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第七章の64◎「隠さない文化」

 1800年前後の江戸の街の人口は、約100~120万人もありました。
同時期のロンドンの約90万人、パリの約60万人と比べて見ると、江戸は世界でも最大級の都市だったことがわかります。
当時の江戸市中は、現代のJR山手線の内側部分の狭いエリアで、しかもその約7割の土地が、御家人・旗本の御屋敷や、諸藩の御屋敷、さらに寺社のために独占されていました。
庶民たちは、残り3割の土地で暮らすことになりましたが、この非常に狭い土地で、多くの、しかも異なる個性の人々が暮らす江戸では、他人を尊重するマナー文化が自然に育ったのでした。
プライバシーのない長屋暮らしで、全てが丸見えだから、隠すことなど出来ない状態だったのです。
ですから生活する為に必要な事は、他人の目を気にしながら静かに暮らすという「テクニック」であり、フレンドリーに付き合う一方、他人の身の上を必要以上に詮索しない事が大切でした。
 江戸で暮らす者のマナーとして、名前や身の上を初対面の人に尋ねるのは失礼な行為でしたから、江戸時代では庶民も武士も、インターネット上のハンドルネームに相当するような「通り名」を持ち、状況に応じで名乗り分けていたのです。
そして、江戸時代に全体の8割以上を占めていた庶民は、裸にふんどし姿で仕事をする事も多く、おおらかで開けっ広げな性格だったから、「裸の文化」が普通でした。
そして、西洋的な「隠す文化」の羞恥心と、日本的な「マナーを破る」羞恥心とは、その価値観は全く異なっていたのです。
当時の江戸市中は、土地の狭さの問題で(とくに下町の)銭湯は混浴だったので、他人の裸に対しても「見て見ぬフリ」が大事でした。
また、銭湯の構造自体も混浴に配慮し、薄暗く、湯気がこもる構造となっていたため、ぼんやりとしか裸は見えないようにはなっていたのでした。
銭湯といえば、庶民の交流スペースというイメージがありますが、防火目的から武士の屋敷にも風呂がない場合も多く、身分を超えて人々が出入りしていました。
 当時の銭湯は、庶民の娯楽場・社交場であり、さまざまな文化や情報交換の場でもあったのです。
江戸時代は、文化に関しては上下の身分の差も関係無しとされていたから、たとえ武士といえども威張ってはいられず、大勢の人でごった返す時間帯の銭湯ではしきりに「声がけ」が行われました。
「冷えものでござい~(浴槽に浸かる前の身体です。ぶつかったらごめんなさい!)」という、決まり文句などがそれでした。
裸の文化は、言わば「心眼」の世界なので、肉眼で見て単純な反応を起こしてはいけないのです。
「心眼」で共鳴してこそ、心が反応するように精進を重ねなければならないのです。
江戸時代の、人情に厚い暮らしを営む中にも「見て見ぬフリ」をときにはする、ということが入っていました。
江戸時代のマナーの基本は「他人を尊重する」に尽きたのです。
たとえば、黒船とともに横浜近辺の下田に来港したことで有名な、アメリカのペリー総督。
彼は、下田の銭湯が男女混浴であり、なおかつ若い女性も平気で裸になることを知って、驚愕してしまいました。
『ペリー総督日本遠征記』に掲載された、男女が混浴している、さし絵は「日本人はいやらしい!」との誤解を、当時の欧米人に植えつけてしまったそうなのです。
それも、裸や裸の見せ方に対するマナーの違いに過ぎなかったのです。
ちなみに、肌を見せることに対して、江戸時代の日本人全体がおおらかだったのだと考えるのは間違いで、こんなエピソードも存在しています。
17世紀中盤の話ですが、三代将軍・家光が亡くなった際、彼と衆道の関係だった(つまり今でいえば、同性婚のパートナーのような存在だった)堀田正盛という武士が、殉死をしています。
その時、堀田は「家光様に寵愛された私の肌を、アカの他人に見せたくない」といって、着衣のまま、みごとに腹をかっさばいて果てたという、色んな意味ですごい話が、武士道のバイブル『葉隠』の中には出て来るのです。
もちろん『葉隠』では、それを褒め称えているのですが、男性であっても肌をみだりに見せないことが、亡き愛するパートナーにして主君への義理立てであり、マナーでもあったのです。
 ルース・ ベネディクトは、銭湯を「一種の受動的な沈黙の芸術」とよんでいました。
ペリーは「日本人は道徳的な民族だが、一方ではたしかに淫蕩である」と嫌悪感を示していますが、幕末のオランダ人医者ポンペは「彼らは性の区別を意識しないから、少しも見苦しくない」と書き記しているのです。
また、明治時代に日本に滞在したチェンバレンという人は「日本ではヌードは見られるが、眺めるものではない」と書いており、庶民の間では人前で肌をさらすことは、とりわけ淫らなこと、恥ずべきこととは意識されていなかったことが言えるのです。
 それは、表面だけを見ている植民地主義の者にはとても淫らな風景に映ったに違いがないのですが、本質が内面だと分かっていれば、外面的な裸を見られても「恥」では無いのです。
 江戸時代は混浴とはいっても、幕府の触れもあり「入込湯」といって浴槽の中を2つに仕切っていました。
もっとも上の方だけで、湯の中の下方は自由に行き来ができました。
しかし男と女では、入浴の時間帯が異なり(男は仕事帰りに、女は昼間)ということで、そう頻繁ということでもなかったのではないのでしょうか。
 ところで、女性湯に入る特権をもっていたのが、八丁堀の同心でした。隣の男風呂での会話に耳をすまし、情報収集にあたったようなのです。
江戸の風呂屋というのは「裸になってしまえば皆同じ」ということもあり、庶民の社交場・娯楽場であるとともに、大人が子供に教訓を授ける教育の場でもあったのです。
 1888年に来日し、15年間日本に暮らしたイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンは、『知られざる日本を旅して』の中で「日本人が伝統的な男女混浴をやめたのは、外国人の偏見による」と述べ、「日本では裸体は見てもよいが、見つめてはならない」と指摘しました。
しかし「沈黙の芸術」が残っている国は日本以外にもあったのです。
それはドイツやオランダなのです。イギリス人にとっては、文化的にも民族的にも関係がとても古い国であるはずのドイツに、ペリーやベネディクトが批判した「沈黙の芸術」が今でも存在しているのです。
 ドイツの混浴文化は、バーデンバーデンなどの温泉地だけでなく、旧東ドイツ地域も含めた全ドイツに跨っています。ここでの一番の特徴は、家族そろって混浴を楽しむ文化なのです。
 年頃の息子や娘が恥ずかしげもなく、家族の前で全てを曝け出す光景は、なんとも不思議であると同時に心配でもあるのですが、そんな心配を吹き飛ばすような、明るくオープンな家族関係は、人間本来の理想の姿なのかもしれません。
 また、大勢の前で全裸を披露し、優雅に堂々と歩く女性達の華麗な姿は、さしずめセレブそのものなのです。女性達もそんな、セレブ生活を満喫し皆で楽しんでいる様子なのです。
本当にうらやましい文化だと感じてしまいます。
それと同時に、本来裸は見せる為のもので有る事に気が付かされてしまうのです。色白で金髪も多いドイツ人の裸姿はとても自然な姿だからなのです。
しかしながら、大勢のドイツ人に混じり、日本人や東洋人が居ると、遠くに居てもお互いに直ぐに日本人であることが分かってしまうのです。もちろん肌の色や毛の色が違う事が、見分ける為の大きなシグナルである事は間違いないのですが、それだけでは無く、人間には同族を見分けるセンサーが備わっているようだからなのです。本来パートナーを選ぶのは、裸を見る事が最も良い情報になるのかもしれないと感じさせる現象かも知れません。
ですから、日本人同士と言う事が判ったとたんに、お互いに裸を見られる事が恥ずかしくなってしまうのです。しかしながら、全ての人々が紳士的にふるまうテルメの中では、恥ずかしがる事自体が恥ずかしい事になるので、お互いに知らんふりを決め込むのですが、そうは言っても全ての行動がぎこちなくなってしまうのが、なんとも面白い日本人の特徴なのかも知れません。
 男性と女性、上と下、表と裏という対立は常に動き続け、一定ではありません。
江戸時代の下着についてよく言われることは、禁制が厳しいために下着で贅沢をした、という見方なのです。
事実、上着と下着の区別がないはずの農民にいたるまで、木綿の縞の上着の下に、絹、縮緬の肌着や、紺や紅の木綿(基本は麻。木綿は贅沢品。染はなおさら高価)の下帯を使っていたことがわかっているのです。
為政者そのものが、上着に禁制をきびしく、下着の禁制をゆるくしていたためなのです。
贅沢をしていないかのようなふりを、みんなでしていたことの証拠になるのです。
もうひとつの疑問は、なぜ性はタブーであり隠さなければならないのか?と言うことなのです。
「お腹が空いた」「眠りたい」「トイレに行きたい」という会話は許されるのに、「SEXしたい」という会話だけは、タブーとされているのはなぜでしょうか。
それは煩悩だからなのか、そしてそのような会話によって、煩悩が抑えられなくなってしまうからなのでしょうか。西欧や、明治以降その影響を受けた日本は、性に関する事を隠す事で問題を解決しようとして来ました。
そして、問題が起こればその都度罰すると言う考え方なのです。
これに対して北欧諸国は、全てを自由でオープンにすることで、それらの問題を解決して来たのです。
また、性の手ほどきをする人や、正しい知識が教える仕組みがないのはなぜでしょうか?おそらく昔は、村全体でそのような役割が分担されていたはずなのですが、隔家族化に伴い、宙ぶらりんとなってしまった結果なのだと考えます。
そして本来は、性の手ほどきをするような教育を学校で教えるか、ボランティアが担当することが必要だと考えるのですが、これらも、日本のボランティア制度の遅れにより、対処できていないと言うのが実情なのではないでしょうか?


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