凪のものが一番落ち着くよ、多分」
「ハッキリ言って!!」
「凪が一番です」
「よ、よろ、よろしい」

 そんな風に凪が泣き止むまで20分ほど経過して。ぐしゃぐしゃになってしまった上着を脱ぎながら、あることに気付く。

「あー、そうなるか」
「な、なに?」
「私、やっぱり変わらないみたい」

 凪の涙で、何の変化も起きなかった。
 私は“彼女たち”にはなれない。人間でも、“彼女たち”でも、異界に由来する鬼神でもない、ただ1人の単眼の怪異。それが私と、証明された。

「気軽にエッチなことしなくて良かったよ。死ぬまで後悔するところだった。ありがとう、な、ぎ?」

 凪の様子が、おかしい。
 上半身裸の私を見ながら、異様に息を荒くして、目を爛々と紅く光らせている。
 そう言えば、胸に顔を埋めている時から、妙に深呼吸を繰り返していたような気がする。

「あの、凪?凪さーん?」
「仁美、仁美!そういうことならさ!そういうことなら!エッチしようよ!セッ、セックスしよう!」
「あらやだ、この娘ったら淫魔の本能で暴走しちゃってる。いや落ち着こうよ凪、こういう結論に至って、いい感じに終われそうな夜なんだからさ」
「ううう!うるさい!我慢、してきたからっ!メチャクチャ我慢してきたからっ!こ、この、綺麗な体して!」
「それ、怒るところなの?」

 目の力を使えば制止することもできるだろうけど、そこまですることでもないかなと思う。
 それよりも、凪が興奮しきっているからとは言え、私の顔を真っ直ぐ見て、その上で顔を赤らめてくれているのが面白くって。

 ──その夜に学んだことは2つ。
 私はされる側。
 あと、凪は性格が悪い。

「婚約は、しません」

 翌日、学校の応接室にて。
 エリアナさんとミカシャさん──今日は椴加瀬代表はいない、あるいは私が何を言い出すかで決めることなどがあるのかも知れない──を前に、私はそうはっきりと告げる。

「代わりに、高校を卒業するか、必要な時期が来たら結婚します」
「いいと思うよ、それでね」

 エリアナさんは愉快そうにぱちんと掌を打ち合わせ、ミカシャさんは変わらず彼女の背後をふよふよと浮遊している。凪はというと、今朝から私と手を組んで離そうとしない。
 見せつけたいのか、それとも逃げるとでも思っているのか。

「この世界は、これからどんどん変わっていく。君たちの問題を矮小化するつもりはないけれど、きっとこんなに穏やかに解決しない問題が今後は沢山待っているだろう。そんな中で、渦中の君たちが自分で悩み、自分で決めたという事実は、きっとこの世界の糧になると私は思う」
「糧にするためではないんですけどね」
「それでいいよ。自分らしく振る舞って世界のためになる、最高さ」

 絵本に出てくる王様みたいな格好いいことを言い出すエリアナさん。一眼鬼も、これくらいサラッと良いことを言えるようになればいいのにと、いらないことを思う。

「それで、答は出したんですけど。よければミカシャさんの話も聞かせてもらっていいですか?」
「いいかい、ミカシャ?」

 ふわりとミカシャさんは私と凪の前へと移動する。顔に痣のようなものがあって、体透けている以外は、なんというか本当に何処にでもいそうな感じの女性に見える。

「何が、聞きたいの?」
「あ、喋れるんですね。いえ、1つだけ──どうして、人間のままで生きようと思ったんですか?」

 “彼女たち”が侵略した世界の1つで、人間のまま天寿を全うした女性。
 その口から出た答は。

「何となく。私やエリアナなら大丈夫と思ったから」

 大体、想像した通りの答で。
 それを答えたミカシャさんの私たちを見る目は、とても優しいものに見えた。

 応接室を出て、私と凪は教室へと歩き出す。
 もう少しだけ周囲が騒がしいかも知れないけれど、こうやって誰かに呼ばれたり、話を聞かれたりは無いだろうとエリアナさんは言ってくれた。それは“私が何とかする”というニュアンスも含まれていて、とても心強いものだった。
 と、ずっと腕を組み続けていた凪が、急に体を離してくる。飽きたのだろうか、それとも暑かったとか。

「手、つなごう」
「手?教室まで」
「うん」

 やっぱり、凪の心の中はよくわからない。もう体を重ねるのも終えた後なのに、手を握ることの方が恥ずかしく感じるのは気のせいだろうか。
 私たちはわかりあえない。きっと、特別な出来事のように感じている昨夜のこともやがては日常に埋没していく。
 そして、私と凪の間にある断絶になんら影響を与えるものでは無いと知らしめ、これまで以上にこじれる時が来るかも知れない。
 けれど、それでいいのだと思う。きっと、どんなカップルも、婦婦(もう夫婦はいないので)も、幼馴染も、パートナーも、そんなものなのだ。
 わかりあったつもりですれ違い、溶け合ったつもりで断絶に苦しむ。
 それでも、きっとそれは絶望するような大した状況ではない。
 世界はこれから、凍えるような夜闇を超えた、新しい朝日の照らす時代が来るだろう。異種である私は、その光を何時だって半分だけしか受けられない。
 そんな夜明け前や黄昏を思わせる風景を、歩き続けるために。
 
 私は大好きな凪の手を握った。



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