轍の鮒

2021年1月丑年産まれ、星座は山羊か水瓶、誕生石は石榴石。石言葉は、真実・友愛・忠実、勝利。
世間は、その時期に生まれた子供たちをコロナベイビーと呼んだ。新種のウィルスが人類に与えた束の間の愛の時間の象徴であった。

2020年4月、ある男と女がいる。共に会社員で二十代後半。出逢って一年、同棲を始めて半年。共通の友人を介した週末の飲み会で出会う、共通の趣味は映画鑑賞だ。

新型のウィルスの蔓延に伴い二人は、それぞれの会社から在宅ワークを命じられる。ダイニングテーブルにノートパソコンを並べて仕事をした。互いに仕事をする姿を見せるのは、気恥ずかしさもあったが少し新鮮だった。仕事は次第に減っていった。やりかけの案件も小さく纏まるか、白紙に戻っていった。
これまで、これほど長い時間を共にしたことはなかった。家事の分担にもストレスはなかった。夜にはネットフリックスで、見そびれていた映画や溜まっている海外ドラマを楽しんだ。最初は、長いバカンスの最中にいるような気楽な気分でこの非日常を楽しんでいた。

外出自粛の言明から二週間ほどが過ぎた頃だった。かの女がベッドルームで部署の定例テレビ会議の際、男は気配を潜め、ドアの側からそれを横聞きする。部下の不手際を低い声で整然と圧迫する女の振る舞いから、いつもとは違う働く女の一面を知り、男は興奮した。形式的に進められているであろう会議の中で、血の通った言葉を唯一放っているのはかの女だけだった、実際はどうだったか知らないが、男は女の会社のテレビ会議をそう想像した、男は脊髄あたりで欲望の花火が散るのを感じた。
会議が終わり女がイヤホンジャックをノートパソコンから抜いた時、男はベッドルームに入り女に求めた。テレビ会議からの開放と非日常の高まりから、女も受け入れて、二人は避妊もせずことに及んだ。中で出さない理由はなかった。普段なら、まだ働いているはずの時間だった。

小さな轍が溝を作り、人々を孤立させていった。真実は人それぞれ違っていて、感じ方次第で多様に変化し、無数の真実が同時に存在していた。
多くの者が共感と認知の濃厚接触を求めてソーシャルネットワークを徘徊した。
街に人の姿は殆どない。薬局の棚から姿を消したマスク、消毒液、薄いコンドームは、未だ入荷がない、買えないことは分かっていても開店前に列ができる。日常を維持するための儀式だった。
ウィルスの持つ潜伏期間と無症状感染という不確かな特性が、人々に不安と猜疑心を植えつけた。誰もが自分は新型ウィルスに感染しているかもしれないと思い込んで生活していた。体温計を肌身離さず持ち歩き、体温ばかり測っていた。
外に出れずとも、消費の快楽を堪能すべく、不要不急の便利グッズや生活雑貨を買い漁り、各家庭の玄関口にはアマゾンのダンボールの置配が溜まっていた。

干上がりそうな水の中で、静かに佇む魚だった。僅かに残された水が風に揺れ、波紋をつくる。

男と女の暮らすマンションの同じ階に独居の年寄りの女が住んでいる。自らをゴミ当番と名乗り、ゴミステーションのゴミを勝手に開け、他の家が正しく分別をしているかをチェックし、不適切な分別が見つかれば、張り紙をした。その女は、保護猫を二匹飼っていて、地域猫のケアにも積極的だ。道徳を重んじ、法に縛られない自己の内面的原理に基づいた正しさに満ち溢れている。

新型ウィルスが流行ってからは、飼い猫への感染を恐れ、ハイターを薄めた自作の消毒液で各家のドアノブを洗浄して回った。作り方はテレビの情報番組で知った。マンションの共用スペースや廊下は、屋内プールのような塩素の臭いが漂っていた。
その女は孤独と使命感から、消毒液を大量に生産し、マンション内の住民に配り歩いた。居留守を使う家庭には、置き手紙とともに玄関の前に消毒液の入ったペットボトルを残した。外に出る者を監視し、無症状感染を疑った。

かの男と女の住む部屋にも老婆の消毒液は配られた。その消毒液のボトルには、ミネラルウォーターのラベルがついたままだったので、買い置きの水と間違えて、その消毒液でコーヒーを煎れてしまった。飲む前に気付いたので口にはしなかったが、嫌な臭いがカップの底にしばらく残った。それから、女のテレビ会議が終わった後、男は中で出した。夜にはネットフリックスで、見そびれていた映画や溜まっている海外ドラマを楽しんだ。

その翌日、女のテレビ会議が終わった後、男は中で出した。夜にはネットフリックスで、見そびれていた映画や溜まっている海外ドラマを楽しんだ。

その翌日、女のテレビ会議が終わった後、男は中で出した。夜にはネットフリックスで、見そびれていた映画や溜まっている海外ドラマを楽しんだ。

その翌日、女のテレビ会議が終わった後、男は中で出した。夜にはネットフリックスで、見そびれていた映画や溜まっている海外ドラマを楽しんだ。

その翌日、女のテレビ会議が終わった後、男は中で出した。二人にとって、小さな切り取られた轍の中で存在を確かめ合うための儀式だった。正午過ぎ、ことを終えた二人は窓を開けて、いつものようにベランダに出て外気を浴びていると、人気のない通りの奥から何かが音を立て、小刻みに震えながらやってくる、逆光ではっきりとは見えない。
「向こうから来るあれは何?」女は男に言う。「出前じゃない?」男は答える。
それは郵便配達員がジグザグに移動しながら、各家庭に洗えば何度でも使えるという布マスクが二枚入った小さな透明封筒を届ける姿だった。
「とうとう、うちにも届くんだ」女は言う。
「そうだ、今日の昼は焼きそばにしようか?」
男は言う。
その時、男はマヨネーズが冷蔵庫にまだあったかどうかと、気がかりに思っていた。





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