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パリ・オリンピック閉会式

パリオリンピック閉会式

オリンピックは時差がでかい。
「あのオリンピックは昼間の仕事をおろそかにする言い訳にしまくってたなー」とか、「あのオリンピック期間中はずっと昼夜逆転していたなー」とか、「あのオリンピックは毎朝6時起きの超ヘルシー生活を送っていたなー」とか、過去のオリンピックを振り返ると競技のことよりも時差のことばかりを思い出す。まぁ、これも、その気になればオリンピックに合わせて生きられる自由人ならではの贅沢ってことかもしれないが。午前3時に始まる競技など見られるはずもない会社勤めの友人は「あの年のオリンピックはほぼまったく見ていないわー」とか、まったく記憶がないオリンピックもあるという。
パリオリンピックの時差は、かつてない絶妙さだった。
夕飯時とか、仕事を終えて帰宅したあたりに、いい具合で始まる。しかし、さすがにもう寝ようかなという午前2時、3時の競技をちょこっと見始めたところ、ついつい朝になってしまったりするのはとても危険だった。が、これもまた「寝るのも起きてるのもあなた次第、自分の人生は自分でシルブプレー」みたいな、なんか、自由に選択肢を与えられながらも、何を選ぶかで決まる人生は自分の責任だから、自由って楽しいだけじゃないのよ、的な、フランスっぽい時間割だと思ったよ。いや、それは日本にいる受け身で思うことであって、別にフランスはそんなこと考えてないのだが。

それはさておき、昨夜から今朝にかけての閉会式について。

結局、トム・クルーズが出てくるのも待ちきれずに寝てしまったので、さっきようやくNHK+で見た。ピアノも楽器もずぶ濡れ(楽器は廃棄寸前のものを使用していたそうですね、それもどうかと思うが)、無理にセーヌ川をなんとかしようとしてわやくちゃだった開会式に比べたら落ち着いて見られたし、五輪の歴史をえんえん表現するダンス・パフォーマンスなどは、アメリカとかイギリスのハイ&ロー・アートをごた混ぜにしてモダンと読ませる合理主義の近代文化とは一線を画したフランス的な演出だなぁと感心しました。
が、まぁ、これは単なるお茶の間の野次馬感想です。

で、音楽については、ちょっと言いたいことがある。
以下、あくまで私の認識なので、ただの個人的な感想だと思ってお読みいただきたいのだが。

音楽の演出、選択、人選について、正直、あれはオリンピックのセレモニーとしてのバランスがとれていたのかどうか。
よくわからなかった。というか、モヤモヤが残った。
欧州のポピュラーミュージックには疎いので、まじめな話、その道に詳しい識者の先輩がたにも近々ご意見をうかがいたい、と思っている。

開幕式での、ドラァグクイーンの「最後の晩餐」とか、アントワネットの首とか。好き嫌いはあれども、これぞフランスだなと思った。とりわけジェンダー問題やLGBTQ+方面には、批判やプロトコルも恐れず踏み込んでいく躊躇なき姿勢には、ある意味、自由のために闘ってきた国家の歴史が透けて見えるようにも思った。そんな開会式と比べれば、閉幕式の、けっして“たまたま”ではないスノッブさが気になる。とりわけ人種や移民問題については、そこに触れることについて注意深く迂回している感が否めない。
音楽について言えば、間違いなく意図的に自国における白人文化を軸にしていた。もっとはっきり言えば、移民文化の無視。

だって、なんでフェニックスあんなに?

門外漢なので、これは識者の先輩がたに話を聞いてからでないと何ともわからないことではあるのだが。私としては、少なくとも音楽面に関しては、パリ・オリンピックは間違いなくワールドミュージックがひとつの大切な軸になると思っていた。
なぜ、まったくワールド色がないのでしょうか。
つまり、パリを代表する文化という前提のもとで、ワールド・ミュージック的な色あいが前面には出てこないのことの理由がしりたい。開幕式であれだけの強い自己主張を発して、そこに、炎上しようがお詫びしようが命がけで「表現」を守るフランス気質を見た思いがしたのは…あれは幻だったのか。と。

五輪閉幕式の音楽パフォーマンスというのは、限られた枠内であってもできる限りのダイバーシティ=幅を見せることがデフォルト。スーパーボウルのハーフタイムショウで、どんなベテランも20分間に自分の人生を詰め込んでみせるのと同じ。
そういう意味では、わざわざパリまで来て国歌を演奏したH.E.Rから始まって、LAでのビリー・アイリッシュ、レッチリ、スヌープ&ドレ(いつの時代だよ、という感じも含めてよかった)という顔ぶれは、ものすごく教科書どおりなのかもしれないけど世界に向けて発信するにあたっては完璧な並びだと思った。
それにしてもH.E.R.はめちゃかっこよかったな。

いや、フェニックスもいいですよ、いいんですよ。かっこいいですし。好きですよ。コッポラ家の婿としてアメリカつながりでもあるし(笑)。だけど、ブルース・フィーリングの希薄な(もちろんこれは希薄という個性なので、別に批判ではないです)フェニックスに、あとはエレクトロニカに、エレポップに、フレンチ・オリエンテッドなエキゾ。それらの音楽ひとつひとつを否定するわけでも、そのクオリティを疑うわけでもない。 オープニングのコーラスには、米グラミー常連であるザ・クロッシングのメンバーも入っていたというし。素晴らしいと思う。海外では無名に近い女性指揮者と、彼女が立ち上げたオーケストラが起用されたのもよかった。というわけで、あちこちに、さまざまな文化がまじっていたのは間違いない。ただ、フランスの移民文化の中で育まれたワールドミュージックというのは、アメリカにおけるロックンロールと同じくらいオリジナルを誇っていい文化ではないのか (とうようさんには「ちがーう!」と言われそうw)。なのに、まったくワールド色のない、くわえてフランスの伝統を作ってきたレジェンドたちの出演もない、ある意味“落とし所”としてフェニックスが何かの象徴のように輪の中心にいる感じの、そういうセレモニーのスタンスに、結局のところオリンピックが政治行事であることを思い出さずにはいられなかったわけだ。そして、そういったオリンピックのスタンスを、セレモニーに配された音楽たちが暗に定義しているようにすら思えた。

しかも、最後は「マイ・ウェイ」。フランスの歌でアメリカ人がヒットさせたからっていう、本当にそんな理由なのか(だとしたら、ポール・アンカも呼んであげて)。

♪Regrets, I had a few

おいおい(笑)。
審判をめぐるさまざまな出来事や、柔道での謎のルーレットが思い浮かび、「自分で言うな」とツッコミを入れずにはいられませんでした。
終わりよくなければ、すべてよくない。
以上、夏休みの作文でした。おわり。

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