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上野←→大宮 新幹線連絡専用

東京スケバン散歩・番外編/大宮、的な。

JRの駅コンビニNewdayで水を買ったら、これが185系という車両の40周年を記念したメモリアル・ボトルであった。
通勤から観光までさまざまな目的の路線で愛されてきた特急型車両の185型。旧国鉄時代の81年に誕生したが、今月3月に特急「踊り子」が引退。これで国鉄時代に製造された特急車両を首都圏で見ることはできなくなってしまうらしい。以上、電車のことは詳しくないのでググりましたが、もし間違っていたらご指摘ください。文末でも少しご紹介しましたが、さよなら185系のムックやグッズも出るなど今月はフェアウェル月間のようですね。
で、このメモリアル・ボトルには、車両に使われたさまざまなプレート(て、いうんでしょうか)がラベルにデザインされている。この中にひとつだけ、味もそっけもない「上野ー大宮 新幹線連絡専用」という文字だけのが混じっている。

これは、わずか3年ほどの期間だけ運行していた“リレー列車”というもの。82年に東北・上越新幹線が開業した当時は始発駅が大宮だったため、都内からの新幹線乗客を運ぶためだけの"リレー列車"が上野駅と大宮駅の間を走っていたのだ。その後、85年に上野発着線が開通するまでの暫定的なサービス運行だった。

その当時は東北新幹線に乗ったこともなかったし、当然、リレー号に乗ったこともなかった。ので、そんなことすっかり忘れていた。しかし、この「上野ー大宮」の文字を久々に目にしたら懐かしさがこみあげてきた。
まさに“こみあげる”という感じ。甘酸っぱい…といっても「甘」より「酸」の割合がはるかに高い懐かしさ。

大学1年生の1年間、大宮にあるキャンパスに通っていた。
都内の自宅からは、どうやっても片道3時間近くかかる。バスで山手線の駅まで行って、そこから池袋に行き赤羽線経由で高崎線に乗るとか、上野から京浜東北線に揺られるとかして大宮まで行って、そこからさらにバスで20分揺られてゆく。大宮の駅前にあるソニックシティなどは全国から“遠征”する音楽ファンにとって、もっともアクセスのいい会場のひとつとして人気があるし。今ならば、大宮まで通学・通勤しろと言われても何ひとつ不自由はない。が、当時はまだ埼京線も何もない時代である。今はかなり開発も進んでいると思うけれど、40年近く前は周囲を田んぼに囲まれた山奥のキャンパスだった。いちど着いたら、空いた時間に暇つぶしや勉強をするのは学食くらいしかない(みんな1年生で部室もない)。いちばん近いファストフードはバスで20分の駅前マック。

しかも、女子学生数は全体の1割という学部。私のクラスは女子ふたり。どちらも附属上がりだったが、私じゃないほうはJJに出てきそうなディス・イズ・女子大生なお嬢様だった。他のクラスも似たようなものだったのかもしれないが、私のクラスは特にクソだった。なぜなら、このクソみてぇなクラスは、こともあろうか我ら女子学生ふたりには内緒で「どっちがかわいいか選挙」をしたのだ。もちろんお嬢様が歴史的大勝利だったわけですが。その出来レース、何か意味があるのか? そして、なぜ私がそのことを知っているかというと、秘密の選挙の後で3人くらいが「俺はのうじさんに入れましたから!」とわざわざドヤ顔で励ましに来たからだ。あほかよ。
正直、もともと行ける学部はよりどりみどりの附属上がりなのに、たまたま進学テストの点数がよかったので調子こいて入ってしまった身の丈以上の学部で、周囲を見渡せば学習意欲まんまんの人たちばかりで、新入生の段階ですでに落ちこぼれる予感しかなかった。なぜこんなところへ来てしまったかという後悔と絶望と不安で心がいっぱいすぎたのと、通学と授業の疲労感がすごすぎて、その他の日常を細々と精査する余裕もなかったし、正直、そんなクソみてぇな投票などどうでもよかった。少なくとも3票は入ったのだからよしとするか、とすら思っていた。
が、今、こうしてあらためて書き出してみたら、腹が立ってきた。というか、その時に怒りもしなかった自分に腹が立っている。大学生なのだから、もうちょっと主張するべきだった。ましてや法学(略。ほかにも、体育の授業でいちばん楽な種目を選んだつもりが、身長2メートルくらいの男子ばかりのチームでバレーボールさせられて、コートの中をドッジボールみたいに逃げまどっていただけとか、とにかく、女子大に行きたかったとは思わないが、あの1年間の大学生活については納得いかない毎日というか、色のない世界というか、味のない食べ物というか。そんな感じだ。まぁ、遊びに行ってたわけじゃないから、それでもいいかと思っていたけど。それにしてもひどい。学校が、ではなく。自分が。

それを、往復5〜6時間かけて行き来していたわけだ。1限目がある日は、朝5時台に家を出なければならない。もちろん、そんな通勤・通学を普通にやっている人も大勢いらっさるので、まぁ、甘いっちゃ甘いんですけど、本当につらくて、で、私にとっては一生でいちばんまじめだった1年だったのです。
と、そんな通学生活における最大の敵が、前述の上野ー大宮間リレー号だった。
敵というか、ひがみというか、やつあたりなんですけど。

「ああ、あれに乗りさえすれば上野から大宮までひとっ飛びなのに」

朝、高崎線だか(京浜東北線かな)に乗っている時、隣を走るリレー号にびゅんびゅん追い越されるたびに思ったものだった。
これから新幹線に乗ろうという乗客たちが優雅にくつろいでいる(ように見える)光景がどれだけ羨ましかったことか。しかーし、このリレー号は東北新幹線の切符を持っている人しか乗ってはいけないのだ。上野から乗ると車掌さんが車内で検札して回るので、定期券でこっそりもぐりこんだりしようものなら無賃乗車と同等のことになる(のだったではないかと記憶している)。
が、われわれ学生の多くが地獄のような遠距離通学をしていたので、このリレー号はみんなの夢の乗り物であり、なんとかあれに乗って通学をしてやろうというチャレンジャーは後を絶たず、時々「あいつがつかまったらしい」みたいな噂がキャンパス内を駆け巡っていた。中には、検札のタイミングとパターンを分析して、車掌とは逆の流れで大宮まで移動するという荒技をやってのけたルパン3世みたいな強者までいたという(犯罪です)。
まぁ、ペットボトルのラベルを眺めていたら、ふと、そんなことも思い出して懐かしく、大学の思い出などを書こうと思ったものの…。楽しかったエピソードがまったく出てきません。申し訳ない。ああ、田渕由美子や陸奥A子の漫画や、竹内まりやの『ユニバーシティ・ストリート』に憧れていたはずなのに、まさかのアルカトラズ島刑務所みたいなキャンパス・ライフに…。


「昌三、わしら、どこで道まちがえたんかの」(『仁義なき戦い』)



あまり音楽の話とかもできなかったので友達は少なかったけれど、入学してすぐ、男子だらけのキャンパスをコムデギャルソンで闊歩するオシャレな女の子を見つけて「おおっ」と思って仲良くなった。ちょっと話していたら、YMOを追っかけていると知ってもっともっと仲良くなった。学食でサンストの佐野元春や教授の話をしたり、彼女が紹介してくれた学外の音楽友達と遊んだり、一緒にフランク永井やEP-4(時は1983年!池袋西武の駐車場ギグですよ)や新宿ルイード時代の大江千里を見に行った…。いやー、すごくないですか。フランク永井とEP-4と大江千里を一緒に見に行ける友達って、奇跡でしょう。彼女がEP-4の“5-21”ステッカーをどっさりくれて、一緒に大宮キャンパスのバス停に貼ったりしていた。わー、そう思うと、なんだかんだふつうに青春みたいなこともしてたよねー。て、それがふつうのことかどうかはともかくとして。

せっかく行った大学では何ひとつまともな成果を残せなかったし、大学時代のことは人にお話しできるような思い出はほとんどない。が、こうして振り返ってみると、それもやっぱり自分のストーリーのひとかけら。もし自分が大都会のおしゃれな大学に通い、ばりばり勉学にいそしみ、何か立派な論文のひとつも書いて、おまけに友達100人と毎日キラキラとJDライフを満喫していたとしたら、それはそれですごく幸せだったとは思うのですが、たぶんバス停にEP-4のステッカーは貼らなかったし、合コンで忙しくて新宿ルイードなんか行ってる暇はなかったし。まぁ、だから、これでいいのだ。と思う。だって、かわいい女子総選挙で大勝利を収めていたら、片道3時間の学校帰りに18歳の女子大生がひとりで沖至のインプロビゼーション見に行きませんよ(笑)。

と、思えば、今、これを読んでくださっているあなたと私のご縁も、大宮キャンパスでの日々がなければ生まれなかったわけで。そういえば先週、なんと、あの、米国クラシック界を代表する作曲家のキャロライン・ショウお嬢が私のツイッター・アカウントをフォローしてくれるという大事件があって、私としてはノーベル賞をもらったくらい感激したのですが(というか、今、全然関係ない話題だけどちょっと自慢したくて書いたんですが)、そのことだって以下同文。なので、損とか得とか、正しい選択、そんなこと誰にもわからないからどうでもいいんだよ。

何を言いたいのか自分でもよくわからなくなってきましたが、とにかく、偶然だろうが必然だろうが、クネクネと曲がりくねった道のような人生の中では、何が正解で何が不正解かは誰にもわからないんだね(と、自分に言い聞かせてみる)。


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