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【書評】西部戦線異常なし

10年くらい前にブログに載せていた書評を発掘し読んでみたところ、偉そうに書いてあって面白かったので紹介しておく。

書評「西部戦線異常なし」
 
◇直截に戦争を語ることに成功した傑作
 
 「直截(ちょくせつ)」という言葉は、同じ音を持つ「直接」とは異なる文脈で使われる。後者は主に空間範囲の狭さを表すのに対し、前者は感覚的な直進性、暴露性を内包する方法論的な理解をされることが多い。言い換えれば「すばり」、となる。
 「西部戦線異常なし」は、戦争を直截的に語ることの難しさを乗り越えた傑作小説である。例えば戦争を直接的に語ろうとする場合、ルポルタージュの手法を使うことで乗り越えられる。現場に行けばよいからだ。そこには戦争の結果起きている現実の全てがある。だが直截的に語ろうとすると、それは途端に野暮になる。なぜか。「戦争を望む平民はいない」「戦争はいけない」という二行の真理で事足りてしまうからである。
 著者レマルクは、作中に様々な要素を盛り込むことで、この真理を重厚に証明する小説世界を作り上げた。10代で戦場に投げ込まれた少年たちの目に、世界がいかに色褪せていったかを、一方で「投げ込んだ」大人たちが持つとてつもない無責任さを、死に行く敵味方の兵士の表情、つまりは国家に人間の良心が利用されていく様子を、これでもかと書き綴る。さらに過剰な表現を排した戦場の描写が、無機質な銃弾砲弾が雨あられと振る大量殺戮の時代性、「ただ二三百メートルが敵の手に奪われた。けれどもその一メートルごとに、一人ずつ人が死んでいた」戦争を、寒々と感じさせる。
「そんなら一たい、どうして戦争なんてものがあるんだ」
「なんでもこれは、戦争で得をするやつらがいるに違えねえな」
「はばかりながら、俺はそんな人間じゃねえぞ」
「貴様じゃねえとも。ここにゃ誰もそんな奴あいねえよ」
つかの間の休息をぬってこう語り合った主人公ボイメルと、庶民の個性を代表するかのようなその同僚たち。彼らは、いつ終わるともしれない(なぜ始まったかも分からない)戦争の中で、一人また一人と倒れていく。それはあたかも人間の持つ率直な良心が死に行く過程のように見えてくる。
 先に直截的と書いたが、このような見方をする限り、本作は寓話としても読むことができる。比喩を駆使する小説的な手法と直截的な表現の持つ力強さを両立させた、稀有な物語と言えるだろう。戦争とは人間の持つ有機的な温かみが、砲弾の持つ無機質な数千度の熱に踏みにじられ蒸発する過程であることを、本書は余すことなく語っている。
 この本を手にとったきっかけは開高健がどこかのエッセイに「座右の書であった」と書いたことだった。ひょんなことから開高氏のファンになり、2011年になって同氏の作品を20冊以上読みすすめてきた後に出会った本書であったが、「開高さんはもしかして、こういう本が書きたかったんじゃないだろうか」と正直思わずにはいられなった。
「夏の闇」と「ベトナム戦記」を足して2で割ったのではなく、掛け算したのがこの「西部戦線異常なし」ではないか。間違いなく、わが人生のベスト5に入るであろう小説である。大変読み易いので、寝台列車の汽車旅などにお勧めである。そんな旅があるならば、だろうが。(本文引用は全て1955年発行の新潮文庫版。翻訳は秦豊吉)

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